第32話「防府に、帰ろう」
第32話「防府に、帰ろう」
神戸の、海の見えるホテルの部屋で一泊した翌朝。
ゆっくりと目を覚ました俺は、すぐ隣の枕でまだすやすやと眠っている美樹の、愛おしい寝顔をじっと見つめていた。
彼女の細い左手の薬指には、朝の柔らかな光を反射してきらきらと輝く指輪。
昨日の夕暮れ時、あの西宮の静かな海辺で交わした生涯の約束が、決して消えてしまう夢なんかではなかったのだということを、何よりも確かに教えてくれていた。
やがて、まぶしそうにしながら美樹がうっすらと目を覚ました。
「……ん、涼太。おはよう」
「おはよう、美樹」
お互いに顔を見合わせて、少しだけ照れくさそうに微笑み合う。お互いに、まだ『婚約者』という新しすぎる響きの言葉に、どこか気恥ずかしくて慣れていない。
でも、胸の奥を占めるその感覚は、決して嫌な感じではなかった。むしろ、ジグソーパズルの最後のピースがピタリと収まったかのように、あまりにも自然で、当たり前のことのように思えた。
「なぁ美樹、今日からどないする? どこ行きたい?」
俺が尋ねると、美樹はシーツを胸元まで引き上げながら、至極当然のように即答した。
「防府、帰る」
「防府へ? 一気に山口まで戻るんか?」
「うん」
美樹はベッドの上に上半身を起こすと、いつものように悪戯っぽく、ハッとするほど綺麗に笑った。
「だってさ、ウチらの旅、まだ一番大事なことが終わっとらんじゃろ?」
「一番大事なこと……?」
「天神様」
その一言を聞いた瞬間、俺は「あぁ、なるほどな」と全てを察した。
「おぉ、そうやな。ちゃんと報告しに行かなあかんな」
「うん、ちゃんと二人揃って、天神様に『逢えたよ』って報告せんとね」
確かに、彼女の言う通りだった。
俺たちのこの運命的な再会の始まりは、あの防府の小さな定食屋だった。そして、美樹が十八年もの間、寂しい現実の影でただ一途に、願いを捧げ続けていた場所もまた、あの防府天満宮の境内だった。
ならば俺たち二人の、瀬戸内の旅のルートが、最後に美しく戻るべき本当の場所も、あの防府の街をおいて他にはないのかもしれない。
◇
チェックアウトを済ませてホテルを出ると、美樹の白いコンパクトカーは、再び高速道路へ乗ってひたすら西を目指して走り出した。
お洒落な神戸の街並みを一気に駆け抜け。
昨日二人で柳並木を歩いた岡山を越え。
巨大な広島の街を通り過ぎていく。
時折、フロントガラスの向こうや車窓の右側に、きらきらと穏やかに輝く瀬戸内海の美しい青が一望できた。門司からがむしゃらにペダルを漕ぎ出した旅の始まりの頃には、その風景の見え方が違っていた。
今ではなぜか、俺たちの現在を優しく包み込んでくれる、どうしようもないくらいに愛おしくて懐かしい故郷のように感じられた。
途中のサービスエリアで何度も名物を食べたり休憩を挟んだりしながら、車を西へ西へと走らせていくうちに、気が付けば周囲はすっかり帳が下りて、静かな夜の闇に包まれていた。
◇
ナビの時計が午後十一時過ぎを指した頃、美樹の車はついに、全ての始まりの街、防府へと滑り込んだ。
「……ただいま」
美樹がサイドブレーキを引きながら、ぽつりと小さく呟いた。
誰に聞かせるでもない、ひどく穏やかな声だった。
アパートの前に車を駐め、階段を上って彼女の部屋の鍵を開ける。
初めて見る美樹の一人暮らし「1DKの部屋」。なんの装飾も無い、整った部屋。
(美樹のいる部屋って、心地いいな。こんなところで二人暮らしたいな……)
部屋の灯りを見つめながら、俺は胸の奥を温かい塊で満たされるようにして、静かにそんな未来を考えていた。
「うわぁぁ……疲れたぁぁ……っ!」
美樹が玄関にスニーカーを脱ぎ捨てるようにして、鞄を床にぽんと置いた。
