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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第28話「父の言葉」

第28話「父の言葉」


西宮の実家の玄関を前にした時。俺は高松のあの平屋の前で、美樹が全身を強張らせて感じていたあの強烈な緊張を、ようやく本当の意味で理解できた気がした。


自分を育ててくれた、いつだって帰りたい場所のはずなのに。いざその前に立つと、拒絶されるのが怖くてたまらなくなる。そんな矛盾した気持ちに胸を締め付けられながら、俺は静かにインターホンのチャイムを押した。

カチャリと静かに内鍵が外れ、ゆっくりと玄関の扉が開く。


そこに立っていたのは――俺の父親、太田健一だった。


最後に会った時よりも随分と白髪が増えている。肩の肉も少し落ちて、背中も心なしか一回り小さくなったような気がした。しかし、俺をじっと射すくめるような、あの鋭い厳格な目だけは昔のままだった。


「……来たか」


「うん」


驚くほどに短いやり取り。昔からお互いに不器用で、言葉の足りない親子だった。その空気感は今も変わらない。


「取り敢えず、上がれ」


「お邪魔します」


少し後ろに控えていた美樹も、「お邪魔します」と丁寧に深く頭を下げる。二人は靴を脱ぎ、静かに奥の居間へと通された。


リビングに入ると、そこにはひどく懐かしい景色がそのまま残っていた。何度も寝転がった革のソファも、古いテレビ台も、柱に掛かったままカチカチと音を立てるネジ巻き式の時計も。俺が子供の頃から、何一つ変わっていない。


父が台所から、温かいお茶の入った湯呑みを盆に載せて持ってきた。


「あ、俺が自分でやるのに」


「我が家に来た客を、わざわざ働かせるわけにいかんだろう」


「客やないやろ、息子やぞ」


「……そうだな」


そこでようやく、父の口元がほんの僅かに緩んだ。俺はその表情を見て、心の底から驚いた。厳格だったオトンが、こんな風に柔らかく笑うのを、俺はもう何年もの間、見ていなかった気がしたからだ。


「……ところで、そちらのお嬢さんは?」

父の視線が、俺の隣に座る美樹へと真っ直ぐに向けられた。美樹は慌てて背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。


「お久しぶりです。瀬戸口美樹と申します」


「瀬戸口……?」

父がその名前に、意外そうに目を丸くした。


「瀬戸口って……あの、防府の?」


「はい!」


「じゃあ、あの隣の家に住んでいた……?」


「そうです、おじさん! あの時の美樹です」


父は本当に、心底驚いたような顔をして声を失っていた。


「いやぁ……懐かしいなぁ」

その呟きは、いつになくひどく柔らかい響きを帯びていた。


「そうか、あの智雄さんの娘さんか……」


美樹が嬉しそうに、少しだけ目元を緩めて微笑む。

「私のこと、覚えていてくださったんですね」


「もちろんだとも。忘れるわけがない」

父は深く頷いた。


「防府にいた頃は、お父さんの智雄さんには本当によくしてもらった。休みのたびに釣りに連れて行ってもらったり、お酒を飲んだり……本当に良い人だった」


そう言ってもらえて、美樹は本当に誇らしそうで、嬉しそうな顔をした。


それからしばらくの間、三人で積もる昔話に花を咲かせた。防府での楽しかった思い出、急な西宮への転勤のバタバタ、まだ小さかった頃の俺たちのクソガキっぷり。そして、お互いの父親たちのこと。


