第29話「約束の続き」
第29話「約束の続き」
西宮の実家を出た頃には、空は徐々に夕暮れの色に染まり始めていた。
閑静な住宅街の合間を、海からの匂いを含んだ風が、少しだけ涼しく、心地よく吹き抜けていく。
俺と美樹は、肩を並べてゆっくりと歩いていた。しばらくの間、どちらからも言葉はなかった。だが、昨日までのあの奇妙な焦燥感や気まずさは、もうどこにもなかった。
長年避け続けてきた、実家のオトンと真っ向から向き合った。
勝手に会社を辞めたことを本気で怒られた。しかし、一人の男としての生き方の責任を諭され、認められた。そして最後に、ぶっきらぼうなエールとともに送り出された。
ずっと自分の胸の最奥にトゲのように引っかかっていた重い澱が、ようやく綺麗に取れたような、そんな清々しい感覚に包まれていた。
「……涼太、なんか顔変わったね」
隣を歩く美樹が、俺の横顔を覗き込むようにして、ふふっと優しく微笑んだ。
「そうか? 別にいつもと一緒やろ」
「ううん、全然違うよ」
「どんな風に違うねん」
「なんて言うかねぇ……ちゃんと前を向いて、自分の未来を真っ直ぐ見ちょる男の人の顔」
俺は照れ隠しに、あえてぶっきらぼうに苦笑してみせた。
「なんやそれ。相変わらずお前の表現は抽象的やな」
「分からんけどさ」
美樹は嬉しそうに声を立てて笑う。
「でも、本当にそんな感じ。格好ええよ、今の涼太」
二人は吸い寄せられるように、坂道を下って海の方へと向かった。
辿り着いたのは、西宮浜。
水平線に近い空を真っ赤に染め上げる夕陽に照らされて、遮るもののない大阪湾の海は、どこまでも静かに波打っていた。
ザザーン、と優しいさざ波の音だけが周囲に響き渡る。
遥か遠くの西の空には、シルエットになった神戸の美しい街並み。振り返れば、雄大な六甲の山々が、西日に照らされながらどっしりと佇んでいる。
門司から自転車で来るはずだった西宮、それが途中からは美樹と一緒の旅になった。それは二人と向き会う、そしてそれぞれの家族と向き合う旅となった。この長い長い旅の最後を締めくくる景色としては、これ以上ないほどに最高のものだった。
「……終わったなぁ」
俺は手すりに腕をのせ、静かに水平線を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「何が? この旅が?」
「おぉ。俺の無謀な現実逃避の旅な」
美樹は少しだけ小首を傾げて、潮風に白いワンピースの裾をなびかせながら考え込んだ。
「……終わったかねぇ?」
「え? 違うんか?」
「ウチにとってはね、なんかまだまだ、これからずっと先まで続いちょるような気がするんよ」
その美樹の言葉に、俺は心の底から優しい笑みをこぼした。
確かに、彼女の言う通りかもしれない。
始まりの門司の関門海峡から始まった、この奇妙な旅。
宇部の寂しい夜。
防府での奇跡の再会と母校の桜並木。
高松のあの平屋での、母と娘の涙の再生。
倉敷の歴史ある美しい柳並木。
姫路の夜に、ベッドの上で知った彼女の十八年間の途方もない愛の重さ。
そして先ほど、西宮の実家でオトンと交わした、未来への約束。
その全てのルートが、パズルのピースみたいに綺麗に噛み合って、今のこの場所に繋がっている。そして――ここから新しく始まる未来のルートだって、確かに目の前に広がっているのだ。
美樹が大きく広がる海をじっと見つめながら、どこか愛おしそうに言った。
「あのさ、防府の定食屋で涼太とパッと目が合った時ね……ウチ、ほんまに心臓が止まるくらいびっくりしたんよ」
「はは、それは俺も同じや。腰が抜けるかと思ったわ」
「でもね」
彼女は少し照れたように、でも本当に幸せそうに目を細めた。
「すっごく、すっごく嬉しかったんじゃけえね」
朝の光を浴びた時のように美しい彼女の横顔を見つめながら、俺は胸の奥で、静かに確信していた。
もし、会社でボロボロになってこの旅に出なかったら。
あの日、気まぐれに防府のあの店へ立ち寄らなかったら。
今こうして、大好きな彼女と並んでいる現在は、きっと存在していなかった。
