第31話「あの日、泣いた私」 (美樹の独白)
第31話「あの日、泣いた私」 (美樹の独白)
どうしても、眠れん。
同級生のLINEグループにプロポーズされたことを報告したら、さっきからおめでとうメッセージが止まらんくなった。
ありがとう。ほんまにみんなのおかげよ。
ベッドのシーツの中からは、大好きな涼太の、スー、スー、という規則正しい静かな寝息が聞こえちょる。
私は涼太を起こさんようにゆっくりとベッドから抜け出して、冷たいフローリングを渡り、大きな窓際に静かに座り込んだ。
窓ガラスの向こうには、メリケンパークのきらきらとした灯りが、吸い込まれそうなくらいに綺麗に広がっちょる。
目の前に広がる、まばゆい神戸の夜景。
防府におった子供の頃から、ずうっと絵本やテレビを見て憧れちょった、お洒落な街。
そして――中学一年の、あの寂しくて仕方がなかった私が、本当は涼太と一緒に、デートみたいに来たかった、憧れの場所。
あの頃。
私は、急な引っ越しで香川の高松におった。
大好きな防府の街を離れて、ちょうど一年が経った頃。
最初のうちはね、ウチらちゃんと定期的にお手紙のやり取りを、文通をしよったんよ。
大好きな、涼太と。
月に一回。時には、待ちきれんで月に二回も。
今思えば本当に他愛のない、子供の文章。
新しく入った中学校のこと。新しく始めたサッカー部のこと。新しくできた友達のこと。
私はポストを覗いて、涼太からの返事の手紙が届くのを、毎日のように本当に楽しみにしとったっちゃ。
だけど、中学一年の、寂しい秋の日のこと。
十月の初め頃。ウチからいつものようにお手紙を出した。
だけど、待てど暮らせど、涼太からの返事は一向に来んかった。
まぁ、都会の中学校じゃし、部活とか勉強が忙しいんじゃろうね。
最初は、ただそうやって自分に言い聞かせとった。
十一月、どうしても寂しくなって、もう一通、催促するみたいなお手紙を出した。
だけど……やっぱり、お返事はどこからも無い。
十二月、これが最後、と思いながら、涙を堪えて三通目のお手紙を出した。
だけど……やっぱり、私のポストに涼太の文字が届くことは、二度となかった。
代わりに出したお手紙が宛先不明で戻ってきよった。
さすがにね、悲しくて腹が立った。そして、それ以上に、心臓が潰れそうなくらいに不安でたまらなくなったんよ。
「涼太のやつ……西宮の都会の可愛い女の子と、新しい彼女でも作ったんやないん?」
ふん、今思えば本当にアホな妄想じゃね。わずか十三歳の田舎モンのくせにさ。
宛先不明の意味も分かっちょらんかった。
でもね、当時の私は本気でそう思い込んで、夜も眠れんくらいに苦しかったんよ。
そして冬休みに入ってすぐ、ちょうど、街中がイルミネーションで浮き立つクリスマスイブの日の朝。
私は、固い決意をしたっちゃ。
――お手紙が来んなら、ウチから直接、涼太に会いに行ってみよう。
はるばる、四国の高松から。兵庫の西宮まで。
お父さんにもお母さんにも内緒で、貯金を全部財布に突っ込んで飛び出した、人生で初めての大冒険。
大阪行きの高速バスのシートに座りながら、私の心臓はずっと、壊れそうなくらいに激しくドキドキしよった。
もし、急に目の前に現れたら、涼太はどんな顔をして驚くかね。
逢えたら、これまでの寂しかったお話を、たくさんたくさん話そう。
西宮の家に行ったら、すぐ隣にあるこの神戸の街も、一緒に案内してもらおう。
古い異人館の街並みとか。
美味しそうな匂いのする南京町の中華街とか。
テレビで見たみたいな、素敵なデートみたいにさ。
二人で手を繋いで、一緒に歩こう。
バスの窓の外を眺めながら、私の頭の中は、そんな楽しいことばっかり駆け巡っちょった。
だけど。
辿り着いた現実の光景は、私の淡い夢とは、あまりにも、残酷なほどに違っとった。
迷子になりながら、やっとの思いでお手紙の住所の場所へと着いた時。
私の目の前にあったんは。
ただの、冷たくて静まり返った『焼け跡』じゃった。
一面が真っ黒に焦げ付いた、何も無くなってしまった土地。
そこにぽつんと残っちょったんは。
私の知っている、あの『太田』の古い木製の表札だけ。
一体、涼太の身に何が起きたのか、当時の私には全く分からんかった。
パニックになって、半泣きになりながら近所の人に必死に聞いて。
そこで初めて、数ヶ月前に隣の家から出た大きな火事で、お家が全焼してしまったんだと知った。
涼太は?
