第17話「おやすみの距離」
第17話「おやすみの距離」
温泉宿の夜は静かだった。
大きく開いた窓の外からは、瀬戸内の夜風に混じって、心地良い虫の声だけが聞こえてくる。
「……疲れたな、流石に」
俺は畳の上に大の字になりながら、ぽつりと言った。防府から周防大島、そしてフェリーでの移動。慣れない助手席とはいえ、色々な感情が動きすぎた一日だった。
「そう? 涼太はだらしないねぇ」
美樹はくすくすと笑った。
「私はまだまだ元気じゃよ」
「若いな、お前は」
「同い年じゃん」
他愛のない、いつもの掛け合い。
でも、俺の胸の奥は先ほどからどうにも落ち着かなかった。
大広間での夕食を終え、部屋に戻ってきてからのことだ。先ほどまで大浴場の湯気に包まれていた美樹の、少しはだけた浴衣姿が視界に入るたび、俺は男として妙に意識せざるを得なかった。
防府の定食屋で奇跡的に再会して、まだ数日。幼馴染みとはいえ、俺たちの間には十八年近い巨大な空白がある。それなのに、心の距離だけが恐ろしいほどのスピードで急速に近付いている気がした。
「……よし、そろそろ寝よか」
「……」
俺が布団に入りながら促すと、美樹は俯いたまま、何も答えなかった。
あまりに静かすぎて、彼女の小さな心音と、少しだけ荒くなった緊張した呼吸の音が、この狭い和室にやけに大きく響いて聞こえてきた。
枕元の常夜灯だけを残して主照明の電気を消すと、一気に部屋は薄暗いオレンジ色に包まれた。二人は、少し離れて並べられたそれぞれの布団へと入った。
しばらく、耳が痛くなるほどの沈黙。
そして――。
「……涼太」
「ん? 何や」
「こっち、来ん?」
それは、どこかで予想していたような、だけれど、いざ言われると心臓が跳ねるような、美樹の掠れた声だった。
俺は微動だにせず、天井の木目をじっと見つめたまま答える。
「……いや、ええわ」
「なんで?」
「まださ、自分の心の整理がちゃんとできてへんねん」
それは、今の俺の、これ以上ない正直な本音だった。
一昨日、防府の店で奇跡みたいに再会して。美樹の車に乗って、こうしてはるばる高松の手前まで一緒に来て。まるで恋人同士のような、甘くて濃密な時間を過ごしている。しかし、自分の気持ちに真っ直ぐなケジメをつけるには、あまりにも様々ことが急激に起こりすぎていた。
「頼むから、俺の理性を保たせてくれや」
そう言って、俺は美樹に背を向けるようにして寝返りを打った。美樹はしばらくの間、何も言わずに黙っていた。
そして――。
「……ふーん」
暗闇の中から、明らかに不満そうに尖らせた声が聞こえてきた。
「なぁ、怒ったんか?」
「別に」
「怒ってるやろ、完全に」
「怒ってない!」
その頑なな山口の訛りは、誰がどう聞いてもへそを曲げている時の言い方だった。俺は暗闇の中で、思わずふっと苦笑した。
しばらくして、衣類が擦れる音がした。
次の瞬間――。
俺の背中に、驚くほど柔らかな、そして温かい温もりがピタリと寄り添ってきた。
「美樹……?」
「ん」
美樹が布団の隙間を埋めるようにして、後ろから俺の身体をぎゅっと抱きしめてきていた。
「おい、ちょっと待てって」
「これくらい、ええじゃろ……」
背後で小さく照れくさそうに笑う声。彼女はそのまま、頑固に動こうとはしなかった。
しかし、俺の背中に容赦なく密着する、女性特有の柔らかい膨らみの奥から、先ほどよりも明らかにトクトクと早くなった彼女の鼓動が、ダイレクトに伝わってきた。
長い沈黙が流れた後、美樹がぽつりと、本当に小さな声で呟いた。
「私ね……」
いつになく静かで、どこか震えるような声だった。
「……お母さんのこと、本当はすっごく怖いんよ」
俺は身体を硬くしたまま、彼女の告白を黙って聞いた。
「明日、高松に帰るのがね、怖くて仕方ないん」
