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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第33話「天神様への報告」

第33話「天神様への報告」


午後四時少し前。

メモに書かれていた通りに美樹の働く小さな食堂へと向かった。


歩道の真ん中で三毛猫が毛繕いをしている。のどかな街だ。


(あ、自転車を預けっぱなしだったホテルに立ち寄らないと……帰りでいいか。今年中には美樹と一緒にしまなみ海道走りたいなぁ)


そんなことを考えながら歩いていると、間もなく店の前に到着した。

ちょうどのれんを片付けようとしていたエプロン姿の美樹が、俺の姿を見つけて「あ!」と嬉しそうに手を振る。


「……おはよう、美樹」


「ハア? もう夕方じゃろ。何が『おはよう』かね」


「お前が起こしにこおへんから、起きたの昼過ぎやねんぞ」


「それは知っとるよ、ウチがわざと寝かせといたんじゃもん」


美樹はくすくすと悪戯っぽく笑った。


店内に入ると、ちょうど昼営業の片付けや掃除が全て終わったところだった。

厨房や客席には、美樹の同僚や、昼下がりの営業を終えて談笑していた顔なじみらしい常連客たちが残っており、入ってきた涼太の姿を見た瞬間、全員が一斉に意味ありげなニヤニヤとした笑みを浮かべた。


「おっ、美樹ちゃん。もしかして、噂の彼氏さん?」

厨房の奥から、エプロンをつけた年配の男性が声をかけてくる。


すると美樹は、俺の腕をぎゅっと掴んで、なんの躊躇いもなくさらりと言い放った。


「ううん、彼氏じゃなくて『婚約者』よ」


その堂々とした一言に、店内が一瞬にして「えっ!?」と激しくざわついた。次の瞬間、割れんばかりの歓声が沸き起こる。


「おおーーっ! ほんまに!?」


「おいおい、やっとかよ美樹ちゃん!」


「いやぁ、長かったなぁ! ほんまにおめでとう!」


口々に飛び交う熱い祝福の言葉の嵐に、俺は完全に圧倒されて驚くしかなかった。


「……おい、ちょっと待てや。何やねんこれ、なんでみんなそんな盛り上がってんの?」


「だってみんな、最初から全部知っとるもん」

美樹は全く悪びれる様子もなく、平然とした顔で言う。


「何をだよ」


「ウチが毎週、天神様に通って何をお願いしよったか」


その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に猛烈に嫌な予感が走った。

常連客の一人が、ビールグラスを片手にハハハと豪快に笑いながら、俺の肩をポンと叩いた。


「いやぁ、兄ちゃん! あんたを待つ間、周りのウチらも本当に大変だったんだぞ?」


「え……? どういうことですか?」


「この子さ、ここで働き始めた四年前からずっと、休憩時間や休みのたびに天神様へお参りに行っては、『涼太に会わせてください』って周囲に公言して祈り続けてたからな。防府の商店街の人間で、美樹ちゃんのヒーローの名前を知らん奴は一人もいねえよ!」


俺は思わず、目を見開いて隣の美樹の顔を見た。

先ほどまで勝ち誇ったような顔をしていた美樹は、嘘みたいに耳の裏から首筋まで真っ赤に染め上げていた。


「わーーっ! おっちゃん、余計なこと言わんでよ!」

美樹は真っ赤になった顔を隠すようにして大声を上げ、常連客をパタパタと手で追い払う。その健気で可愛らしい慌てっぷりに、店内にいた全員からドッと温かい笑い声が沸き起こった。



