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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第34話「帰る場所」

第34話「帰る場所」


大阪へ戻る新幹線の窓から、瀬戸内海が見えた。


どこまでも穏やかで、きらきらと太陽の光を照り返す青い海だった。

ボロボロになって会社を飛び出し、門司から続けた旅の間、俺の人生の背景には、いつもこの海があった。


防府の桜並木の向こうでも。

高松の親子二人泣き合った平屋の側でも。

倉敷の静かな柳並木の隙間からも。

姫路で彼女の十八年間の重さを知った夜も。

そして、西宮の実家でオトンと真っ向から向き合い、

美樹との将来を約束したあの夕暮れも。


ずっと、ずっと同じ海が、俺たちの歩みを一本の太い線で繋ぐようにして続いていた。


あの時、現実から逃げ出すようにして旅に出る前。

自分は一体、何を探してあんなに必死になっていたのだろう。


張り詰めた糸が切れて会社を辞めた、本当の理由。

もうすぐ三十歳を迎える、これからの先の見えない人生のルート。

何年も冷え切ったまま放置し続けていた、父との歪な関係。

そして、子供の頃に置き忘れてきた、故郷への淡い未練。


その全てが曖昧で、輪郭を持たない。

まるで霧の中にいるようで、足元がすくんで怖かった。


だから旅に出たのだ。

限界まで身体を痛めつければ、その道の果てに何か「答え」が落ちているのじゃないかと信じて。


だけれど、旅の終着点に辿り着いた今なら分かる。

人生の本当の答えなんてものは、旅の道中にポツンと落ちているようなものなんかやない。

自分の肉体の限界を超えて得られる答えもあるけれど、社会に生きる人に必要な答えは人との関わり合いにある。


特に、かつて関わり合った愛すべき人たちとの関係の再構築を避けてばかりでは、人としての成長はない。

旅の果てに、大切な人と真っ向から「再会」し、お互いの魂をぶつけ合うプロセスの中でしか、「答え」は絶対に生み出せないものだったのだ。


不器用ながらも息子の言葉を待っていてくれた、実家の父。

五年間の冷たい壁を乗り越えて、涙を流して抱き合った高松の母と娘。

そして――どんな時も俺を信じ、俺を待ち続けてくれた、美樹。


人と逃げずに向き合うことでしか、人生の本当のルートは見つからないのだということを、俺はこの瀬戸内の旅から教わった。



数週間ぶりに、大阪の本町にある賃貸アパートの自室へと戻ってきた。

鍵を開けて入る我が家は、旅に出る前と何一つ変わらない、見慣れた狭い部屋だった。


リモート勤務も、持ち帰りの残業もこなした、同じ仕事机。

IT関係の専門書がギチギチに詰まった、同じ本棚。

窓を開ければ広がる、ビルに切り取られた大阪の同じ無機質な景色。


それを見つめる俺の胸の奥は、旅に出る前とは全く違う、不思議なほどの静けさと確かな覚悟で満たされていた。


玄関のポストを開けると、いくつかのチラシに混ざって、前に勤めていた会社から届いた一通の無機質な白い封筒が入っていた。

中身は、退職手続きの完了を示す「離職票」だった。


「……ハハ、いよいよ本格的に現実やな」


誰もいない部屋で、思わずフッと苦笑する。


ドラマチックで奇跡に満ちあふれた瀬戸内の旅は、今、完全に終わった。

ここからは、泥臭くて、地道に、今後の「生活」を築くという難しい段階をクリアしていかなければならない。


退職金が思いのほか出たので、この旅の費用と指輪代を引いてもまだしばらく首は回る。

しかし、美樹を家族として守る責任を果たすためには、何をさておいてもすぐに再就職だ。



翌朝。

涼太はアイロンのピシッと効いたシャツに袖を通し、カバンを抱えてハローワークの重い扉をくぐった。


総合受付、受給説明会の案内、求職申込書の記入、窓口での書類確認。

お役所仕事の洗礼を受けながら痛感する。無職の再出発というのは、想像していた以上に細々とした手続きが多くて泥臭い。


自分の番号が印字された無機質な番号札をぎゅっと握り締めながら、パイプ椅子の並ぶ待合席に腰を下ろす。


周囲を見渡すと、そこには本当にさまざまな背景を持った市井の人々が座っていた。

まだあどけなさの残る若い人。白髪を交じらせて遠くを見つめる年配の人。俺と同じようにスーツを着た人。履き古した作業着姿のまま俯く人。

誰もが、これまでの人生の何かに区切りをつけ、新しく始まる次のルートを必死になって探している。


今の自分も、同じく求職中の一人の男だった。


窓口からの呼び出しのアナウンスを待つ間、俺はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。


お馴染みの求人検索サイトのアプリを開く。画面の中央で明滅する、勤務地の選択欄。

最初、俺が流れるような手つきで無意識に入力したのは、当然のように『大阪府』の三文字だった。

確かに、画面には見慣れたIT企業やシステムエンジニアの求人一覧が、スクロールしきれないほど膨大に表示される。再就職もさほど難しくは無いだろう。


が、しかし――。

俺はスクロールする指をピタッと止め、少しだけ目を閉じて考えた。脳裏に、防府天満宮のあの真っ赤な夕暮れの景色と、石段の上でハハハと笑い合った彼女の満面の笑顔が鮮烈に蘇る。


