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瀬戸の約束【11歳の約束、29歳で果たす】  作者: あおきつばさ


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第15話「瀬戸の道」

第15話「瀬戸の道」


ロビーへ戻った俺は部屋の鍵を返してチェックアウトを済ませた。朝の光を浴びながら、俺の胸の中には美樹の背負ってきた十八年間の質量が確かに残っていた。昨日までの迷いや不安は消え去り、ただ彼女を幸せにするという覚悟だけが熱く脈打っている。


防府駅近くの駐車場。約束の時間より少し早く着いたはずの俺を待っていたのは、一台の白いコンパクトカーだった。

運転席のドアに寄りかかって俺を見つけた美樹が、してやったりという顔で得意げに頷いた。


「車?」


「車」


「いや、俺、自転車旅なんやけどな」


「知っとるよ」


「高松まで一緒に行くって言うから、てっきり二人で並んで走るんかと……」


「そんなこと一言も言うとらんし、これからの移動距離を考えたら車じゃないと不便じゃろ」


あまりにも当然のように淡々と言い放たれてしまい、俺は反論の言葉を失った。


確かに彼女の言う通りだ。高松まではかなりの距離がある上に、今回の旅は美樹にとっては数年ぶりの深刻な「帰省」でもある。相応の荷物も必要になるだろう。俺が大阪の部屋であれこれと計画していた、しまなみ海道を自転車で走るルートは、また別の機会の話にするしかなかった。


「……自転車はどないすんねん」


「ホテルで預かってもらえるって、さっきフロントの人に言っといたじゃん」


「あ、そうなんや」


「帰りにまた防府に寄って、取りに来ればええんよ」


完全に段取りが組み立てられている。昨日の夜、高松行きを決めた時点である程度、彼女の中で計画を練っていたのだろう。

手際が良すぎる幼馴染みの段取りに、俺は完全に降参して両手を上げた。


「……お前、昔からそういうとこ強引やったな」


「優柔不断な涼太には、これくらいが丁度ええんよ」


「失礼な。これでも元システムエンジニアやぞ」


二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。


美樹の運転する白い車は、住み慣れた防府の街を離れ、瀬戸内海のきらきらとした海沿いの道を東へと真っ直ぐに向かった。助手席の窓を少しだけ開けると、流れ込んでくる初夏の潮風が心地いい。見上げれば、空はどこまでも青く、遮る雲ひとつなかった。今日の瀬戸内海も、驚くほど穏やかだった。


途中、周防大島へと立ち寄ることになった。大きな橋を渡る。

視界が一気に開け、眼下には吸い込まれそうなほどに真っ青な海が広がっていく。


「……めちゃくちゃ綺麗やなぁ、ここ」

助手席の窓に張り付くようにして、思わず感嘆の声が漏れた。


「じゃろ?」

ハンドルを握る美樹も、まるで自分のことのように少し誇らしげに目を細めた。橋を渡り終えると、車は島の美しい海岸線に沿って緩やかに走っていく。


白い砂浜、潮の香りが漂う小さな漁港、のんびりとした時間が流れる集落。窓の外を流れる風景を見つめていると、本土とは明らかに違う、どこか穏やかで優しい時間の流れを感じずにはいられなかった。


「なぁ、美樹」


「ん? 何ね」


「こういう静かなところに来るとさ、ほんまに会社辞めて良かったなって、心から思うわ」


「……後悔、してない?」

美樹がチラリとこちらに視線を向け、少しだけ心配そうに訊きてきた。


「全然。あんなボロボロになるまで張り詰めて働く生活、これ以上続けてたら自分が完全に壊れてたと思うしな」

俺はシートにもたれかかり、小さく息を吐いた。


「まぁ、これからどうするかっていう、無職ゆえの不安はめちゃくちゃあるけどな」


「それは、そうだよねぇ」


「三十歳目前で無職の独身って、文字面にしたらなかなかの破壊力やろ?」


「あはは、確かにその言い方はヤバい!」

美樹が快活に声を上げて笑う。でも、その横顔に浮かんだ笑顔は、驚くほどに優しかった。


「でもね、涼太、たぶん今の方が楽しそう」


不意を突かれたその言葉に、俺は少し驚いて彼女の顔を見つめた。


「そうか……?」


「うん。昨日からずっと、会社の話してる時より今の方がずっと」


俺は照れ痕に、再び助手席の窓の外へと視線を戻した。太陽の光を浴びて、瀬戸内の海面がダイヤモンドのようにきらきらと輝いている。


確かに、指し示された通りかもしれない。大阪で他人の作ったスケジュールに追われていた日々を終え、旅に出てから初めて、自分の人生の主導権を自分自身で選んで握っているという、確かな感覚があった。


昼過ぎ、ここから松山近くの三津浜行きフェリーの時間まで、まだ二時間あった。

二人は、港の近くにある海の見える小さなカフェに入った。テラス席からは瀬戸内海が一望できる。平日ということもあって、観光客の姿もちらほらとある程度で、静かな時間が流れていた。


「なぁ」

運ばれてきたアイスコーヒーのストローを弄びながら、不意に美樹が言った。


「ん? 何や」


「覚えとる?」


「何をだよ」


「私ら、結婚する約束しとったんよ」


俺は口に含んだばかりのアイスコーヒーを、盛大に吹き出しそうになった。慌てておしぼりで口元を押さえる。


「……はぁ!? 何言うてんねんお前!」


「小学校三年くらい」


「してへんって」


「した」


「してへん」


「した」


周囲の目を少し気にしながら、子供の頃と全く同じような、幼稚な押し問答が始まった。だけれど美樹の表情は、本当に楽しそうに輝いていた。


「絶対してへんわ」


「したんよ」


「証拠は?」


「私が覚えとる」


「それ証拠にならんやろ」


俺が呆れたように言うと、美樹はあははと声を上げて大笑いした。その眩しい笑顔につられて、俺の側もいつの間にか笑ってしまっていた。笑いながらも、俺の胸の奥が、夕暮れの太陽に照らされた時のように少しだけ熱くなっていくのを感じていた。

今朝、美津子さんから聞かされた言葉が、何度も脳裏をよぎる。


『あの子がこれまで、どれだけ孤独だったか分かる?』

『実在するかも分からん過去の男をいつまで待っとるんって、周りから笑われとったんよ』


「あとで昔作った婚約証明書を見せちゃる」


「こ、婚約?」


「うん」


冗談だ。たぶん。いや、子供の頃の、ただのごっこ遊びの延長、他愛のない落書きの類いに違いない。

それなのに、俺は自分の心臓の鼓動が、急にトクトクと速くなっていくのを自覚していた。


(なんやねん! その婚約証明書って……。美樹のやつ、ほんまに、そんなものまで今までずっと大事に持ってたんか……?)


美樹には言えない秘密の動揺を抱えたまま、俺はただ、静かに波打つ瀬戸内海の青い水面をじっと見つめ続けていた。

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