エプロンを外し、仕事を終えた美樹と二人。

俺たちは並んで歩き、全ての約束の場所である、夕暮れの防府天満宮へと向かった。


重厚な石段の下に立ち、一歩ずつゆっくりと登っていく。

小学生の頃、学校が終わるとランドセルを放り出して、二人で「競争や!」と言って何度も何度も、息を切らせて駆け上がった懐かしい石段だった。


「……涼太、覚えちょる?」

美樹が、石段の途中で立ち止まって、夕陽を見上げながら呟いた。


「ん? 何をよ」


「昔、ここであった節分祭のこと」


「あぁ……」

言われて、脳裏の奥に眠っていた古い記憶の引き出しが開いた。


「思い出したわ。お前、撒かれた豆を必死に拾おうとして、勢い余って石段の前の境内で派手に転んで大泣きしたよな」


「そう! 涼太がウチを突き飛ばしたんじゃけえね!」


「突き飛ばしてへんわ! お前が勝手に自爆したんやろ。そのあと、二人で泣き止むためにお小遣い出し合ってお守り買ってさ」


「うん。境内の屋台で、半分こして食べた焼きそば、すっごく美味しかったなぁ」


どんなに長い時間が経っても、忘れていたはずの大切な記憶が、この防府の空気を吸うだけで、パズルのようにはっきりと鮮烈に蘇ってくる。


夕暮れ時の防府天満宮の境内は、ひどく静まり返っていた。この時間になると、観光客の姿もほとんど見当たらない。


立派な鳥居をくぐり、俺たちは朱色に輝く本殿の前へとゆっくり進み出た。賽銭箱の前に、二人は並んで立つ。


「……よし、天神様にちゃんと報告しようか」

美樹が静かに、でも愛おしそうに言った。


俺は「おぉ」と深く頷いた。


二人の手で、太い紐を引いてガラガラと大きな鈴を鳴らす。賽銭箱に小銭を落とし、二人は並んでパンパン、と静かに二拍手を打った。

そのまま、そっと手を合わせて目を閉じる。


暗闇の中で、俺の胸の奥に最初に浮かび上がってきたのは、天神様へのこれ以上ない深い『感謝』の気持ちだった。


限界を迎えて大阪の会社を辞めたことも。瀬戸内を旅するために門司から自転車を漕ぎ出したことも。引き寄せられるようにしてこの防府の街へ立ち寄ったことも。

あの瞬間は全てがただの偶然の連続だと思い込んでいたけれど、今なら分かる。この美樹の一途さに導かれた、必然のルートだったのだと。


(天神様。俺をもう一度、この子の前へと導いてくれて、ほんまにありがとうございました)

まずは心の底から、そう静かに告げる。


そして、胸の前で握りしめた手に、さらにぎゅっと力を込めて、俺はもう一つの誓いを心の中で強く唱えた。


(天神様。俺、この瀬戸口美樹を、何があっても、一生かけて必ず幸せにします)


隣にいる、愛おしい女性のことを想う。

十八年もの間、俺という存在だけを、実在するかも分からない過去の男を、ただ一途に待ち続けてくれた人。


いつか絶対に逢えると、信じ続けて毎週この境内に通い詰めてくれた人。

その彼女を、今度は俺の全てを懸けて、誰よりも世界一幸せにしたい。それこそが、今の俺の、これからの人生における一番の強い願いだった。


そこまで祈ってから、俺は少しだけ頭を悩ませ、照れ隠しに小さくもう一つだけ祈りを付け加えた。


(……それと、できれば早めの、良い条件での再就職もよろしくお願いします)


思わず、心の中で自分で苦笑してしまった。人生大勝負のプロポーズの直後に、天神様に向けてあまりにも現実的すぎるおねだりだ。だけれど、愛する人を守っていくためには、何よりも大事で切実なことやった。


静かに目を開き、横を向く。

すぐ隣では、美樹も長かった参拝をちょうど終えたところで、ふぅと優しく息を吐いて手を下ろしていた。


「なぁ美樹、お前、今天神様に何お願いしたん?」

俺がからかうようにして訊ねる。


「秘密。天神様との約束じゃもん」


「なんやそれ、ずるいわ。俺はちゃんとお礼言うたで」


「嘘。涼太だって、どうせウチには全部は言わんじゃろう? 再就職のこととかさ」


「……なんで分かんねん。お前、ほんまエスパーかよ」


図星を突かれて俺が呆れると、美樹はあははと楽しそうに声を上げて笑った。

二人は本殿の前を離れ、防府の街が一望できる石段の脇の展望スペースへとゆっくり移動した。沈みゆく大きな夕陽が、広大な境内と、俺たちを真っ赤に優しく照らし出していた。