俺は検索条件のデリートキーを押し、新しく、指先に想いを込めて次の文字を打ち込んだ。


勤務地:『山口県防府市』

職種:『システムエンジニア・IT技術職』

――検索。


小さな機械音とともに、画面の求人一覧が一気に入れ替わる。

営業、一般事務、地元の物流、製造業の工場、そして、数は少ないけれど、確かにそこにある地元の小さなITベンチャーや社内SEの文字。

大阪の求人に比べたら、それは驚くほどにささやかで、知らない会社ばかりのリストだった。


でも……

スマートフォンに並ぶ『防府』という二文字を見つめているだけで、俺の胸の奥が、夕陽を浴びた時のように不思議なほどの温かい熱量で満たされていくのを感じていた。


防府。

かつて、小学五年まで住んでいた、ただの思い出の抜け殻だと思い込んでいた街。

だけれど、今の俺にとってはもう、ただの過去の通過点なんかやない。


そこには――俺の帰りを、これからの人生を、笑顔で待っていてくれる最愛の婚約者がいる。魂の底から「帰りたい」と、胸を張って思える本当の場所が、あの街にはあるのだ。


ブブッ、と手の中のスマートフォンが心地よく震えた。


画面を見ると、美樹からのLINEの通知だった。


『涼太、ハローワークの手続きもう終わった?』

その文字の下に、すぐ新しいメッセージが届く。


お馴染みのあの小さな食堂の厨房で、エプロン姿のまま、まぶしい満面の笑顔を浮かべてピースサインをしている、彼女の可愛い自撮り写真。


さらに、立て続けに文字が躍る。

『今日もお昼ご飯、ちゃんと残さず食べり!』


涼太はハローワークの待合席だということも忘れて、思わずフッと声を上げて笑ってしまった。あいつはどこにいたって、いつも俺の胃袋と元気を心配してくれている。

俺は愛おしさを指先に込めて、すぐに返信を打ち込んだ。


『今終わって待ってるとこ』

『ちゃんと防府の求人も、真っ先に見てるよ』


数秒と経たないうちに、既読がついて、すぐにポコンと返事が返ってきた。


『ほんまに!? 山口の仕事探してくれようるん?』

全てをお見通しのような、でも嬉しさを隠しきれていない彼女の言葉。


『うん。半分以上は、本気でそっちに戻るルート考えてるわ』

俺が素直な本音を返すと。


少しの間をおいて、画面の向こうから、たった一つのシンプルなメッセージが届いた。


『――待っとる』


短い、掠れるような一言だった。たったの、四文字。

しかし、そのひらがなの文字の裏には、彼女が過ごしてきたあの孤独な十八年という、途方もない時間の全ての質量がギチギチに詰まっている気がして、目頭が熱くなった。


防府のあの小さな店で奇跡的に再会したあの日、美樹は俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「ここでずっと待っとったら、いつか絶対に涼太に会えると思っとったんよ」


あの瞬間の俺は、まだどこかで、それはただの綺麗事の、幼馴染みとしての半分冗談のようなセリフだと思い込んでいた。

だけれど、違ったのだ。美樹のあの言葉には、嘘偽りはなかった。


彼女は本当に、過酷な現実の影で、俺の家が火事で消えてしまった絶望の夜も、毎週欠かさず神社に通いながら、ずっと、ずっと俺を信じて待ち続けてくれたのだ。

二十年近くもの間、ただ一人のヒーローの帰還を。


だからこそ、今度は大人の男として、俺がその圧倒的な一途さに、命を懸けて全力で応えなければならへんかった。


顔を上げ、大きなガラス窓の外を見る。

そこには、どこまでもせわしなく人々が行き交う、大都会・大阪のエネルギーに満ちた街並みが広がっている。


この住み慣れたこの大阪の地で、もう一度キャリアを構築して生きていく未来のルートもあるだろう。しかし、全てをリセットして、彼女の待つ山口の防府へ戻って一から人生を耕していく未来のルートもある。まだ、具体的な答えは何一つ決まってはいない。決めるのは、これからの俺自身だ。


しかし、旅に出る前のあの日の俺と違って、胸の中に確固たる真実が一つだけあった。


俺はもう――この先の人生において、絶対に一人きりなんかやない。

どんなに過酷な現実にぶつかって迷う時も。自分の情けなさに一人で激しく悩む時も。すぐ隣で、俺の手をぎゅっと握りしめて、一緒に笑い、一緒に泣いてくれる、最愛の人がいるのだから。


LINEの通知が、また来た。内容を見て思わず立ち上がって、座り直した。


『ハネムーン、しまなみ海道で準備しちょるよ』


(気が早いわ! でも、それもいい。二人で早く行きたいな……)


思わず顔がにやけてしまう。いや、平常心……表情筋がこわばる。


「――35番の札をお持ちの、太田涼太様。3番窓口へどうぞ」


マイクを通した女性職員の声が、静まり返った待合室にクリアに響き渡った。


「……よし」


涼太は、愛おしいメッセージが刻まれたスマートフォンの画面を閉じて、大事にポケットへと仕舞い込んだ。

そして、自分の名前を呼ぶ窓口の方へと向かって、力強く、迷いのない足取りで一歩を踏み出した。


新しく始まる二人の未来のルートを、自分自身の力で、一から手繰り寄せていくために。

今度はもう、どんな現実からも無様に逃げ出したりしない。俺をヒーローと呼んでくれる彼女のために、しっかりと前を向いて、胸を張って。


現実から逃げ出したあの瀬戸内海の旅は、俺に新しい覚悟をもたらして終わった。

けれど――太田涼太と瀬戸口美樹が二人で並んで歩んでいく、本当の人生という名のまばゆい旅路は、今から、新しく始まったばかりだった。



二人の自転車は、今、美樹のアパートの駐輪場で静かにその時を待っている。

次に二人で瀬戸内海を渡るときは、必ずこのペダルを漕いで、あのきらめく風の中を駆け抜けるはずだ。




――瀬戸の約束【十一歳の約束、二十九歳で果たす編】・完――

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