「おぉ」
「五年も一回も帰っとらんし、連絡も無視しちょったし……。今さら会うて、私、何て言われるんじゃろって、そればっかり考えてしまうんよ」
俺の腰に回された彼女の白い腕に、少しだけぎゅっと力がこもる。
「まだすっごく怒っとるかもしれんし、悲しませたかもしれんし。……当時のこと考えたら、私だって、本当に悪かったなって思うし」
言葉が、涙を堪えるようにして途切れた。
防府の街を回っている時も、ドライブの最中も、あいつは俺の前でずっと明るくお転婆に振る舞っていた。だけれど、その健気な笑顔の奥には、ずっとこんなにも重くて苦しいものを一人で抱え込み続けていたのだ。美津子さんの言っていた通り、俺はこの一途な幼馴染みの弱さを、何一つ分かっていなかった。
「……五年やもんな」
俺は静かに、言葉を紡いだ。
「うん」
「長かったな、お前にとっては」
「……うん、すっごく長かった」
静かな波の音。
そして、俺は彼女の腕の上に自分の手をそっと重ね、静かに言葉を続けた。
「でもさ、美樹。その五年もの間ずっとお前が一人で抱えてきた重いもんを、明日の一日だけで、全部綺麗に解決する必要なんてないだろ」
背中越しに、美樹が小さく息を呑む気配が伝わってきた。
「ただ、会いに行くだけで十分なんや。それだけでお前はめちゃくちゃ頑張っとるよ」
「……」
「明日その場で、全部のわだかまりを許し合う必要もない。そんなに焦らんでええよ」
「うん……」
「まずはさ、お互いの顔を見るだけでええねん。そっから始めようや」
しばらくの間、何の返事も聞こえなかった。
やがて――俺の背中に、小さな、細い震えがじんわりと伝わってきた。彼女が俺の浴衣の背中を、涙を拭うようにして顔を埋めてくる。
「……涼太、ありがとう」
掠れた、今にも消え入りそうな声だった。
俺はゆっくりと身体を回転させ、美樹の方へと振り返った。薄暗いオレンジ色の常夜灯の中。美樹の潤んだ瞳が、驚くほど目と鼻の先の距離にあった。
その瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝ってこぼれ落ちる。
お互いに、もう何も言わなかった。ここでこれ以上の言葉を重ねることは、かえって無粋で、大切な感情を軽くしてしまうような気がしたからだ。
ただじっと、息が触れ合うほどの距離で見つめ合う。
そして――。
二人は吸い寄せられるように、そっと唇を重ねた。
短く、優しく、お互いの存在の愛おしさを確かめ合うような、静かなキス。
そして、ゆっくりと離れる。
美樹は顔を真っ赤にして、少しだけ照れたように、でも本当に安心したように笑った。
「……ありがと、涼太」
「どういたしまして。……よっしゃ、今度こそ寝るぞ」
俺も小さく笑い、再び彼女に背を向けて布団に入り直した。
「おやすみ」
「え……?」
美樹の拍子抜けしたような声。
「おやすみ、って……涼太?」
「おやすみ」
「……それで、終わり?」
「終わりや。寝るぞ」
俺が即答すると、美樹は数秒間、暗闇の中で完全に固まっていた。
そして、フーーーッと、本日一番の盛大な溜め息を吐き出してみせた。
「……あんた、ほんまに真面目じゃねえ」
「悪かったな。紳士やねん、俺は」
言い返すと、再び背中に美樹の細い腕がそっと回ってきた。しかし、今度の抱擁には先ほどのような悲壮な強さはなく、どこまでも自然で、温かかった。
その美樹の体温が、俺の心を芯から満たしていく。
「おやすみ、涼太」
「ああ。おやすみ、美樹」
窓の外では、変わらずに優しい虫の声が響いていた。温泉宿の伊予の夜は、どこまでも静かに更けていく。
明日はいよいよ、瀬戸内を渡って高松へと向かう。
美樹がずっと恐れていた、母と娘が真っ向から向き合う日。