すると、美樹が街の灯りをじっと見つめながら、ぽつりと静かに呟いた。


「……本当に、涼太に逢えたね」


「おぉ。ほんまに、奇跡みたいに逢えたな」


「私はね、離ればなれになったあの日から、ずうっと絶対にまた逢えるって信じちょったよ」


俺は優しい苦笑を浮かべた。

「普通さぁ、十八年も音信不通やった男のことを、そこまで信じられるか? お前、ほんまにバカやで」


「ええじゃん、大バカで。だって、逢いたかったんじゃもん。じゃけえ、毎週こうしてここに来とったんよ」


「……ほんまに、毎週欠かさず来とったんか?」


「うん。雨の日も、雪の日も、仕事でぶち疲れて動けん日も、ここだけは絶対に来よった」

美樹は、オレンジ色から紫色へと移り変わる美しい防府の空を、愛おしそうに見上げた。


「最初はね……涼太、西宮で元気におるかねぇ、くらいの気持ちじゃったんよ。火事の跡を見てからはどうか生きてて下さい、じゃったし。でもね、二十歳を過ぎて、周りの友達にどんどん彼氏ができたり結婚したりしていくのを見とるうちにさ……」


彼女は少しだけ照れくさそうに、切ない笑みを浮かべた。

「気づいたら天神様への言葉が、『どうか、もう一回だけ涼太に逢わせてください』になっとったんよ」


「……重いわ。お前の愛、ほんまに底なしに重すぎるわ」


「うん、重いよ! 自分でもぶち重い重い女じゃって分かっとる!」

本人もあっけらかんと、潔くそれを認めて胸を張ってみせた。


「ウチね、ここを離れて福岡の会社におったときもさ、休みの日はわざわざ太宰府天満宮までお参りに行っちょったんじゃけえね」


「はは、まぁ同じ学問の神様、菅原道真公やからネットワークは繋がってるかもわからんけどな。出張参拝かよ」


俺が突っ込むと、美樹は「そうよ、神様の横の繋がりを信じたんよ! 高松でも天満宮選んだし」と言って、二人で声を合わせて大笑いした。


心地良い初夏の風が吹き抜ける、防府の美しい夕暮れ。

子供の頃から何度も、何百回と見てきたはずのありふれた故郷の景色が、隣にこの愛おしい婚約者が並んでいるというだけで、まるで世界で一番特別な、まばゆい空間のように見えた。


「……なぁ、美樹」

俺はポケットに手を突っ込んだまま、静かに前を向いて切り出した。


「ん? 何ね、涼太」


「俺さ……これから、この山口や防府のあたりの求人も、本気で色々と探して見てみるわ」


美樹がハッとしたように勢いよく振り返り、その大きな瞳を驚きに見開いた。

「えっ……!? ほんまに!? 涼太、大阪に戻らんでもええの?」


「あぁ。もちろん、まだ仕事が見つかるかっていう約束はできへんけどな。やっぱり俺のキャリアもあるし、色んな条件を見なあかんから」


「うん……!」


「でも、これからの俺たちの未来を考えた時、この山口の街で、お前と一緒に暮らしていく選択肢を、一番に考えてみたいんや」


防府。山口。瀬戸内。

ここには、俺が失くしてしまったと思い込んでいた、人生の大切な思い出も、温かい絆も、想像していた以上にたくさんのものが、今も変わらずに美しいまま残っていた。


そして何よりも――今の俺には、この街に、美樹の隣に、他のものを失ってでも「帰りたい」と思える最高の理由ができたのだから。


美樹は、もうそれ以上は何も言わなかった。

ただ、溢れそうになる嬉し涙を必死に堪えながら、これ以上ないほどに晴れやかで、最高に可愛い笑顔を咲かせてくれた。言葉なんてなくても、その笑顔だけで、彼女の感謝と喜びは十分にすぎるほど俺の胸に伝わってきた。


ゆっくりと歩調を合わせ、二人は静かに天神様の石段を下りていく。

大きな夕陽は山の向こうへと完全に沈みかけ、街の灯りがぽつぽつと美しく輝き始めていた。


それは、まるで夜の滑走路のように、これから二人が行く一本の道を示しているようだった。


――いつか、絶対ここに戻って来よう。もしかしたら、すぐには無理かも知れない。一旦大阪で再就職してからじゃないと生活が成り立たないかも知れない。でも、きっと防府に戻ってくるのが、美樹のためだけでは無く、俺のためにも正解なんや。


「帰る場所」は、ここだ。


……取りあえず大阪にすぐ戻って、色々片付けてここに戻って来よう。美樹の隣へ――。


二人はお互いの手を自然とぎゅっと強く握り締め、寄り添いながら歩き出した。

夕闇に包まれていく、愛おしい防府の街へ。


そして、二人の手で新しく紡いでいく、未来のルートへ。

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