第22話「五年ぶりの帰郷」
第22話「五年ぶりの帰郷」
瀬戸内海は今日もどこまでも穏やかだった。
空には雲一つない、絶好のドライブ日和やった。
白い車の中の空気は、昨日までのあの賑やかさとは少し違っていた。美樹の口数が、明らかに少なくなっている。
運転席で真っ直ぐ前を見つめたまま、時折、無意識のうちにハンドルをぎゅっと握り直しているのが横目で分かった。緊張しとんねん。言葉にせんでも、俺には痛いくらいに伝わってきた。
無理もない話だ。
五年以上もの間、ずっと避け続けて、一切の音信を断っていた母親と、今から真っ向から再会するのだから。
「……なぁ、うどん食うか?」
少しでも気分転換になればと思って、俺は何気なく訊いてみた。
「食べる」
間髪入れず、即答だった。
「そこは悩まへんねんな、お前」
「香川じゃけえね。そこは外せんのんよ」
美樹はふっと少しだけ笑った。
そのいつもの悪戯っぽい笑顔を見て、俺は心の底から安心した。完全に余裕を失って、パニックになっているわけではないらしい。
昼前。美樹の車はついに高松市内へと入った。
市街地の手前で車を降り、まず二人が向かったのは墓地だった。
高台にある、潮風の吹き抜ける小さな霊園。瀬戸口家の籍が入るお墓は、その一番奥まった静かな場所にあった。
新しく磨かれた墓石には、はっきりと『瀬戸口』の文字。その側面に、十年前に亡くなった父親の、智雄さんの名前が刻まれている。美樹は墓前に立つと、しばらく何も言わずにただ立ち尽くしていた。
静かに白い花を供え、手桶の水をかける。線香を取り出して、火をつけた。
二人は並んで、そっと手を合わせた。
俺も少しだけ後ろに離れて、静かに手を合わせる。
開けた海から風が吹き抜け、線香の白い煙が、青い空へとまっすぐに昇っていった。
「……お父さん、久しぶり」
美樹がぽつりと、小さく呟いた。
「来るのが、すっごく遅くなってごめんね」
その声は、ウミネコの鳴き声にかき消されてしまいそうなくらいに小さかった。でも、すぐ後ろにいる俺の耳には、はっきりと聞こえた。
「……怒っとるかね」
美樹は手を合わせたまま、俯きがちに言った。
「私がお母さんからずっと逃げ回っとったこと、お父さん、怒っとるじゃろうか」
「怒らへんよ、絶対に」
気づけば、俺の口から言葉が自然と漏れていた。
美樹が驚いたように少しだけ振り返り、泣きそうな顔のまま笑った。
「そうかねぇ?」
「おぉ。昔、俺らを釣りに連れてってくれた時のおじさん、そんなことで怒るような小さい人やなかったやろ。いつも大声で笑って、お前のこと全部許してくれてたやんか」
「……うん。そうじゃね」
その笑顔は、お父さんに許されたように、どこかひどく安心したようだった。お墓参りを終えたあとも、美樹はしばらくの間、静かに墓石を見つめ続けていた。きっと、この十年間、誰にも言えずに胸の奥に閉じ込めていた色々な出来事を、心の中で一生懸命お父さんに話しかけているのだろう。
そして、お墓を後にして、ついにその時がやってくる。
「よし、行こか」
俺が言うと、美樹は小さく頷いた。だけれど、その返事は先ほどよりも少しだけ弱々しかった。
車は、高松市内の古い住宅街へと入っていく。昔ながらの平屋と、新しく建てられた現代的な家が入り混じる、ひどく静かな場所だった。
やがて、生け垣が綺麗に切り揃えられた、一軒の小さな平屋の前で車が静かに止まった。
「……ここよ」
美樹がサイドブレーキを引きながら言った。その声は、完全に硬くなっている。
家は、隅々まで本当に綺麗に手入れされていた。庭の片隅には、季節の紫陽花が鮮やかに咲いている。軒下では、大人の洗濯物が初夏の風に揺れていた。誰かが、今も確かにそこで暮らしているのだという気配が、生々しく伝わってくる。
しかし、美樹は一向に車から降りようとしない。キーを回して、エンジンを切る気配すら微塵もなかった。ただ、じっと前を向いたまま、白くなるほどハンドルを強く握りしめて動かない。
十秒、二十秒と、長い沈黙の時間だけが虚しく過ぎていく。
「……なぁ、今のうちに防府に帰るか?」
俺は助手席から、あえておどけた調子で、冗談めかして言ってみた。
すると美樹は、張り詰めていた糸が切れたように、ぷっと吹き出した。
「あはは! 最低!」
「いや、今ならバックギヤ入れて逃げてもまだ間に合うで」
「ほんま最低。涼太のバカ」
そう言って笑った彼女の肩から、少しだけ強張った力が抜けたようだった。
美樹は深く、大きく深呼吸を一つした。
