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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第23話「あの日の続きを」

第23話「あの日の続きを」


家の中は、どこまでも静かだった。


どこか懐かしい木と畳の匂いが漂う、昔ながらの端正な日本家屋。長年かけてピカピカに磨き上げられた廊下を渡り、仏壇の置かれた和室を横目に、俺たちは奥の居間へと通された。


美樹はまるで借りてきた猫のように、落ち着かない様子で座布団の上にちょこんと正座している。樹里さんは「すぐお茶淹れるからね」と、台所で慌ただしくお茶の用意を始めていた。


ぎこちない。とにかく、空間の全てが猛烈にぎこちなかった。

五年ぶりの再会なのだから当然だろう。血の繋がった親子であるはずなのに、まるで初対面の気まずい客同士が対峙しているかのようだった。


「はい、お茶どうぞ。冷めないうちにね」

樹里さんが少し震える手で、俺たちの前に温かい湯呑みを置く。


「……うん、ありがとう、お母さん」

美樹が目を合わせないまま、消え入りそうな声で答える。


それだけで、あとの会話が全く続かない。湯呑みから立ち上る湯気をじっと見つめる二人の横で、俺は内心、どうしたものかと激しく困り果てていた。自分がここにいる理由は分かっている。美樹の暴走を止めるため、そして彼女を支えるためだ。だけれど、今のこの空気の中では、俺は完全に部外者でしかなかった。


それでも、ここで気まずさに負けて帰るわけにもいかない。


「……そういえば、涼太くんは今は大阪に住んでるの?」

重苦しい沈黙に耐えかねたように、樹里さんが俺に優しく話を振ってくれた。


「あ、はい。ずっと大阪の本町の方で暮らしてます」


「そう、大変ねぇ。お仕事は何をされてるの?」


その質問が飛んできた一瞬だけ、俺の身体が固まった。昨日の、新居浜での新井さんとの最悪な邂逅が脳裏をよぎる。しかし今の俺にはもう、隠すようなちっぽけなプライドは残っていなかった。美樹が、ありのままの俺をヒーローだと肯定してくれたからだ。


