三歳まで使ったぴかぴかおむつを卒業します
三歳になったルウには、最近ひとつ大きな目標があった。朝起きるなり着替えの籠から小さなパンツを取り出し、得意げに頭の上まで掲げる。
「とうちゃん! ルウ、パンツ!」
「今日はパンツで頑張るのか?」
「うん! ルウ、おにいちゃん!」
一歳の頃は「とちゃ!」だった呼び方も、今ではすっかり「とうちゃん」になった。胸を張る姿だけなら立派なお兄ちゃんだが、昨日も遊びに夢中になって危うく失敗しかけたばかりである。
セイルは急かすつもりはなかった。昼間はほとんど失敗しなくなり、夜も朝まで大丈夫な日が増えている。このまま少しずつ慣れていけば、自然に卒業できるだろうと思っていた。
二歳の時にセイルの指を治して以来、ルウがあの不思議な治癒魔法を使うこともなかった。セイルもわざわざ試させたりはせず、「少し変わった魔法の才能があるのかもしれない」くらいに考えたまま、いつも通りの日々を送っていた。
今のところ、魔法より大きな問題はおむつだった。
宿へ遊びに来る少し年上の子が「もうおむつしてない」と自慢しているのを聞いて以来、ルウは自分も早くパンツだけで過ごしたくて仕方がないらしい。
「したくなったら、我慢しないですぐ言うんだぞ?」
「わかった!」
「遊んでてもだぞ?」
「わかった!」
返事だけなら完璧だったが、その日の昼、宿の裏庭で遊んでいたルウが突然ぴたりと動きを止めた。洗濯物を干していたセイルが様子を見ると、ルウは股の辺りを押さえ、ものすごく真剣な顔でこちらを見ている。
「とうちゃん……」
「どうした?」
「……でる」
「早く言え!」
セイルは慌ててルウを抱き上げ、そのまま便所まで走った。どうにか間に合い、用を済ませたルウは、自分でも成功したことが分かったらしく両手を高く上げる。
「できたー!」
「ああ、できたな。ちゃんと言えて偉いぞ」
「ほめて!」
頭を撫でると、ルウは満足そうに目を細めた。そのあと廊下ですれ違った女将にまで「ルウ、でるっていった!」と得意げに報告したので、セイルは「そこまで詳しく言わなくていいんだぞ」と慌てて止めることになった。
そんな日を何度も繰り返した。失敗してしょんぼりする日もあれば、朝まで大丈夫だったことを得意げに報告する日もある。セイルは成功すれば褒め、失敗しても叱らず、「次また頑張ればいい」と着替えさせた。
やがて昼間は完全にパンツだけで過ごせるようになり、夜も失敗しない日が続いた。そろそろ大丈夫だろうと判断したセイルは、ある朝、ルウへ声をかけた。
「ルウ。今日から、おむつ卒業してみるか?」
「そつぎょう?」
「もう夜もパンツだけで大丈夫そうだからな。今日から、おむつなしだ」
「ほんと!? ルウ、おにいちゃん!」
「ああ。頑張ったな」
ルウは「やったー!」と両手を上げ、その場でぴょんぴょん跳ねた。自分が待ち望んでいたお兄ちゃんの仲間入りができたと思っているらしく、その日は何度も女将や宿の従業員へ「ルウ、おむつそつぎょう!」と報告して回った。
ところが、その日の夜だった。
風呂から上がったルウは、いつものように棚のところへ走っていった。そこから大事そうに抱えて持ってきたのは、生後二か月の頃から使い続けてきた、あの白い布だった。
「とうちゃん。ぴかぴか!」
いつものように差し出してくるルウへ、セイルは少し困った顔をした。
「ルウ。今日はもう、それ巻かないぞ」
「……なんで?」
「おむつ卒業しただろ? 今日からパンツだけだ」
ルウは自分のパンツを見下ろし、それから腕の中の白布へ目を落とした。何度か見比べているうちに、さっきまで嬉しそうだった顔が少しずつ曇っていく。
「……ぴかぴかは?」
「もう、おむつには使わないかな」
「……やだ」
白布をぎゅっと胸に抱きしめた。
「ルウ、おにいちゃんする。でも、ぴかぴかもする」
「おむつ卒業したいんだろ?」
「したい! でも……」
ルウは困ったように眉を下げ、白布へ頬を寄せた。
「ぴかぴか、いなくなるのやだ」
その言葉を聞いて、セイルもようやく気づいた。
ルウにとって、この白布はただのおむつではない。
生後二か月の頃から、ずっと一緒だった。眠れない夜も、知らない場所へ泊まった時も、高熱を出して一晩中セイルへ抱かれていた時も、腰にはいつもこの白布があった。巻けばぴかぴかと光り、ほんのり温かくなって、ルウを安心させてくれた。
物心がつくより前から、そばにある。
それを「おむつを卒業したから今日で終わり」と言われても、三歳のルウには納得できないのだろう。
「捨てるなんて言ってないぞ」
ルウがぱっと顔を上げた。
「……ほんと?」
「ああ。おむつとして使わなくなるだけだよ。ぴかぴかは、ずっとルウのだ」
「ずっと?」
「ずっと」
ようやく少し安心したらしい。それでも白布を離そうとはしないので、セイルはしばらく考えた。
「じゃあ、寝る時に使うか?」
「ねる?」
