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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第26話「瀬戸を渡る」

第26話「瀬戸を渡る」


瀬戸口家の、い草の匂いが微かに残る客間で目を覚ました。高松の朝は、驚くほど穏やかだった。


樹里さんが作ってくれた、出汁の効いた温かい朝食を囲みながら、美樹は何度も何度も愛おしそうに母親の顔を見ていた。

五年ぶりの、本当の意味での帰省。昨日この平屋の玄関をくぐるまでは、到底想像すらできなかった幸せな光景が、今そこに広がっている。


「……美樹、またいつでも、すぐに帰ってきなさいね」

樹里さんが愛おしそうに、娘の湯呑みにお茶を注ぎながら言った。


「うん……」

美樹は深く頷いた。


「今度はね、もっと早く、すぐにお母さんの顔を見に帰るけえね」


その言葉を聞いた樹里さんは、胸がいっぱいになったように、少しだけ泣きそうな、だけれどこの上なく嬉しそうな顔をした。

玄関先で最後の別れを告げ、白い車の助手席に乗り込む直前のことだ。樹里さんが、俺の前に歩み寄って、深く頭を下げてきた。


「涼太くん。本当に、ありがとうね」


「いや……俺は何もしてませんよ。ただ隣にいただけですから」


「それでもよ」

樹里さんは優しく微笑み、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「美樹の頑固な背中を押して、この家に連れてきてくれて……本当にありがとう。これからも、あの子のことをよろしくね」


「……はい。お任せください」

俺は少し照れくささに胸を熱くしながら、背筋を伸ばして深く頭を下げた。今朝、心に決めた覚悟に、もう迷いはなかった。


車がゆっくりと動き出す。

バックミラーの向こうで、小さくなるまでずっと手を振り続けている樹里さんの姿が見えなくなるまで、俺たちも窓から手を振り返していた。

車が住宅街を抜けるまで、美樹はしばらく黙っていた。そして、胸の奥の重荷を全て下ろしたかのように、ぽつりと小さく呟いた。


「……帰ってきて、ほんまによかった」


「おぉ」


「ほんまに、心からよかったと思う」


そのどこまでも澄んだ声に、もう後悔の影は一切なかった。

瀬戸口家の母と娘が、過酷な時間を乗り越えて綺麗に和解する瞬間を特等席で垣間見て、俺の胸の中にも、一つの強固な決意が固まっていた。今度は、俺が動く番だ。


「なぁ、美樹」


「ん? 何ね」


「高松を出たらさ……これから西宮の実家に寄ってもええか?」


「西宮……? 涼太のお父さんに、会いに行くん?」


「おぉ。ちゃんと、真っ向から会って話をしてこようと思う」


俺が真っ直ぐに見つめて言うと、美樹は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから本当に嬉しそうに微笑んだ。

「そっか。うん、行こう! すぐに向かっちゃるけえね」



美樹の運転する車は、四国を離れるべく瀬戸大橋へと向かった。

突き抜けるような青空の下、無機質で巨大な鋼鉄の橋が、フロントガラスの向こうから少しずつ近づいてくる。そして、車は轟音とともに海の上へと躍り出た。


「おお……っ!」


思わず、俺の口から感嘆の声が大きく漏れた。


視界の全てをジャックするように、穏やかな瀬戸内海の大パノラマが一望できた。きらきらと太陽の光を反射する青い海。そこにぽつぽつと浮かぶ、大小さまざまな緑豊かな島々。その間を、白い航跡を残しながらゆっくりと行き交う貨物船。


空の青と海の青の境界線が、陽炎の向こうで曖昧に溶け合っていくような、息を呑むほどの絶景だった。


「凄いなぁ……何回見ても、この景色はほんまに圧倒されるわ」


「じゃろ?」

美樹がハンドルを握りながら、まるで自分の手柄みたいに得意そうに胸を張る。


「瀬戸内の、最高の宝物じゃけえね!」


「はは、またそうやって勝手に瀬戸内海山口代表みたいなツラして。ここ、もう香川と岡山の県境やぞ」


「ええじゃん、今日くらいは私の代表面を認めてよ」


「……おぉ。今日だけは、特別に認めたるわ」


二人は顔を見合わせて、声を合わせて笑った。


巨大な橋を一歩ずつ渡っていく。海の上を滑るように進む車の中で、俺は窓の外をじっと眺めていた。


この旅の途中で、何度も何度も形を変えて目にしてきた、愛おしい瀬戸内海。


始まりの門司の関門海峡でも。二人が再会した防府の港でも。母親と涙を流した高松の海でも。そして、四国を離れようとしている今この瞬間も。俺たちの旅の背景には、いつも同じ、この穏やかな海がずっと続いていた。