そして車のエンジンを切ると、ゆっくりと車のドアを開けた。
二人は並んで、静かに玄関へと向かう。美樹の震える指が、インターホンのチャイムを静かに押した。
ドクドクと、自分の心臓の鼓動が耳の奥でうるさいくらいに聞こえる気がした。
数秒の後。
家の中から、タッタッタと小さくスリッパを引きずる足音が聞こえてきた。それが、少しずつ玄関の扉の向こうへと近づいてくる。
カチャリ、と鍵の開く音がして、静かに玄関の扉が開いた。
そこに現れたのは、五十代後半ほどの小柄な女性だった。
上品に白髪を混じらせた髪。佇まいや、どこか勝ち気そうな顔のパーツが、驚くほど美樹によく似ている。だけれど、その目元には、俺の知らない過酷な長い年月が刻まれているのが分かった。――美樹の母親、樹里さんだ。
樹里さんは、ドアを半開きのまま、完全に金縛りに遭ったように固まった。
隣の美樹もまた、息を呑んだままガチガチに固まっている。
誰も、何も言葉を発せられない。
五年という、長すぎて重すぎる沈黙の時間が、いまこの狭い玄関先を冷たく埋め尽くしていた。
最初に、震える口を開いたのは母親の樹里さんのほうだった。
「……美樹、なの?」
掠れた、今にも泣き出しそうな声だった。血の繋がった我が子だ。確認する必要なんてどこにもないはずなのに。それでも、目の前の現実が信じられなくて、確認せずにはいられなかったのだろう。
「うん……」
美樹もまた、泣き出しそうなのを必死に堪えて、消え入りそうな声で小さく答えた。
「ただいま、お母さん」
たった、それだけの言葉。でも、五年間の空白を飛び越えるには、その四文字だけで十分だった。
樹里さんの大きな瞳に、一気に大粒の涙が溢れ出す。
「おかえり……よく、帰ってきたね……」
それだけを言うのが、今の彼女には精一杯のようだった。
美樹は泣いてはいなかった。涙を必死に堪えるようにして、その唇を痛いくらいに強く噛み締めていた。
二人とも、本当はこの五年の間に溜め込んできた言いたいことが、山ほどあるはずだった。
あの時のことを謝りたいことも。連絡を無視し続けたことに怒っていることも。今どうしているのか聞きたいことも。
それなのに、お互いの前に立つと、何一つ言葉になって出てこない。五年という時間は、それほどまでに圧倒的に長くて、不器用な親子を惑わせる。
「……立ち話も何だし、入る?」
樹里さんが涙を指先で拭いながら、ぎこちない、だけれど温かい笑顔を見せた。
「うん。お邪魔するね」
美樹も、同じように少しぎこちなく頷いた。
そして、樹里さんの視線が、美樹の少し後ろに立っていた俺の方へと真っ直ぐに向けられた。
「あら……?」
そこに他人がいることに、今初めて気づいたというような顔をする。
「そちらの方は、どなた?」
一瞬、美樹が言葉に詰まって俺の顔を見た。
幼馴染み、友人、ただの無職の旅仲間――。どれも間違いではないけれど、どれも今の俺たちの関係を表すには、少しだけ違うような気がした。
「お久しぶりです。太田涼太と申します」
美樹が迷うより先に、俺が背筋を伸ばして一歩前に出て、深く頭を下げた。
「昔、防府の隣の家でお世話になっていた、美樹の幼馴染みです」
樹里さんは驚いたように、その目を大きく見開いた。
「えっ……じゃあ、あの、西宮に引っ越していった、あの涼太くん!?」
「はい。覚えていてくれましたか」
「もちろんよ! 忘れるわけないじゃない!」
樹里さんは、本当に嬉しそうに、弾けるような笑顔を見せた。
「まぁ、すっかり大きくなって……! 立派な大人の男の人になっちゃって」
「もう、今年で二十九歳になりましたから」
「そうよねぇ、美樹と同い年なんだものね」
樹里さんはしみじみと言ってから、玄関の戸を大きく開け放った。
「さあ、どうぞどうぞ。狭い家だけど、中に入って」
「お邪魔します」
俺は美樹の背中をそっと押して、家の中へと招かれた。
だけれど、俺は冷徹に気づいていた。
五年ぶりの劇的な「再会」というイベントは、今この瞬間に終わったのだ。本当に難しくて、本当に過酷な話し合いは、まさにこれから始まるのだということに。
この平屋の家の中に、五年間もの間ずっと澱のように積み重なり続けてきた、冷たい沈黙。
十年前の、最愛の父の死。
そして、あの日に拗れてしまった、母と娘の哀しすぎるすれ違い。
その全ての因縁が、このリビングの空気の中に、今も生々しく残っている。
そして今日、俺という存在を伴って、二人がようやく本当の過去と未来に向き合う時が、ついに訪れたのだった。