「ほんまにな。俺も流石にクタクタやわ」
俺もその場に座り込んで、心の底からの本音を漏らした。
ここ数日の間、俺たちの感情の起伏はあまりにも激しすぎた。
防府での劇的な再会に始まり、高松でのあの過酷な母と娘の涙の和解。新居浜で過去の炎上との最悪な邂逅。そして、西宮の海でのプロポーズと、実家のオトンとの対峙。
心も身体も、とうに限界に近いほどの心地良い疲労困憊のピークに達していた。
「お風呂、沸かして入る……?」
「……いや、無理。一歩も動けへん」
「ウチも同感。パス!」
二人で顔を見合わせて、泥のように疲れ果てた顔のまま、可笑しそうにケラケラと笑い合った。
そして二人は、着替えをすることすら忘れて、そのままリビングの奥にあるベッドへと雪崩れ込むようにして倒れ込んだ。
美樹のアパートにあるシングルベッドは、決して大きくはない。大人の男女二人で並んで横になるには、お互いの身体を限界まで密着させなければ収まらないくらいに狭かった。
だが、今の俺たちには、そんなことに文句を言う気力も意地も、爪の先ほども残っていなかった。
「……狭い」
「お前が言うなや。俺のほうが身体大きいねんから窮屈やわ」
「ええじゃん、ウチらもう正式な婚約者じゃけえね」
「お前、ほんま都合のええ時だけそれ使うな。便利な言葉やな」
「うん、すっごく便利!」
暗闇の中で、くすくすと満足そうに肩を揺らして笑う可愛い声。
次第に、その愛おしい声も、夜の静けさに溶け込むようにして小さくなっていく。美樹が潜り込むようにして、その温かい頭を俺の肩口へとそっと預けてきた。
驚くほどに温かくて、心の芯から安心する。
彼女の心地良い体温に包まれているうちに、俺の瞼は重力に負けるようにして、急速に重くなっていった。
遠くのバイパスの方から、かすかに救急車のサイレンの音が小さく響いて聞こえてくる。アパートの前の夜道を、誰かがトボトボと家路へと歩いていく微かな足音もする。
それは、俺がずっと忘れていた、この防府の街のありふれた、でも愛おしい夜の日常の音だった。
そして俺は、彼女を両腕でぎゅっと抱きしめたまま、いつの間にか深い、深い眠りの底へと落ちていた。
◇
ガタン。
静まり返った部屋の突風に揺られたかのような、玄関のドアが静かに閉まる鈍い音で、俺はハッと目を覚ました。
カーテンの隙間から、既に眩しいほどの太陽の光が室内に溢れている。朝――かと思ったが、枕元のスマホの時計を見ると、針は午前十時を少し回ったところを指していた。
「やっば……めちゃくちゃ寝過ごしたわ……」
思わず誰もいない空間に呟く。だけれど、身体の重みは驚くほどに軽かった。大阪の会社を辞めて旅に出てから、いや、社会人になってからの七年間の中で、これほどまでに何のプレッシャーもなく、泥のように深く、心地よく眠れたのは初めてのような気がした。
ゆっくりと上半身を起こし、静まり返った部屋を見回してみる。
当然、先ほどまで俺の腕の中にいたはずの美樹の姿は、どこにもなかった。
ベッドの左側のシーツに残っていた彼女の確かな温もりも、既に綺麗に消え去っている。代わりに、リビングの中央にある小さなテーブルの上に、丁寧に透明なラップがかけられた、いくつかの白い皿が綺麗に並べられていた。
綺麗な黄色をした、出汁の匂いが漂ってきそうな卵焼き。
香ばしく焼かれた、肉厚の焼き鮭。
お豆腐とワカメの入った、温かいお味噌汁。
そして、ホカホカのご飯を丁寧に握った、大きなおにぎりが二つ。
そのお皿の横には、一枚の小さなノートの切れ端のメモが置かれていた。
そこには、いかにもあいつらしい、丸っこくてあどけない文字が並んでいた。
『食堂行っとる』
『ご飯ちゃんと食べてね』