なんだか、酷く不思議な感覚だった。


バラバラに見えていた俺の人生のピースが、この門司からの旅を通じて、まるで一本の太い線で美しく繋がっていくような――そんな確かな手応えを感じていた。



瀬戸大橋を渡りきり、車は本州の岡山県へと入った。

時計の針が昼前を指す頃、二人の車は倉敷の街へと到着した。


「せっかくじゃし、少しだけ倉敷に寄っていこうや」

美樹の提案に、俺も「おぉ、それがええな」と二つ返事で賛成した。急ぐ旅ではあるけれど、今の俺たちには、この景色を一緒に楽しむ心の余裕があった。


二人は車を止め、有名な倉敷美観地区の古い街並みを並んで歩いた。

美しく維持された白壁の蔵屋敷。川面に優しく枝を伸ばす美しい柳並木。その間を、小舟が波紋を立てながらゆっくりと流れていく倉敷川。平日だというのに、周囲は多くの観光客の賑わいを見せていた。


「涼太、こういう昔ながらの古い街並み、すっごく好きそうじゃね」

美樹が柳の葉を避けながら、隣から覗き込んでくる。


「……へぇ、なんで分かるんや」


「分かるよ。これでも十八年越しの恋人じゃけえね」


俺は古い格子戸の町並みを眺めながら、照れ隠しに小さく頷いた。

「おぉ、正解やわ。なんか知らんけど、こういう場所って無条件に心が落ち着くんよな」


「ふふ、私も同じ。すっごく落ち着く」


二人は歩調を合わせ、ゆっくりと歩みを進める。

昨日の夜、街灯の下で劇的なキスを交わして恋人同士になったからといって、俺たちの関係性が急にドラマチックに変わるわけではなかった。でも、こうして並んで歩いていることが、まるで何年も連れ添った夫婦みたいに、あまりにも自然で、当たり前だった。

その心の距離の近さが、今の俺には何よりも愛おしくて、嬉しかった。


昼食は、川沿いにある古い古民家を綺麗に改装した、お洒落な和食処で取ることにした。

運ばれてきたのは、贅沢な猪肉のしゃぶしゃぶ丼に、地元の新鮮な春野菜を使った小鉢、そして温かいお味噌汁。


「なんか……めちゃくちゃ『旅してる感』がある飯やな、これは」

俺が猪肉を口に運びながらしみじみと言う。


「ハア? 今さら何言いよるんよ。あんた、門司からずっと旅しよったんじゃろ?」


「いや、美樹と再会するまではさ、ただ現実から逃げるためにがむしゃらにペダル漕いでただけやったからな。こうして誰かと美味しいローカルフードを食べてるの、ほんまに新鮮やねん」


