第20話「新居浜の邂逅、あの日の逃亡者」
第20話「新居浜の邂逅、あの日の逃亡者」
翌朝、旅館を出発した美樹の車は、松山自動車道を滑るように走っていた。
助手席の窓を少しだけ開けると、流れ込んでくる五月の風が容赦なく俺の頬を撫でていく。隣でハンドルを握る美樹の横顔は、ゆうべ重い過去を吐露したせいか、どこか吹っ切れたようにも、あるいは嵐の前の静けさを湛えているようにも見えた。
「涼太、そろそろお腹空かん? 新居浜にね、すっごく美味しいランチのお店があるんよ。ちょっと高速降りて寄ってみん?」
「新居浜か。うん、ええよ。お腹も減ってきたし、美樹の案内に従うわ」
そんな軽い調子で応じたのが間違いだった。いや、間違いというよりは、あまりにも予期せぬ運命の悪戯だった。
新居浜……つい三ヶ月ほど前、俺はここに来ていた。
車を降り、美樹が連れてきてくれたのは、新居浜市内にある少しお洒落な洋食レストランだった。レンガ調の落ち着いた店内で、小綺麗な格好をした地元の人々やビジネスマン風の客で席が埋まっている。
久しぶりの都会的な雰囲気に気圧されつつも、運ばれてきたハンバーグを口に運んで「美味いな」と笑い合った、まさにその時だった。
「……ありゃ? もしかして、太田さん、ですか?」
背後からかけられた声に、俺の背筋が凍りついた。
関西弁ではない。だが、はっきりと聞き覚えのある、あのねっとりとした四国のイントネーション。
恐る恐る振り返ると、そこにはグレーのスーツを着た四十代半ばの男が立っていた。
綺麗に切り揃えられた髪、買い替えたばかりのような光沢のある眼鏡。その顔を見た瞬間、俺の脳裏に、あの生々しい「炎上」の記憶がフラッシュバックした。
「……あ、新井、さん……」
声が震えた。
新井さん。俺が大阪のIT企業に勤めていた頃、最後に担当した最大規模のシステム刷新プロジェクト――および、俺の致命的な設計ミスとスケジュールの遅延によって大炎上し、最終的に何千万円もの損失を出して頓挫した、あのプロジェクトの愛媛側のメインクライアント担当者だった。
「やっぱり太田さんじゃ! いやあ、奇遇ですねえ。こんなところで何をしてるんです? ああ、噂ではあのプロジェクトの後、会社を辞められたと聞きましたが……」
新井さんは悪気のない笑みを浮かべている。それが逆に、俺の胸に鋭い錐を突き立てるようだった。
あの時、連日の徹夜と鳴り止まないクレームの電話に精神が擦り切れ、上司に退職届を叩きつけて、文字通り全てから「逃げ出した」のだ。
「え、あ、はい。その、一身上の都合で……」
しどろもどろになる俺の様子を、対面に座る美樹が心配そうに見つめているのが分かった。その視線が、今の俺には何よりも痛かった。
「あの後大変でしたよ……で、今はどちらの会社に? また新しくIT関係でやられてるんですか? 太田さんの技術力なら、どこでも引く手あまたでしょう」
悪意があるのか無いのか、今の俺にとってこの質問は、最も残酷なナイフだった。
隣には、十八年間も俺を「格好いいヒーロー」だと信じてくれた幼馴染みがいる。その目の前で。
「……今は、その。何も、してなくて」
「え? 何もしてないって、求職中、ということですか?」
新井さんの表情に、わずかな憐れみと戸惑いが混ざる。
「あ、いや、ちょっと自分を見つめ直す旅を……自転車で、その……」
自分の声が、情けないほど小さくなっていくのが分かった。
二十九歳、もうすぐ三十路。キャリアの絶頂にいなければならない年齢で、実績を残すどころかプロジェクトを潰し、会社を逃げ出し、今はただの無職。そんな格好悪い現実を、一番見せたくない人間の前で、白日の下に晒されている。
「あ、ああ……そうですか。まあ、人生そういう時期もありますよね。いや、お食事中に引き止めてすいませんでした。それじゃあ、失礼します」
新井さんはそれ以上追及することなく、どこか気まずそうに頭を下げて去っていった。
残されたテーブルには、冷めかけたハンバーグと、完全に凍りついた俺がいた。
喉の奥がカラカラに乾いて、水すら飲み込めない。耳の奥で、カチカチと時計の針が鳴るような音が聞こえる。
「涼太……?」
美樹の静かな声が聞こえたが、俺はもう、彼女の顔を見ることすら出来なかった。ただ俯き、自分の膝の上で強く拳を握りしめることしか出来なかった。
(俺、何やってんのやろ……。何が自分を見つめ直す旅や。ただの、逃亡者やんけ……)
大人のプライドが粉々に砕け散る音が、静かに店内に響いた気がした。