「……実は、先月、会社を辞めまして」


「あら、そうなの?」

樹里さんが意外そうに、少しだけ目を丸くする。


すると、それまでガチガチに緊張していたはずの隣の美樹が、張り詰めた顔をふっと緩めて吹き出した。

「あはは! そうなんよお母さん、涼太、今はただの無職なんよ!」


「おい、お前、人の身の上をそんな楽しそうに暴露すなや」


「だって事実じゃん。無職の旅人さんじゃろ?」


美樹がケラケラと笑う。つられて樹里さんも「あらあら、そうなのねぇ」と目元を和ませた。この家に入ってから、初めて自然な笑い声がリビングに響く。

そのおかげで、凍りついていた部屋の空気が、少しずつ優しく和らいでいくのが分かった。


昼食を兼ねて、三人でひとつの食卓を囲むことになった。

樹里さんが手際よく台所で準備してくれた、お馴染みの家庭料理が並ぶ。じっくり味が染みた根菜の煮物、香ばしく焼かれた焼き魚、お出汁のいい匂いがするお味噌汁。


「いただきます」

三人で小さく声を揃え、静かに食事が始まった。


最初は、当たり障りのない今日の天気や、俺の門司からの自転車旅や他愛のない話ばかりだった。

しかし、箸が進み、時間が経つにつれて、お互いがずっと避けていた本質の話題が、目に見えない足音を立てて確実に近づいてくる。

最初に静かに口を開いたのは、母親の樹里さんだった。


「……美樹。あの子のお墓、さっき行ってきたのね」

樹里さんは持っていた箸をそっと置き、静かに切り出した。


「うん……」

美樹も動きを止め、小さく頷く。

「久しぶりに、ちゃんとお参りしてきた」


短い、だけれどひどく濃密な沈黙。

樹里さんは少しだけ視線を落とし、寂しそうに微笑んだ。


「そう……お父さんね、きっとすごく喜んでると思うわ。美樹が元気な顔を見せに来てくれて」


その言葉に、美樹は何も答えなかった。しかし、昔のように激しく否定することもしなかった。


「……ごめんね、美樹」


本当に、突然だった。

樹里さんが食卓に向かって、深く、深く頭を下げた。

あまりの突飛な行動に、美樹も俺も、持っていた箸を持ったまま完全に驚きに目を見張った。


「え……?」


「ちょっと、お母さん!? 急に何……?」


樹里さんは頭を下げたまま、頑なに顔を上げようとはしなかった。

「……ずっと、あなたに謝りたかったの。この五年間、ずうっと」


その声は、明らかに小刻みに震えていた。

「十年前の……あの、東京のこと」


一瞬で、部屋の空気が張り詰めた刃物のように一変した。美樹の表情が、目に見えて硬く強張っていく。樹里さんは涙を堪えるようにして、言葉を絞り出し続けた。


「短大を出て、これから夢に向かって東京に行こうとしていたあなたに……お父さんが病気だからって、この街に『残りなさい』って強制してしまったこと。私……ずっと、ずっと死ぬほど後悔してたのよ」


「……」

美樹は微動だにせず、黙ったまま母親の告白を聞いている。


「あの時、お父さんが急に癌の末期だって言われて……私、本当にパニックになって、怖くて仕方がなかったの。この先の人生、一人きりで取り残されるのが、どうしても耐えられなかった。……だから、美樹に甘えたのよ」


樹里さんの目から、大粒の涙がポロポロと畳にこぼれ落ちる。

「母親のくせにね……あなたの輝かしい未来や人生よりも、自分の寂しさや都合を優先してしまった。本当に、本当にひどい母親だったって……ずっと自分を責めてたの」


その言葉の重さは、尋常ではなかった。五年間もの長い沈黙の裏で、この母親がどれほど深い後悔と罪悪感を抱え込み続けてきたのか、その全てが詰まっていた。


「……違う」


美樹が、震える唇を噛み締めながら、初めて拒絶の口を開いた。樹里さんがハッとして顔を上げる。


「違うよ、お母さん」

美樹の声は、今にも泣き出しそうに激しく震えていた。

「お母さんが悪いんじゃない。お母さんが自分を責める必要なんて、どこにもないんよ」


「でも、私があなたを縛り付けて、夢を奪って……」


「残るって決めたのは、他の誰でもない、私じゃん!」

涙を堪えるように、美樹の防府の訛りが次第に大きくなっていく。

「お母さんに言われたからじゃない。私だって、あの時、お父さんと一緒に最期までおりたかったんよ! 遠い東京に行って、もし何もある段階でお父さんが死んじゃったら、一生後悔するって思った。だから自分で残るって決めたの!」


「美樹……」


「後悔したくなかったから、私はここに残ってお父さんの看病をした。それは今でも後悔しちょらん!」

樹里さんの目にも、さらに溢れんばかりの涙が浮かぶ。


「じゃあ……じゃあなんで」

樹里さんが、胸を掻きむしるようにして絞り出すような声で訊ねた。


「なんで、お父さんが亡くなった後……そんなに自分を責めて、私に怒りをぶつけて、この家から出ていっちゃったの? なんで、五年間も一回も帰ってきてくれんかったん?」


美樹が、ピタッと口を閉ざした。その問いこそが、二人の親子を五年間もの間引き裂いていた、最大の核心だった。


最愛の父を失った後、自暴自棄になって母親と大喧嘩をして逃げ出したあの日。

母娘をずっと隔てていた、冷たい壁の正体。


「……怖かったんよ」

長い沈黙の末、ようやく美樹の口から漏れ出た言葉は、驚くほどに脆く、震えるものだった。


「え……?」


「この高松の家に帰ってきたら……」

美樹の目から、堰を切ったように一気に涙がこぼれ落ちた。

「全部、全部思い出しちゃうからじゃん……!」


彼女は嗚咽を必死に堪えながら、胸元を強く 握りしめた。

「あの優しいお父さんが、もうこの世界のどこにもおらんことも……。自分が自暴自棄になって、一番辛いはずのお母さんに酷い言葉をぶつけて傷つけたことも。自分の夢を諦めて、何にもなれんかった情けない現実も……! この家に帰ってきたら、全部生々しく思い出して、自分が壊れてしまいそうじゃったんよ!」


