第19話「背中に伝わる温もり」
第19話「背中に伝わる温もり」
目を覚ました時、最初に感じたのは背中の温もりだった。
柔らかな感触。規則正しい静かな寝息。俺の腰には、細い腕がそっと回されたままだ。
俺は寝ぼけた頭で、しばらく状況を理解できんかった。数秒後、意識がはっきりするにつれて昨夜の出来事が一気にフラッシュバックする。
「……あ、そうやった」
海沿いの温泉宿。高松へ向かう旅の途中。そして、不安を吐露したあと、俺の背中に抱きついたまま眠ってしまった美樹。
俺は起こさないように小さく息を吐いた。ふすまの隙間から朝の光が差し込んで、畳の上を白く照らしている。遠くからかすかに鳥の声も聞こえる、ひどく静かな朝やった。
腰の腕を刺激しないよう、そっと首だけを動かして振り返る。
美樹はまだ夢の中にいた。少しだけ口元が緩んでいて、昨夜の怯えるような強張った顔が嘘みたいに、安心しきった表情を浮かべている。
(子供の頃も、こんな顔して眠っとったんかな……)
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に、その形が良い唇が小さく動いた。
「……おはよう、涼太」
目は閉じたままやった。
「なんや、起きてるやんか」
「さっきからね」
美樹が薄く目を開けた。そして、自分の腕が俺の腰をがっちりホールドしている状況を確認すると、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「逃げてないね」
「逃げるわけないやろ」
「昨日は冷たく背中向けたのに?」
「それはそれや。理性を保つための紳士の防衛策や」
「ふーん」
美樹はどこか満足そうに鼻を鳴らした。それから、もう一度だけ幸せそうに目を閉じる。その一連の仕草が妙に可笑しくて、俺は声を殺して笑った。
「ほら、もう起きろって」
「あと五分……」
「子供か、お前は」
「旅人ですー」
「意味分からんわ」
二人で同時に小さく吹き出した。
「これ以上起きんかったら、くすぐるぞ」
「なんそれ? セクハラで逮捕するけえね」
「あ、それは結構です」
「なーんそれ! 冷たいねぇ。じゃあ……ぎゅっとだけして、お守りに」
「あ、それも結構です」
美津子さんとの約束もあるし、ここは敢えて大人の男として突っぱねようとした。が、美樹はまるで子泣きじじいのような凄まじい妖術を使って、さらに強く俺の背中にしがみついてきた。
「あと五分だけでええっちゃ! 減るもんじゃないじゃろ!」
窓の外では、瀬戸内を照らす朝日が少しずつ高くなっていた。
今日は、いよいよ高松へ向かう日だ。
そして――美樹が五年間もの間、ずっと避け続けてきた母親との再会の日でもある。
その現実を思い出したのだろう。美樹の表情から先ほどの甘えが消えて、少しだけ真面目な、大人の横顔に戻る。
「……緊張しとるか?」
俺が静かに訊くと、美樹は小さく頷いた。
「少しね」
誤魔化しのない、正直な返事だった。
「でも」
美樹は再び、俺の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「昨日よりは、全然大丈夫」
「そうか」
「うん」
そして、少しだけ照れくさそうに視線を泳がせながら言葉を続ける。
「昨日、涼太にたくさん話を聞いてもらったけえね。心が軽くなったんよ」
俺は何も言わず、ただ深く頷いた。それで十分やった。
数年分の不安が、一日で綺麗に消え去るわけやない。けれど、もうそれを一人きりの孤独の中で抱え込む必要はなくなったのだ。すぐ隣に俺がいる。それだけでも、昨日までの彼女とは大きな違いがあるはずだった。
二人はようやく布団を出て、それぞれの身支度を調えてから一階の朝食会場へと向かった。
食事を取りながらふと大きな窓の外を眺めると、そこには太陽の光を浴びてキラキラと輝く、瀬戸内の穏やかな海が広がっていた。
俺たちの旅はまだ続いている。だけれど、確実にひとつの大きな一つの目的地へと近づいていた。
母と娘。父と息子。そして、十八年ぶりに再会した幼馴染みの二人。
それぞれが過去の傷やわだかまりと真っ向から向き合いながら、新しい未来へと前へ進むための旅。
しかし、美樹の思いを曇らせるような事件が待っているなど、この時は知るよしも無かった。