私の大好きな涼太はどこへ行ったん?
無事なん? 死んじゃってないん?
泣きじゃくる十三歳の小娘に、近所の人はただ「別の街へ引っ越されたから、もうどこにいるかは誰も分からない」って、気まずそうに首を振るだけじゃった。
怖かった。本当に、世界が全部暗闇に染まったみたいに怖かった。
絶望のどん底のまま、どうやって高松へ帰りのバスに乗ったのか、その夜の記憶は今でもほとんど抜け落ちておらん。
高松のお家に帰ってから。私は毎日のように、学校が終わると地元の大きな図書館へと通い詰めた。
新聞のバックナンバーを必死にひっくり返して調べた。
館内の慣れないパソコンの画面を操作して、ネットの記事も貪るように検索した。
あの火事の日の、周辺の事故記事。
全国の痛ましい事件の記事。
火事の被害者の、死亡者の一覧の名簿。
指先を震わせながら、息が止まりそうになりながら、必死でその名前を探し続けた。
そして――。
どこをどう探しても、見つからんかったんよ。
私の世界で一番大切な、『太田涼太』という四文字の名前が、死亡者のどこにも。
その事実を画面の前で確認した時。私は図書館の片隅で、初めて声も出さずにボロボロと大粒の涙を流して泣いた。
生きちょる。
涼太は、この世界のどこかで、ちゃんと無事で生きちょるんや……!
心臓の奥から、本当に、涙が出るほど安心したっちゃ。
それからよ。
ウチが、高松の天満宮へ毎週欠かさず通うようになったんは。
毎週日曜日。天神様の前に立って、静かに手を合わせてお願いし続けた。
涼太が、どこかの街で元気でおってくれますように。
涼太が、私の知らん場所で幸せに笑っておってくれますように。
そして――。
いつか、大人になったら、もう一回だけ、ウチの前に逢わせてください。
ただ、それだけのことだけを。
ずっと。
何年も。
何年も何年も、来る日も来る日も祈り続けちょった。
ほんまにバカじゃろう。自分でもね、つくづく頭がおかしいんじゃないかってアホらしく思う。
でもね……どうしても、やめられんかったんよ。あのタイムカプセルの約束が、ウチの心の一番深いところで、ずっときらきらと光り続けとったから。
そして――二十九歳になった、初夏のあの日。
私は本当に、防府のあの店で、奇跡みたいに涼太に逢えた。
十八年ぶりの、本当の再会を果たした。
二人並んで、こうして瀬戸内海を巡る、最高の旅まで一緒にできた。
ずっと逃げ回っとった高松の母さんとも、真っ向から向き合って涙を流して和解できた。
西宮の涼太の父さんにも、二人の顔を見てちゃんと無事を報告できた。
そして、今日。
夕焼け小焼けの西宮の海岸で、世界で一番欲しかった、最高のプロポーズまでされた。
……ほんまに、まるで夢みたいや。
十一歳の冬、涼太の部屋に飛び込んで、馬乗りになって顔中ぐしゃぐしゃにして大泣きしちょった、あの頃の私。
十三歳の冬、西宮の焼け跡の前で絶望して立ち尽くして、やっぱり図書館の片隅で一人で泣いちょった、あの頃の私。
二十一歳の冬、防府の家が更地になる前に慌てて高松から来て、タイムカプセル掘り返して一人で泣いちょった、あの頃の私。
――ほら、見て。やっと、やっと逢えたよ。
私の自慢のヒーローは、ベッドの上でまだ気持ち良さそうにスースーと寝ちょるね。
身体が冷えてきたから、眠っとる涼太を起こさんように、そっと彼の広い胸の中へ潜り込もう……細心の注意を払いながらね……涼太の肌が、温かい。
「……ようやく、捕まえた」
彼の心音を聞きながら、私は暗闇の中で小さく呟いた。
「もう絶対に、どこにも逃がさんけえね、涼太」
涼太は相変わらず、幸せそうな寝息を立てたままピクリとも目を覚まさない。そのお寝坊さんな姿がなんだか愛おしくて、私は胸の中で少しだけ笑けてきた。
窓の外の、神戸の夜はどこまでも静かに更けていきよる。
十八年もの間、たった一人で抱え込み続けてきた私の長い長い片想いが……。
今夜、ようやく美しい終わりを迎えて……。
そして、二人での新しい人生として、ようやく始まった、最高の記念日の夜。
おやすみなさい、私の、世界でたった一人の涼太……。