樹里さんは何も言えず、ただ涙を流して娘を見つめている。


「だから……だから私は、自分の罪悪感から目を背けて、福岡や防府に逃げ回っとったんよ。お母さんの連絡も全部無視してさ……。本当に、最低で身勝手な娘じゃろ、私は……っ」


「違う! そんなこと絶対にない!」

樹里さんが初めて、食卓を叩くようにして強く声を張り上げた。その毅然とした母親の声の響きに、美樹も俺も、一瞬で息を呑んだ。


「違うよ、美樹」

樹里さんは大粒の涙を流しながら、激しく首を横に振った。


「私はね、あなたに怒ってなんかいない。恨んでなんか、一秒たりともないのよ。連絡が取れなくなってから、ずっと、ずっとあなたのことだけを心配してた。どこかで倒れてないか、ご飯はちゃんと食べてるか、寂しい思いをしてないかって……。でもね」


彼女の声が、愛おしそうに震える。

「……あなたがこの世界のどこかで、生きていてくれるなら。ただそれだけで、私はもう十分に幸せだって、ずっとそう思いながらここで待ってたのよ」


その無条件の、圧倒的な母親の愛の言葉に。

五年間、美樹の心をがんじがらめに縛り付けていた、頑なな氷の壁が、音を立てて木っ端微塵に崩れ去った。


「う、うあぁぁ……っ!」

美樹はついに堪えきれなくなり、両手で顔を覆って、子供のように声を上げて激しく泣き崩れた。その華奢な肩が、激しい後悔と安堵でガタガタと大きく震える。樹里さんもまた、食卓を回って美樹の隣に寄り添い、その震える背中をぎゅっと抱きしめて、一緒に声を上げて泣いていた。


長い、本当に長い沈黙の時間。

リビングには、ただ二人の涙の音と、お互いを求め合うような嗚咽だけが響き渡っていた。

五年間、言えなかった本音の言葉。十年間、お互いを苦しめ続けてきた重い後悔の澱。それが、今この瞬間に、温かい涙となってようやく外へと流れ出していく。


俺はただ、静かにその光景を見守り続けていた。何も言葉を挟むべきではないと思った。これは、過酷な時間を乗り越えてきた、母と娘だけの神聖な時間だ。今の自分にできる唯一の役目は、この再生の瞬間を、静かにその目に焼き付けることだけだった。


やがて、少しだけ涙が引いた頃、美樹が母親の胸に顔を埋めたまま、小さく小さく呟いた。


「……お母さん、ただいま」


今度は、先ほどの玄関先での余所余所しい挨拶ではない。五年のブランクの全てを受け入れ、心の底から帰ってきた、本当の意味での、魂の「ただいま」だった。

樹里さんは何度も何度も涙を拭いながら、愛おしそうに、晴れやかな笑顔を咲かせた。


「おかえり、美樹。……本当によく帰ってきたね」


その瞬間。

俺たちの目の前で、五年という巨大な親子の距離が、すうっと音を立てて縮まったのが分かった。


もちろん、これで過去の傷が全て綺麗に解決したわけではない。これまでのすれ違いを、一瞬で完璧に許し合えたわけでもないだろう。でも、二人はようやく、逃げ出さずに同じスタートラインに並んで立つことができた。今の二人にとっては、それだけで、十分にすぎるほど十分だった。


泣き腫らした顔で笑い合う二人の美しい姿を見つめながら、俺は自分の胸の奥が、不意にチクリと痛むのを自覚していた。


この高松の平屋の家で起きている劇的な和解は――決して、俺にとっても他人事なんかやない。

俺の人生にも。この自転車旅の終着点である西宮の実家で、必ず真っ向から向き合わなければならない、大切な相手が一人いる。

何年も何年も、冷え切った関係のまま対話を避け続けてきた、俺のオトンが。


美樹の必死な勇気を見届けてしまった今、俺はもう、自分の現実からだけ逃げ出すわけにはいかへんかった。その強い覚悟を自覚した時、俺の胸の最奥に、小さな、でも確かな痛みが走ったのだった。


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