想像していたよりも、ずっと自然で、温かい時間がリビングを流れていた。


だが、お茶を飲み干し、穏やかな時間が一段落した頃。やはり、話題は避けられない現実の核心へと近づいていく。


「……ところで、涼太。お前、会社の方はどうしたんだ」

父が僅かな沈黙の後、居ずまいを正して口火を切った。


「……辞めたそうだな」


その低く落ち着いた声の響きに、リビングの空気が一瞬で引き締まる。俺は逃げずに、オトンの目を真っ直ぐに見つめて頷いた。


「ああ。先月、退職したわ」


「いつだ」


「スマホのメッセージで連絡を入れる、ほんの少し前や」


健一は何も言わず、ただ黙って俺を見つめ返した。

数秒、あるいは数十秒。耳が痛くなるような、本当に長い長い沈黙の時間。

やがて、父の口から、重苦しい低い声が漏れ出た。


「……馬鹿者」


その低い叱責の言葉に、俺は一瞬、身体が硬くなるのを自覚した。

「……親父」


「お前、あの会社で何年働いた」


「……七年や。新卒で入ってから、必死のパッチで七年勤めた」


「七年も勤め上げた会社を辞めるというのに……」

健一の鋭い視線が、容赦なく俺を射抜く。

「なぜ、親である私に、一言の相談もなく勝手に決めたんだ」


それは、酷く厳しい声だった。が、不思議と反発する気持ちは湧いてこなかった。本当に久しぶりに聞く、父親としての真っ直ぐな叱責だった。


「……相談したところで、お前なら絶対に『辞めるな』って大反対するに決まってるやろ」

俺は少し声を落として、言い返した。


「当たり前だ!」

間髪入れず、即答だった。


「あそこは業界でも安定した、立派な会社だったんだろう」


「そうやけど……」


「だったらなおさらだ。簡単に手放していいキャリアではない」

健一は深く、深く溜め息を吐き出した。


「お前が相談しに来ていたら、私は間違いなく『頭を冷やして辞めるな』と言って、お前を激しく止めていただろう」


「ほら見ろ。やから相談せんと、事後報告にしたんや」


「だが――」

そこで、父の言葉がピタッと切れた。

父は少しだけ視線を床へと落とし、拳を握りしめた。


「……だが、それでも、お前の話を聞くことはできた」


それは、怒声なんかではない。驚くほどに静かで、脆い声だった。


「親なんだからな、私は」


俺は、その言葉の重さに完全に言葉を失ってしまった。健一は言葉を絞り出すようにして続けた。


「お前が会社で、一体何を考えて悩んでいたのか。何に追い詰められて、どれほど苦しんでいたのか。……それくらいを静かに聞いてやる権利は、親である私にもあると思っていたんだがな」


静まり返る居間。

怒鳴り散らすわけでもない。感情を爆発させて俺を責めるわけでもない。ただ、その父親の不器用な言葉の裏には、息子に何も頼られなかったことへの、深い、深い寂しさが滲み出ていた。


「……ごめん。悪かったわ、オトン」

俺は椅子から立ち上がり、父に向かって、真っ直ぐに深く頭を下げた。

昔の尖っていた俺なら、意地を張って「俺の人生や!」と激しく反発していただろう。だけれど、美樹のあの勇気を見た今の俺には、もうそんなくだらない意地なんてどこにもなかった。


「ほんまに、悪かったと思ってる」

俺はもう一度、頭を下げたまま言った。


「会社を逃げ出すみたいに辞めて、自分が情けなくて……オトンに合わせる顔がなかったんや。でも、ちゃんと真っ向から話すべきやった。逃げてごめん」


健一はしばらくの間、頭を下げ続ける俺の姿を黙って見つめていた。やがて、フゥ、と小さく息を吐き出す音が聞こえた。


「……まぁ、もういい。頭を上げなさい」

その言葉で、張り詰めていたリビングの空気が、少しだけ優しく緩んだ。

「辞めてしまったものは、今更悔やんでも仕方のないことだ」


「うん」


「これからの人生は、お前自身のものだ。お前の好きにするがいい」


その「好きにしろ」という父の言葉は、俺の想像以上に、ズシリと両肩に重く響いた。


それはただの無責任な許可なんかではない。これから先、どんな選択をしようとも、その結果の全てを自分自身の足で背負えという、男としての本当の『責任』を含めた言葉だったからだ。


