第1話「防府の夜と、旅立ちのペダル」
『瀬戸の約束【十一歳の約束、二十九歳で果たす】』あらすじ
この物語は、仕事の失敗に疲れ果ててIT企業を退職した主人公太田涼太が、自分を見つめ直すために門司から実家のある西宮へと自転車で瀬戸内を辿る旅に出ることから始まる。その途上、少年時代を過ごした山口県防府市で、十八年もの間彼を待ち続けていた幼馴染の瀬戸口美樹と奇跡的な再会を果たす。美樹は涼太への一途な想いを抱き続け、毎週防府天満宮で再会を祈りながら、孤独な歳月を過ごしてきた。彼女の支えになっていたのは初恋の涼太に対する想いと「タイムカプセル」に納められた手紙だった。
幼い二人はその手紙に、大人になったら瀬戸内海を旅することと、三十歳までにお互い独身ならば結婚することを約束していたのだ。
涼太は彼女の深い想いを知ることで、自らの人生と向き合う覚悟を決め、母との確執を抱える彼女を支えるために高松へと向かうことを決意し、自らもずっと避けていたオトンとちゃんと向き合うことを決意する。
この物語は、失われた時間を取り戻し、新たな未来へと漕ぎ出す二人の「再生と約束の旅」を描いているが、涼太と美樹の二人はどんな未来を描くのだろう。前後編で紡ぐ話の、前編。
JR西じゆうに大賞1 HJ大賞7 BWK大賞1 BK小説大賞2 集英社小説大賞7
第1話「防府の夜と、旅立ちのペダル」
「ねえ、涼太。ホンマに……ホンマに涼太なんよね?」
すりガラス越しの街灯が優しく照らす、防府の小さな居酒屋のカウンター。
隣に座る美樹が、少しお酒の入った潤んだ瞳で俺を見つめている。十八年の歳月は彼女をすっかり綺麗な大人の女性に変えていたけれど、その真っ直ぐな眼差しは、あの頃の小さな少女のままだった。
「何回言うねん。偽物に見えるか?」
俺が呆れたように笑うと、美樹は「だって、夢みたいじゃけえ」と、愛おしそうに自身のグラスを弄んだ。
「十八年間、ずうっと待ちよったんよ。毎週、天神様にお祈りしよったんじゃから。……もう、どこにも行かんでね」
その言葉の重みに、俺の胸の奥が熱くなる。
三十歳を目前にした無職。社会的ステータスなんて何一つない今の俺を、彼女はただ『太田涼太』であるという理由だけで、十八年間も信じて待ち続けてくれていた。
(一体どうして、俺たちはこんな奇跡みたいな夜を迎えているんやろうな……)
カウンターに置かれた美樹の小さな手に、そっと自分の手を重ねる。
その温もりを感じながら、俺の意識は、全ての始まりだった一ヶ月前の「あの日」へと急速に引き戻されていった。
◇
船尾から伸びる白い航跡が、夕暮れの瀬戸内海をゆっくりと切り裂いていた。
俺――太田涼太はフェリーのデッキに立ち、手すりにもたれながら海を眺めていた。
大阪南港を出港してから十数時間。船は幾つもの島影を横目に西へ進み続けている。
小豆島、家島諸島、備讃瀬戸……。シルエットしか見えない、名前だけは知っていた場所が目の前を流れていく。マジックアワーと呼ばれる日没後の世界。空はピンクとも、紫とも形容しがたいグラデーションに変わっていったが、大阪の方向を振り返るとすっかりと夜の色に沈んでいた。
海は驚くほど穏やかだった。
「瀬戸内海は湖みたいやな……」
子供の頃、誰かがそう言っていた記憶が不意に蘇る。潮風を受けながら、俺は小さく息を吐いた。
二十九歳。先月まで会社員だった。
七年近く勤めたIT企業を退職し、有給消化も終えた。連日の徹夜とクレーム対応で気力も体力も限界まで擦り切れ、ベッドから起き上がれなくなった果ての退職だった。
次の仕事は決まっていない。再就職する気はある。だが、今は少しだけ立ち止まりたかった。働き続けることだけを考えて過ごした七年だった。気が付けば、自分が何を好きだったのかさえ曖昧になっていた。
だから、旅に出た。
門司港から実家のある兵庫県西宮まで、乗り慣れたロードバイクで瀬戸内を東へ辿る自転車旅。限界まで、漕ぎ続ける。そのために、まずはフェリーで門司へ向かっている。
だが、本当の目的は別にあった。
山口県防府市。
小学校三年生から五年生まで過ごした街。父の転勤で住んだ土地だった。
小学五年の三学期に西宮へ戻り、それ以来一度も訪れていない。同級生とも連絡は途絶えた。子供が携帯電話など持たない時代だった。引っ越せばそれっきり。それが当たり前だった。
(防府におったみんなは、今どうしとんのやろな)
結婚したのか、地元に残ったのか、それともどこか別の土地へ行ったのか。
誰一人として連絡先を知らなかった。
そして、もう一人。自然と思い出す顔があった。
――瀬戸口美樹。
隣の家に住んでいた幼馴染み。毎日のように泥だらけになって遊んでいた女の子。男勝りでよく笑い、よく怒り、誰よりも負けず嫌いだった。
だが、彼女も小学校六年の途中、父親の仕事の都合でどこかへ引っ越してしまったらしい。それ以来、一度も会っていない。どこへ行ったのかも、今何をしているのかも知らない。
同じ二十九歳。結婚して、子供がいてもおかしくない年齢だ。もしかしたら、街ですれ違ってもお互いに顔すら分からないかもしれない。
それでも。
防府へ行けば、何か分かるかもしれないと思った。
当時住んでいた家や、あの街にしか無い独特の空気感。俺の原風景。
誰かが当時のことを覚えているかもしれない。何か痕跡が残っているかもしれない。そんな期待にもならない期待を抱いていた。
我ながら馬鹿げていると思う。二十年近く前の人を探そうとしているのだから。
だが、今の俺には、そういう理由で旅をすることが必要だった。
失くしたものを探すように。
置いてきた時間を拾い集めるように。
船はゆっくりと西へ進む。空は完全に夜の帳に包まれ、遠くの島々の灯りが星のように瞬き始めていた。
明日の朝には、門司へ着く。
そこから、俺の新しい旅が始まる。
懐かしい街へ。遠い記憶へ。そして、まだ見ぬ未来へ。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。
防府で探そうとしているあの幼馴染みが、俺のことを一瞬たりとも忘れていなかったことを。
ずっと、十八年近くもの間。
あの天神様の前で、再び出会える日を信じて、俺を待ち続けてくれていたことを。