『暇なら、アルバム見てもいいよ』
『4時に店おいで』
『美樹』
俺はメモを読み終えると、胸の奥から愛おしさがこみ上げてきて、思わずフッと声を上げて笑ってしまった。
「なんやねん、これ。ほんま至れり尽くせりかよ」
言いながら、ふと視線をメモのすぐ横へと向ける。
そこには、表紙の角が少しだけ擦り切れた、一冊の古びた大きなアルバムが、ぽつんと静かに置かれていた。
俺はベッドから這い出て、そのアルバムを手に取り、畳の上に座ってゆっくりと最初のページを開いた。
懐かしい、セピア色になりかけた写真の数々。そこに写っていたのは、まぎれもない、俺たちが小学生の頃の、防府での日常の光景だった。
汗だくになって泥だらけで走った、小学校の運動会。
みんなで並んでお弁当を食べた、遠足の時の広場。
お正月に親たちに連れられて行った、あの防府天満宮での初詣。
浴衣を着てラムネを持った、賑やかな夏祭りの夜。
夏休みに秘密基地を作って遊んだ、近所の佐波川の堤防。
放課後に毎日暗くなるまで鬼ごっこをした、ちっぽけな公園。
そして――。
驚くべきことに、そのアルバムのどのページをめくっても、どの写真の真ん中にも、必ず、真っ黒に日焼けしたクソガキの俺の姿が写っていた。
「……」
次のページをめくる。やはり、そこにも美樹の隣でピースサインをしている俺がいる。
さらにその次のページをめくっても、俺と美樹の姿が鮮明に残っている。
美樹の隣には、どんな思い出の瞬間であっても、いつも当たり前のように俺が寄り添って笑っていた。
泥だらけになった潮干狩りの時の写真。
神妙な顔で法被姿の秋祭りの写真。
珍しく雪が積もったときの、一緒に作った雪だるまとの写真。
今となっては俺の脳内からはすっかり抜け落ちてしまっていた、他愛のない、だけれど何よりも輝いていた二人の日常の全てが、その一冊の中に奇跡のように閉じ込められていた。
そして、俺はハッと重要な事実に気が付く。
俺は、火事で思い出を失い、大阪での過酷な日々に追われるうちに、この美樹との大切な宝物のような時間を、全て忘却の彼方に置き忘れてしまっていた。
しかし――美樹は違った。美樹は、俺と離ればなれになっていた十八年という気の遠くなるような巨大な時間の中で、俺との思い出を、あの日の約束を、元から忘れてなんかいなかったのだ。このアルバムを何度も、何度も愛おしそうにめくりながら、ずっと俺を信じて待ち続けてくれていた。
俺は、そっと静かにアルバムを閉じた。
窓の外を見上げると、そこには旅の始まりの日と全く同じ、どこまでも高く、突き抜けるように青い防府の美しい空が広がっていた。
あの日、ボロボロになって現実から逃げ出すために、門司からペダルを漕いでようやく辿り着いた、この防府の街。
最初は、自分の子供の頃の思い出なんて何一つ残っていない、冷たくて余所余所しい、ただの通過点の街だと本気で思い込んでいた。
だが、それは完全に俺の思い違いだった。
残っていたのだ。この街の至る場所に、大切な思い出も、不器用な約束も。
そして――何よりも、俺の帰りをずっと、ずっと信じて待ち続けてくれていた、世界で一番愛おしい婚約者が。
俺は静かに、畳の上から力強く立ち上がった。
美樹の作ってくれた温かいおにぎりをしっかりと胃袋に収めたら、午後四時になったら、あの懐かしい小さな食堂へ彼女を迎えに行こう。
でも、その約束の時間になる前に、ほんの少しだけ、俺の自分の足でこの防府の街をゆっくりと歩いてみようと思った。
かつて、俺のちっぽけな世界の全てだった、愛おしい故郷の街を。
そして――これから先、俺と美樹が二人で並んで帰ってくることになる、人生の本当の『帰る場所』になるかもしれない、この美しい防府の街の坂道を。