人生で初めて、オトンから一人の大人の男として認められたような、不思議な高揚感もあった。


「ただな、涼太」

健一が厳しい表情のまま、言葉を重ねた。

「一つだけ、人生の先輩として覚えておけ」


「何をや」


父は、俺の隣で少し緊張した顔をして座っている美樹の姿を、チラリと横目で見た。

「……もし、お前が誰かを幸せにするために『家庭』を持つというのなら、話は完全に別だ」


静かな、しかし魂に響くような強い声だった。

「そうなれば、お前の人生は、お前一人のものじゃなくなる」


「……」


「独り身ならね、職を失おうが野垂れ死のうが、自分の好きに生きることはできる。……だがな」

父は少し間を置いて、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「愛する家族を持ったなら、その背負う責任の重さは、お前が考えている何倍も重い。命を懸けてでも、守る相手ができるんだ。支え続ける相手ができるんだ。その覚悟だけは、腹の底に固く持っておきなさい」


健一の目は、本当に真剣だった。それはただの退屈な説教なんかではない。

この西宮の家で、家族を支え、家を失うほどの過酷な火事を乗り越え、今日まで俺を育て上げてきた、一人の夫として、父親としての生き様を、今まさに息子に託そうとしている言葉だった。


「……分かった。ほんまに、ありがとう」

俺は真っ直ぐに頷いた。心の底からの本音だった。


美樹と二人で防府の街を巡って。高松で、あの母と娘が涙を流して再生する姿を見て。

色々な大切なものを経てここまで辿り着いた今だからこそ、オトンの言っている言葉の本当の重さが、俺の心にバシッと響いて理解できた。


健一も、俺のその顔を見て満足したように頷いた。

「なら、いい」


それ以上は、もう何も追及してこなかった。実に、俺の親父らしい潔い終わり方だった。


気が付けば、時計の針は数時間を進めていた。格子窓からは傾いた西日が部屋の中に差し込んでいた。

俺はソファから立ち上がり、父に向かって告げた。


「……よし、そろそろ行くわ」


「そうか」

健一もゆっくりと腰を上げた。玄関まで、ぶっきらぼうについてきて見送ってくれるようだ。美樹も黙って、俺の少し後ろを微笑みながら付いてくる。


スニーカーの紐をしっかりと結び、玄関の重いドアを開いた。

そこで背後から、父がぽつりと声をかけてきた。


「……晩飯は、どうするんだ」


相変わらずぶっきらぼうな口調だった。しかし、今の俺にはその言葉の裏にある不器用な意味が、ハッキリと分かった。


(せっかく帰ってきたんだから、飯でも食べていけ。もう少しだけ、お前と色んな話をさせてくれ)


そういう、父親としての精一杯の誘いだった。

だが、俺は少しだけ嬉しそうに微笑んで、振り返った。


「今日は、やめとくわ。これから二人で飯に行く約束やねん」


「そうか……」


「でもさ、オトン」

俺は父の目を真っ直ぐに見つめた。

「また近いうちに、ちゃんと二人でこの家に遊びに来るからな」


健一は一瞬だけ驚いたようにその目を丸くした。

そして――本当に、ほんの僅かに、嬉しそうに目元を和ませて笑った。


「あぁ。待っとる」


その言葉に、俺も最高の笑顔を返した。昔の、冷え切っていたあの頃の俺たちなら、絶対に聞くことのできなかった、温かい約束の言葉だった。


(オトン、年老いて丸くなったんかなぁ)


玄関を一歩出ると、西宮の空には、どこまでも広く、美しい夕暮れが広がっていた。

すぐ隣には、大好きな美樹が俺の手をぎゅっと握って並んでいる。そして背後には、俺の帰るべき大切な実家がある。もちろん、これでこれまでの人生の課題が全て綺麗に解決したわけではない。


だけれど、俺たちの現在いまは確かに変わった。

父と息子の間に、何年も何年も横たわり続けていたあの冷たくて長い距離は、この旅の果てに、今、少しだけ確実に縮まっていた。


俺はもう、不安になって振り返ることはしない。振り返って確かめる必要なんて、どこにもなかった。


(またいつでも、胸を張ってここへ来ればええんや)


お互いに手を握り合う温もりの中で、俺は心から、そう確信できたのだから。

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