第30話「そして、神戸の覚悟」
第30話「そして、神戸の覚悟」
西宮の静かな住宅街を抜け、美樹の運転する白いコンパクトカーは国道を西へ向かって真っ直ぐに走っていた。
俺は助手席から、流れ去っていく街並みの窓の外をぼんやりと眺める。
広大な空が、燃えるような茜色から、静かな深い紺色へとゆっくり染まり始めていた。なんだか、酷く不思議な感覚だった。
長年ずっと背を向け、逃げ続けていたオトンと真っ向から話したことで、あれほど俺の胸を苦しく締め付けていた澱のようなものが、綺麗さっぱり消え去っていた。
(……もっと早く、意地を張らずに実家に帰ってくれば良かったな)
胸の奥で、素直にそう思う。
でも、この門司からの長い自転車旅を経て、防府で、高松で――色々な大切な人の生き様と、過酷な時間の重さを経た「今日」という日だったからこそ、きっとオトンと言葉を交わすことに本当の意味があったのだろう。
「涼太、そろそろ晩ご飯どうする? お腹空いたじゃろ」
ハンドルを握る美樹が、チラリとこちらを見て訊いてきた。
「そうやな……よし、今夜は神戸で食おうや」
「神戸? わぁ、ええね!」
「せっかくここまで帰ってきたんやしな。お洒落な店連れてったるわ」
「ふふ、楽しみじゃね」
美樹が本当に嬉しそうに、パッと花が咲いたような満面の笑顔を見せた。
そのどこまでも真っ直ぐで、眩しい笑顔を見つめた。
俺の胸の奥で、何かの歯車が力強く噛み合う音がした。
(変わろう……今までの俺を脱ぎ捨てよう。美樹のための超絶ヒーローになるんや……)
◇
兵庫の夜を彩る、神戸港。
完全に日が沈み、眩いきらめきを放つ港のイルミネーションの灯りが、穏やかな海面にゆらゆらと美しく揺れている。
メリケンパークにほど近いホテルへとチェックインを済ませた後、二人は並んで、夜の海の潮風が吹き抜けるパークの中をゆっくりと歩いていた。
開けた海から受ける風が、今の俺たちの身体にひどく心地良い。
少し離れた場所には、神戸の象徴である真っ赤なポートタワーが、夜空に向かって美しくそびえ立っている。平日の夜だというのに、周囲にはまだお洒落なカップルや観光客の姿が多く見受けられた。
「……すっごく綺麗じゃね、涼太」
美樹が立ち止まり、フェンスに腕をのせて海を見つめながら呟いた。
「ああ。ほんまに綺麗やな」
「神戸って、やっぱりすっごく都会じゃねぇ」
「大阪ほどゴチャゴチャしてへんからさ、海が見えて落ち着くやろ」
「うん、ほんまにそうじゃね」
二人は再び、歩調を合わせるようにして並んで歩く。
数時間前、西宮の海岸でプロポーズした。
それからずっと自問自答している。
(俺に『家族を持つ覚悟』はあるんか……)
あの防府の小さな定食屋で奇跡的に再会してからというもの、毎日、毎時間、ずっとこの美樹と一緒にいた。
同じ瀬戸内海の風景を巡り。
他愛のないことで声を上げて笑って。
子供みたいに口を尖らせて喧嘩をして。
お互いの弱さに触れて、ボロボロと涙を流して泣いて。
そして――。
お互いがずっと目を背けてきた、過去の深い傷や現実の重さとも、真っ向から向き合ってきた。
今、俺は無職だ。社会的には全くの無力だ。オトンが俺に言った家族を持つ責任について、美樹を守る超絶ヒーローとして、何をなすべきか……。
答えは決まっている。すぐに再就職先を決めて、美樹を妻として迎える。
(俺は、美樹の前にしっかり立って、どんなことがあっても守り抜くで)
俺は、足を止めた。
数歩先を歩いていた美樹も、俺の気配に気づいて、不思議そうにその場に足を止めた。
「ん? どうしたん、涼太」
振り返った彼女は、街灯の光の中で首を傾げて不思議そうな顔を浮かべている。
「……美樹」
「なにおう、改まって」
「俺な……」
一瞬、喉の奥がカラカラに乾いて、情けないほどに言葉が詰まりそうになる。
しかし、俺はもう、自分の現実からも、目の前の愛おしい女性からも絶対に逃げなかった。
「……あの防府の街で、お前に再会できて、ほんまに、ほんまに良かったと思ってる」
「うん……ウチもよ、涼太」
「いや……」
俺は小さく首を振って、彼女の言葉を遮った。
「違うな。そんな『会えて良かった』なんてありきたりな言葉じゃさ、全然足りひんねん」
俺は自分の不器用さに、少しだけ照れくさそうに苦笑した。
「涼太……」
その瞬間、美樹の大きな瞳が潤むのが分かった。
「美樹。俺のこれから先、全ての人生を、お前と一緒に真っ直ぐに歩んでいきたい」
優しく、どこまでも穏やかな潮風が、俺たち二人の間を通り抜けていく。
夜の静かな神戸港。はるか遠くの沖合から、船の静かな汽笛の音が、ボーッと響いて聞こえてきた。その周囲の雑音の全てが、今の俺には、まるで遠い世界の出来事のように遠く感じられた。
「……でもさ、今の俺、ただの無職やから。客観的に見たら、プロポーズの説得力なんて爪の先ほども無いんやけどな」
美樹は何も言わなかった。
先ほどまでと違い、その瞳には若干の不安がよぎっているのが分かった。
俺は彼女の不安を少しでも和らげたくて、あえていつもの冗談めかした口調で言った。
「だから、今までのあの日新居浜でグダグダと現実から逃げ回ってた情けない太田涼太とは、今この瞬間に完全にさよならするわ。これからはさ、ちゃんとお前の前に立って、お前を一生守り続ける、本物のヒーローになりたい」
俺が胸を張って本音をぶつけると。
彼女は大粒の涙をポロポロと流しながら、本当に愛おしそうに破顔した。
「……バカ」
「おぉ、バカや。知っとるやろ」
そして――美樹は躊躇うことなく一歩を踏み出し、俺の胸の中へと、勢いよく飛び込んできた。
「……後ろじゃ無くて、隣にずっとおるよ、涼太……っ!」
俺のシャツをぎゅっと両手で掴みながら、胸に顔を埋めて震える声で答えてくれた。
「よろしくな。美樹」
俺は愛おしさが限界を超えて、彼女の細い身体を、両腕でしっかりと強く抱きしめ返した。
◇
その夜。
二人は、大きな窓からきらびやかなメリケンパークの美しい夜景が一望できるホテルの部屋で、いつまでも、夜が更けるのを忘れるくらいに深く寄り添いながら、未来の話を話し続けた。
これからの、俺たちの生活のこと。
二人で新しく居を構えて住む場所のこと。
俺がこれから新しく探す、誇りを持てる仕事のこと。
お互いの大切な家族のこと。
そして、これから二人で紡いでいく、輝かしい未来のルートのこと。
俺たち二人の、本当の意味での、人生の旅路は、この神戸の静かな夜から始めて行こう。