俺が本音を漏らすと、美樹は「そっか」と愛おしそうに目を細めて笑った。


食事を終えたあとも、二人は少しだけ倉敷の街を散策した。

川沿いにある木製のベンチ、風情のある土産物屋、古い匂いのする古書店。

どこを歩いても、この美観地区の中だけは、時間の流れが現実世界の何倍もゆっくりと動いているように感じられた。


午後二時を回った頃、二人は再び白い車へと戻り、今日の宿泊地として予定していた兵庫県の姫路へと向けて出発した。


高速道路のインターに入ると、車窓の外を、西日本の見慣れた景色が猛烈なスピードで後ろへと流れていく。車内には、しばらくの間、一言も言葉のない時間が続いた。

しかし、それは昨日の新居浜での絶望的な凍りつきとは全く違う、お互いの信頼の深さを物語るような、ひどく心地良い沈黙だった。


「……涼太、また何か難しいこと考えちょるね」

ハンドルを握る美樹が、前方を見つめたまま、クスッと笑って言った。


「え……? なんで分かるんや。顔に出てたか?」


「出まくりよ。いっつも真面目なこと考えてる時の、涼太の顔じゃもん」


隠し事が全く通用しない幼馴染みに、俺は白旗を上げて苦笑するしかなかった。やはり、この人には何もかもお見通しなのだ。


「……やっぱり、西宮のお父さんのこと?」


「……おぉ。実家の、オトンのことや」

美樹が静かに頷くのを見ながら、俺はシートの背もたれに深く体重を預けた。


「怖いか? って聞かれたら、まぁ……正直、少し怖いな」


嘘偽りのない、俺の本当の本音だった。


西宮の実家にいる父親と、最後にまともに対面して会話を交わしたのがいつだったのか、もう思い出せないほど昔のことだ。


少なくとも、高校生になって以降、俺は自分の人生の大きな節目節目――大学の進路を決める時も、システムエンジニアとして大阪の会社に就職する時も――どこかで、あの厳格だった父親の、確固たる助言や、あるいは俺を導く命令を欲していたのかもしれない。


しかし、プライドが邪魔をしてそれを素直に口に出せないまま、お互いに背を向け合い、冷え切った歪な関係を十近くも構築してしまったのは、他でもない、俺自身の弱さのせいだった。会社を辞めた報告すら、スマホの無機質なメッセージ一本で済ませて逃げ出した情けなさが、今更になって激しい罪悪感となって胸を突く。


「……オトン、やっぱり俺にめちゃくちゃ怒っとると思うか?」


「どうじゃろうねぇ。怒っとるかもしれんし、案外、心配しちょるかもしれんよ」

美樹は前を見つめたまま、穏やかな声で言った。


「でもね、涼太。高松のお母さんの時と同じ。実際に会って、真っ向から顔を見んと、本当の気持ちなんて絶対に分からんよ」


「……そう、やな」


その美樹の言葉には、何よりも重い圧倒的な『実感』の質量があった。つい数時間前、高松のあの平屋で、五年間の沈黙を破って母親と涙を流して抱き合った彼女自身が、その真実を証明してくれているのだから。


お互いに本音をぶつけ合う前は、壊れてしまうのが怖くて足がすくむ。だけれど、真っ向から向き合わなければ、人生のルートは一生、何一つ変わりはしないのだ。


「大丈夫よ、明日は私もちゃんと実家まで一緒についてっちゃるけえね」

美樹がチラリとこちらを見て、いたずらっぽく微笑んだ。


「え? お前も、俺の実家に来てくれるんか?」


「当たり前じゃん。ウチら、もう恋人同士じゃろ?」


さらりと、あまりにも当然のように言われて、俺は急に耳の裏が熱くなるのを自覚した。二十九歳にもなって、まだその甘い響きに気恥ずかしくなってしまう自分が、なんだか酷くマヌケに思える。


「……あ、おぉ。そうやったな」


「ふふ、忘れたらぶち怒るけえね」


「一日で忘れるわけないやろ」


俺が言い返すと、美樹は本当に満足そうに、弾けるような笑顔を咲かせた。その笑顔を見つめているだけで、明日オトンと対峙するための勇気が、俺の身体の底からフツフツと湧き上がってくるのが分かった。



夕方が近づく頃、二人の車はついに兵庫県の姫路市街へと滑り込んだ。

ビルの立ち並ぶ近代的でお洒落な街並みの、その遥か向こうの正面に、夕暮れの光を浴びて神々しく白く輝く、壮大な姫路城の姿が視界に飛び込んできた。


「おお……っ! 凄いな、あれが姫路城か!」

俺が子供のように声を上げる。


「ほんまに真っ白じゃねぇ。お城っていうか、芸術品みたい」


「ほんまやな。あれは『白鷺城』って呼ばれるだけあって、白過ぎ城やわ」


「何それ、全然おもしろくない」


「……厳しすぎやろ、お前」


しょうもない冗談を言い合いながらも、俺たちのこの門司からの長い長い旅路は、いよいよ本当の終盤戦へと差し掛かろうとしていた。ここから目的地の西宮までは、もう目と鼻の先の距離だ。


そして――。

長年避け続けてきた、俺の父親との、真っ向からの再会の時間も、すぐ目の前まで迫っている。

その運命の対峙を迎える前の、二人きりでの最後の穏やかな夜が、白く輝く城下町、姫路の街で静かに始まろうとしていた。


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