第21話「無様なヒーロー、二十九歳の再生」
第21話「無様なヒーロー、二十九歳の再生」
レストランを出てからの記憶が、ほとんどない。
気づけば俺は、美樹の車の助手席で、ただひたすら俯いていた。
美樹は何も言わず、ただ静かに車を走らせていた。着いたのは、新居浜の海沿いにある広い駐車場だった。平日の昼下がり、周囲には他の車の姿もほとんどない。
エンジンが切られ、波の音だけが車内に満ちる。
「……ごめん」
絞り出すような声が、自分の口から漏れた。
「何が?」
「何がって……格好悪いとこ見せた。二十九歳にもなって、仕事から逃げ出してさ。あんな風に哀れみの目を向けられて、何も言い返せんかった。お前がずっと信じて待ってくれてたのに、俺の正体は、ただの情けない無職の逃亡者や」
膝の上の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。美樹の前でだけは、あの小学校の頃のままの「格好いい涼太」でいたかった。その身勝手なプライドが、今の自分をさらに惨めにする。
視界がじわじわと滲み、情けなくて涙が溢れそうになった。その時、シートの擦れる音がして、美樹がこちらに身体を向けた。
「涼太、こっち向いて」
拒むようにさらに俯く俺の肩を、美樹の両手が優しく、でも拒絶を許さない強さで掴んだ。強引に顔を上げさせられる。真っ直ぐに俺を見つめる美樹の瞳は、少しだけ潤んでいたけれど、驚くほど力強かった。
「何が逃亡者なか。何が情けないんか。……覚えとる? 小学校の時、転校生じゃった私クラスで一人ぼっちで、誰からも話しかけられんで、毎日泣きそうじゃった時。あの時、私の手を引っ張ってくれたん、誰じゃった?」
「それは……昔の話やろ」
「昔の話じゃない。あの時、涼太は私に言ったんよ。『周りが何て言おうと、俺は美樹の味方やから』って。その言葉が、どれだけ私を救ってくれたか、涼太には分からんのんよ」
美樹の声が少しだけ震える。だけれど、彼女は言葉を止めなかった。
「スーツを着とろうが、無職じゃろうが、そんなの関係ない。会社を辞めたのは、涼太が一生懸命頑張って、ボロボロになるまで戦った結果じゃろ? 逃げたんじゃない、自分を取り戻すために旅に出たんじゃん。私にとってはね、今でも、こうして目の前におってくれる涼太が、世界で一人のヒーローなんよ」
「美樹……」
「仕事なんて、またこれから探せばええ。それよりも、涼太が生きて、また私を見つけてくれた。私を一人にせんで、こうして一緒に高松まで行ってくれようとしよる。それだけで、私はもう十分なんよ。じゃけえ……そんな風に自分を責めんで」
真っ直ぐにぶつけられた、無条件の肯定。
七年間、張り詰めた糸のように働き続け、最後は擦り切れて全てを失ったと思い込んでいた俺の心に、美樹の防府の訛りが、温もりとなって染み込んでいく。
「……俺、今凄く怖かったんや。お前に、幻滅されるのが……」
張り詰めていた心の決壊が崩れ、俺は美樹の肩に額を預けた。美樹の手が、そっと俺の背中に回され、子供をあやすように優しく叩いてくれる。
恥ずかしいくらいに涙が溢れた。同時に、不思議と胸の奥の重荷が、すうっと軽くなっていくのが分かった。
しばらくして涙が引いた頃、俺はゆっくりと身体を起こした。美樹は少し照れくさそうに笑いながら、ダッシュボードからティッシュを抜いて俺に差し出してくれた。
「顔、ぐしゃぐしゃじゃん。二十九歳の男のコが、よお泣くね」
「うるさいわ。誰のせいやねん」
鼻をすすりながら言い返すと、ようやくいつもの空気感が戻ってきた。
窓の外の瀬戸内海は、先ほどまであんなに冷たく見えたのに、今はキラキラと穏やかに輝いている。
新井さんに言された言葉のトゲは、もう俺の胸には残っていなかった。無職である現実が消えたわけではない。だけれど、隣にこの人がいてくれるなら、もう一度、一からやり直せる気がした。いや、やり直さなきゃいけない。俺をヒーローと呼んでくれる、彼女のために。
「よし」
パン、と自分の両頬を叩いて、俺は助手席の背もたれに深く座り直した。
「美樹、行こうか。高松へ」
「うん。……あ、でもその前に」
美樹が運転席の窓の外、はるか東の方角をじっと見つめる。その瞳に、再びかすかな緊張が走った。
「今度は、私が頑張る番じゃね」
「ああ。何があっても、今度は俺が横におるからな」
美樹は小さく、だけれど深く頷いて、再び車のエンジンをかけた。
俺たちの旅は、ここから本当の意味で、お互いの未来を紡ぐ旅へと変わり始めていた。