あの頃の思い出をただの過去だと切り捨てず、心のどこかで大切な幼馴染みを探そうとしていたから。もっと手前で、過酷な現実に絶望して全てを諦めてしまわなかったから。だからこそ、今、天神様がくれた最高の奇跡がここにある。
俺はズボンのポケットへと、そっと右手を入れた。
そこには――昨日の夜、姫路の駅ビルで美樹がトイレに行っている間に、俺がクレジットカードで祈るようにして購入した、あの小さな指輪の箱が入っていた。
男としてのプロポーズのタイミングなんて、本当はこれっぽっちも分からへん。
もっとお洒落な高級レストランが良かったかもしれない。
もっとバシッと決まる、格好いい言葉を用意しておくべきだったかもしれない。
(今だ、今しかない……)
夕陽に照らされた今の彼女の目の前で、この温かい潮風が吹く西宮の海の前で伝えるのは、今しかない、と俺の魂が強く叫んでいた。
「……美樹」
「ん? 何ね、涼太」
美樹が不思議そうに、くるりとこちらに体を振り返った。
燃えるような夕陽のオレンジ色の光が、彼女の艶やかな髪を赤くドラマチックに染め上げている。十一歳の頃の、あの勝ち気でお転婆だった少女の面影をどこかに残しながら、ハッとするほど美しく大人になった一人の女性。
俺という存在を、実在するかも分からない過去のヒーローを、十八年もの間、ただ一途に毎週神社で祈りながら待ち続けてくれた人。
そして――。
これからの、俺の人生のルートを、隣で一緒に歩んでいきたい、最愛の人。
「……あの、タイムカプセルの中にあった、俺の手紙の、最後の一行」
「うん」
「……お前、まだちゃんと覚えとるか?」
美樹は全てを察したように、ブワッとその大きな瞳に大粒の涙を溜めて、でも本当に嬉しそうに笑った。
「忘れるわけないじゃん。私の一生のお守りじゃもん」
そうだよな、と俺は心の底から愛おしく思う。あの下手くそな藁半紙の手紙を、八年前に一人で防府の土から掘り起こして、今日までずっと肌身離さず大切に持っていてくれた、世界一バカで一途な女の子だ。
「大人になったら、美樹と瀬戸内海を旅行する」
「……うん、叶ったね」
「美味しいものを、たくさん食べる」
「お腹いっぱい、たくさん食べた!」
「いっぱい、自転車に乗る」
「いっぱい乗ったじゃろ?」
「しまなみ海道は……また今度やな」
「うん、絶対行くけぇ」
美樹が何度も、涙をこぼしながら力強く頷く。
そして彼女は、赤くなった鼻を少しすすりながら、いつものように悪戯っぽく、愛おしそうに微笑んだ。
「……じゃけえ、残るはあと一個じゃね、涼太」
「おぉ。そうやな」
俺も、これ以上ないほどに優しい笑顔を浮かべた。
ポケットから、そっと四角い小さなベルベットの箱を取り出す。
それを見た瞬間、美樹の身体がハッと息を呑んで固まった。
「え……っ、あ……」
彼女の唇から、言葉が完全に消え去る。
俺は震える手で、ゆっくりと箱の蓋を開いた。
夕陽の光を浴びて、中央に据えられたシンプルなデザインの指輪が、きらきらと眩いばかりの美しい輝きを放つ。
何百万円もするような、そんな大層に高価な指輪なんかやない。だけれど、会社を辞めたばかりの、今の俺にできる、これ以上ない人生を懸けた精一杯の全てだった。
「正直な、美樹」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめて、一歩を踏み出した。
「……俺は今、ただの無職や。これから新しい仕事を探さなあかんし、まだ何も決まってへん」
美樹は溢れ出る涙を拭おうともせず、ただじっと、俺の言葉を全身で受け止めるようにして聞いてくれている。
「貯金だってさ、自慢できるほどたくさんあるわけやない。お前に、最初からきらびやかな贅沢をさせてやれる保証もない。将来のことも、まだお前を安心させられるくらい全部が完璧に見えてるわけやないんや」
黄金色の夕陽が、瀬戸内の穏やかな海面に反射して、まばゆい一本の光の道を俺たちの間に作っている。
寄せては返すさざ波が、静かに、優しく、俺たちの未来を祝福するように揺れていた。
「……だけどさ。俺がこれから先の人生のルートを、その先の未来を真剣に考えた時」
「うん……っ」
「……俺の隣にいてほしい、俺の命を懸けてでも守り続けたいと思ったのは、世界中を探しても、美樹、お前しかおらんかったんや」
