第2話「海峡を渡る、あの日の約束」
第2話「海峡を渡る、あの日の約束」
船内アナウンスの音で目が覚めた。
『まもなく新門司港へ入港いたします。お車、自動二輪車、軽車両のお客さまは――』
薄く開いたカーテンの向こうが白んでいる。時計を見ると午前六時前だった。
俺はベッドから起き上がり、顔を洗ってからデッキへ出た。朝の海風は思ったより冷たい。フェリーはゆっくりと、エンジンの振動を響かせながら岸壁へ近づいていた。
遠くに北九州の工場群の煙突が見える。クレーンが並び、巨大な倉庫が朝日に照らされている。旅の始まりにしては無骨な景色やったけど、不思議と嫌いではなかった。
(ようやく来たな……)
自然とそんな気持ちが湧き上がってくる。
会社を辞めてから一週間。退職届を出した日のことを思い出す。
「もったいないぞ」
と課長には引き留められた。
「少し休めば考え直すんじゃないか」
と部長にも言われた。だけれど、俺の考えは変わらんかった。
七年近く働いてきた。もう十分やと思った。これ以上続けても、自分が空っぽになっていくだけやと分かっていた。だから辞めた。それだけのことや。
だが、いざ辞めたあとに残ったのは、思い描いていた解放感よりも、底の抜けたような空虚さだった。
何をしたいのか分からない。どこへ向かうのかも分からない。そんな状態で俺は旅に出た。答えを探しているわけやない。ただ動いてみたかった。止まったままでいたら、そのまま腐ってしまいそうやったから。
◇
身支度が済んだ頃、フェリーは門司港に接岸した。車両甲板へ向かう乗客たちが動き始める。俺も荷物をまとめ、輪行を解いて待たせてあった愛車のもとへ向かった。
船腹のハッチが開き、眩しい朝の光が流れ込む。
自転車を押し、アスファルトの固い感触を足の裏に抱きながら、俺は九州の陸地へと降り立った。
ここから始まる。門司から西宮まで、およそ五百キロを超える長い旅路。
「よし……行くか」
サドルに跨がり、思い切りペダルを踏み込んだ。
まずは関門海峡沿いを東へ向かう。海沿いの道を走ると、フェリーの上とはまた違う、潮の匂いが鼻腔をくすぐった。行き交う大型トラック、港町独特の古い建物。まだ朝早いこともあって交通量は少ない。身体が温まるにつれ、「俺は今、旅をしている」という実感が少しずつ、しかし確かに湧いてきた。
レトロな倉庫群の向こうに、すぐ関門海峡が見えている。対岸には下関の街が、山の麓に張り付くように広がっていた。
狭い海峡を、巨大なコンテナ船が潮流に抗うように行き交う。その流れの速さに驚きながら、海を眺められる広場で自転車を止め、自販機で買った缶コーヒーを喉に流し込んだ。
その時、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
画面を見ると、ディスプレイには『父』の二文字。思わず眉をひそめる。数秒迷った末、通話ボタンを押す気にはなれず、そのままメッセージだけを開いた。
『仕事は決まったのか』
用件だけの、そっけない一文。
「相変わらずやな……」
俺は冷めた缶コーヒーを見つめながら苦笑した。心配しているのは分かる。でも父は昔からそうだった。とにかく言葉が足りない。何を考えているのか分からない。
大学進学の時も、就職の時もそうだった。そして、事後報告になってしまった今回の退職を伝えた時も。結局、これまでの人生で一度だって「お前の好きにしろ」とは言ってくれなかった。俺の意思なんてハナから伝える気が失せるくらい、いつも一方通行だった。いや、俺の側が最初から伝えることを諦めて、心を遮断していたのかもしれん。
スマートフォンをポケットの奥へ押し戻す。もちろん、返信はしない。今はそんな気分になれなかった。
再びペダルを漕ぎ出し、関門海峡が一望できる場所まで来た。そこからは、巨大な関門大橋が朝日に輝く姿が美しく見えた。こんな絶景、会社を辞めて時間ができた今だからこそ、こうして足を止めてゆっくり観られるのだろう。
海の向こうには本州。これから俺が進むべき道が、どこまでも続いている。
関門海峡を自転車で渡るには、どうやら『関門トンネル人道』を進むしかないようだった。
エレベーターで地下へと降りる。ひんやりとしたコンクリートの通路を眺めていると、不意に、小学生の頃に教科書や地図帳を開いて広げていた古い記憶が呼び覚まされた。
(そういえば、いつか自転車で遠くまで旅するのが夢やったな……)
あの頃、この関門トンネルを通ることや、当時できたばかりだった『しまなみ海道』を旅することを、ノートに一生懸命計画していた。
そして――「大人になったら、一緒に瀬戸内海を旅しよう」と、誰かと熱っぽく約束していたような、おぼろげな記憶の残骸が胸をよぎる。
残念ながら、それが誰だったのか、今の俺には思い出せなかった。
トンネル人道の中は、ルールとして自転車を押して歩かなければならない。凄まじい地下の苦行になるかと身構えていたのだが、黙々と歩を進めていると、思ったよりもあっさりと本州側(下関)の出口へと辿り着いてしまった。
本州の地を踏み、俺は再び自転車に跨がる。
今日の目的地は、防府の手前にある宇部だ。十八年ぶりの山口県。不思議なほど、これまでの仕事でもプライベートでも、一度も訪れる機会がなかった土地。
ここは、俺にとって思い出の残骸を探す場所だ。同級生の連絡先なんて一つもない。誰がどこで何をしているのかも知らない。中学の時、火事で全部無くした。
当然、幼馴染みだった美樹の居場所だって分かるはずがなかった。今さら奇跡みたいに会えるなんて、これっぽっちも思っていない。
ただ、あの頃住んでいた家はまだ残っているだろうか。あの公園は。あの商店街は。
何か一つでも、自分がかつてそこに生きていたという痕跡、昔を思い出せるものが残っていれば、それだけで今の俺には十分な気がしていた。
海峡を背にして、ひたすら東へ進む。
下関の市街地を抜けると、すぐに長府の街へと入った。
少し昼飯時には早いけれど、ここで何か食べておかないと、宇部にたどり着くまでに飲食店はほとんどないはずだ。都会育ちの人に説明してもなかなか理解してもらえないのだが、地方の幹線道路を走る際、食事処の位置をあらかじめ把握しておくことは、サバイバル術における必須科目と言っていい。
「ファミレスなら、この時間でも開いとるか」
見つけたチェーンのファミリーレストランに滑り込み、まだ提供されていたモーニングセットで手早く腹ごなしを済ませた。
長居はせず、すぐに会計を済ませて外へ出る。再び東へと自転車を進めた。
ペダルを踏み込むたびに、チェーンが小気味よい音を立てる。
見上げれば、雲一つない青空がどこまでも広がっていた。
旅は、まだ始まったばかりだった。