美樹の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ、顎のラインを伝ってポロポロと流れ落ちていく。その形の良い唇が、激しい感情の昂りで小刻みに震えていた。
「美樹」
俺は、彼女の名前を呼んだ。
二十年前。防府のあの夕暮れの坂道で、一緒にドッジボールをして、自転車の練習をして泣いていた、あの愛おしい少女の名前を。
そして今。大人の男としての全ての責任と覚悟を背負って、これからの未来を永久に共に歩んでいきたい、最愛の女性の名前を。
「……俺と、結婚してください」
さぁっと、広い海から、どこまでも優しい祝福の風が吹き抜けていった。
しばらくの間、何の返事も聞こえなかった。
美樹は両手で自分の口元を強く押さえたまま、ただボロボロと大粒の涙を流し続けて、激しく肩を震わせて立ち尽くしていた。
笑っているのに、あまりの嬉しさに声を上げて大泣きしている。
「……あーあ。俺、またお前のこと大泣きさせてもうたな」
俺が少し困ったように掠れた声で言うと、美樹はぐしゃぐしゃになった顔のまま、愛おしそうに俺を睨みつけてみせた。
「何がよ……っ。こんなの、交際三日で……反則じゃん……っ!」
彼女は手の甲で何度も何度も涙を拭った。
そして、何度も、何度も、壊れそうなくらい激しく力強く頷いた。
今、この防府にも続く瀬戸内の海の前で。
「……はいっ。ウチでよかったら、喜んで……っ!」
小さく、でも、これからの人生の全てを懸けるようにして、ハっきりと。
「……よろしくお願いします、涼太!」
その待ち望んだ彼女の言葉を耳にした瞬間、俺は胸の奥の空気を全部吐き出すようにして、深く、深く安堵の息を吐いた。自分でも気づかないうちに、心臓が破裂しそうなくらいに猛烈に緊張していたらしい。
箱から、シルバーに輝く小さな指輪をそっと取り出す。
美樹の、少し震える細くて白い左手を、自分の手で優しく包み込むようにして引き寄せた。そして、彼女の薬指へと、静かに、慎重にリングを滑り込ませた。
カチリ、とまるであらかじめ誂えていたかのように、指輪は彼女の指に寸分の狂いもなくぴったりと収まった。
「……ほらな、めちゃくちゃ似合っとるわ」
俺が彼女の目を見つめて言う。
美樹は左手を胸元にかざし、薬指に宿った美しい輝きを見つめながら、涙の跡が残る顔のまま、今日一番の、世界で一番綺麗な満面の笑顔を咲かせた。
「当たり前じゃん! 誰の指輪じゃと思っとるんよ」
「なんでそんな自信満々なんだよ」
「……ウチね、この指輪がはまるのを、十八年間もずうっと、ずうっと待っとったんじゃけえね」
「……ほんまに、待たせてごめんな」
二人は自然と笑い合い、そして、どちらからともなく激しくお互いの身体をぎゅっと抱きしめ合った。
腕の中にすっぽりと収まる、愛おしい美樹の体温と、その肌越しに伝わってくるトクトクという力強い心音。その温かさが、俺の会社人としての七年間の全ての苦しみと、これからの人生全ての迷いを、一瞬にして綺麗に融かして消し去ってくれた。
大きな、燃えるような夕陽が、瀬戸内海の水平線の向こうへとゆっくりと沈んでいく。
始まりの門司の港から始まった、俺のあの無謀な自転車旅は、今、この西宮の海辺で最高の終着点を迎えて終わった。
それは、現実社会の中でいつの間にか失くしてしまった、自分自身の真っ直ぐな時間を取り戻すための旅。
家族の間の、長い沈黙のわだかまりと真っ向から向き合うための旅。
そして何よりも――あの幼い日の愛おしい約束を、現実に果たすための旅だった。
その全ての旅路の終着点が、今、俺の腕の中にいるこの美樹という最高の宝物だった。
けれど、俺たちの本当の物語は、ここで終わるわけやない。
俺と彼女の旅路だって、ここで終わりを告げるわけではないのだ。
ここから先、何十年という長い時間をかけて、俺たちの未来はどこまでも続いていく。
二人の足で、一歩ずつ新しいルートを紡いで歩んでいく、新しい人生の道が。
夕暮れの西宮の静かな海は、輝く黄金色の波を優しく寄せながら、俺たち二人の、新しい輝かしい始まりの瞬間を、どこまでも優しく、静かに見守り続けていた。