「お腹に掛けてもいいし、抱っこして寝てもいい。おむつじゃなくて、ルウのお布団にするんだ」
「……ぴかぴかのおふとん?」
「そう。ぴかぴかのお布団」
ルウの青い瞳が、みるみる輝いていった。
「する! ルウ、それする!」
「それなら、お兄ちゃんパンツでもぴかぴかと一緒にいられるだろ?」
「うん!」
さっきまで泣きそうだったのが嘘のように笑い出した。セイルは白布をいつものように綺麗に洗い、皺を伸ばして丁寧に畳んだ。切ったり縫ったりする必要はなく、広げれば三歳のルウへ掛けるのにちょうどいい大きさだった。
その日の夜、ルウは初めておむつを着けず、小さなパンツだけで布団へ入った。胸の上には、折り畳んだ白布をしっかり抱えている。
「とうちゃん。ぴかぴかして」
「俺にはできないよ」
ルウが白布をぎゅっと抱きしめると、ぽうっと淡い黄金色の光が灯った。
「した!」
「ルウが持つと光るんだよな。不思議な布だ」
三年近く同じ光を見続けているため、セイルはもう驚きもしない。魔法のかかった道具や衣服はこの世界には普通に存在するので、保温や自浄だけでなく、持ち主の魔力に反応する仕掛けでもあるのだろうと思っていた。
白布はいつものようにほんのり温かくなり、ルウは嬉しそうに頬を擦りつけた。
「とうちゃん。ルウ、おにいちゃん?」
「ああ。今日からおむつ卒業だ」
「えへへ!」
満足そうに笑ったあと、ルウはぴかぴかの白布を抱いたまま目を閉じた。
こうして、生後二か月から三歳になるまで使われ続けた白い布は、ようやく布おむつとしての役目を終えた。
ただし、ルウのお気に入りとしての役目は、まだまだ終わりそうになかった。
◇
おむつを卒業してからも、白布は毎日のように使われた。昼寝の時はお腹へ掛け、夜は抱きしめて眠り、隣町へ出かける時には小さな鞄へ自分で押し込んで持っていく。
そんな白布が特に活躍したのは、雷の夜だった。
その日は夕方から激しい雨が続き、夜になる頃には風まで強くなっていた。窓ががたがたと揺れる中、ルウは白布を胸にしっかり抱きながら、自分の布団へ潜り込む。
「今日は一人で寝るんだっけ?」
「うん! ルウ、おにいちゃんだから!」
「そうか。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ!」
一人で寝ると言い出したのはルウ本人だった。やる気があるなら任せてみようと、セイルも隣の自分の部屋へ戻る。
しばらくすると、空が低く唸った。次の瞬間にはかなり近くで雷が落ち、窓がびりびりと震える。
ドォォン!
セイルが「今のは大きかったな」と思った直後、廊下からぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。扉が少しだけ開き、その隙間から金色の頭がそっと覗く。
「とうちゃん」
白布を胸に抱えたルウが、裸足で立っていた。
「どうした?」
「……べつに」
「そうか」
「かみなり、こわくないよ。ルウ、おにいちゃんだから」
「うん。偉いな」
そこでまた遠くの空がゴロゴロと鳴り、ルウの肩がぴくっと動いた。セイルが「じゃあ、自分の部屋に戻るか?」と聞くと、ルウはしばらく考え込んでから、何かいいことを思いついたように顔を上げる。
「とうちゃん、かみなり、こわい?」
「俺? 別に怖くないけど」
「……こわいよ」
「俺が?」
「うん!」
なぜか勝手に決められた。
「とうちゃん、こわいから、ルウいっしょにねてあげる!」
自分が怖いとは認めたくないらしい。セイルは笑いそうになるのを堪え、「それは助かるな」と布団を開けた。
ルウは嬉しそうに潜り込み、白布を二人の間へ広げてセイルへぴったり身体を寄せた。もう一度雷が鳴ると、小さな手が寝間着をぎゅっとつかむ。
「ルウ。怖いなら、怖いって言っていいんだぞ」
「……こわくない」
少し黙ったあと、ルウは白布へ顔を半分埋めた。
「……ちょっとだけ」
「うん」
「ちょっとだけ、こわい」
セイルが金色の髪を撫でると、ルウはようやく安心したように息を吐いた。白布からは淡い光が漏れ、二人の布団をほんのり温めている。
「とうちゃん」
「ん?」
「ぎゅーして」
「はいはい」
抱き寄せると、ルウはすぐに目を閉じた。
ほんの少し前まで、夜中に何度も起きておむつを替えていた。それが今では、自分の足で隣の部屋まで歩いてきて、怖いことを誤魔化すための言い訳まで考えるようになっている。
子どもは、思っているよりずっと早く大きくなるらしい。
「……おむつじゃなくなっても、大活躍だな」
セイルは眠り始めたルウの頭を撫で、淡く光る白布を見た。
後に国宝を超える聖遺物だと判明するその布は、今夜も三歳児の安眠用品として申し分なく働いていた。
◇
その頃、勇者アレンは王都でも指折りの高級宿で、ハーレムの女たちと豪勢な夕食を楽しんでいた。
一行へは魔王討伐の活動費として、王国からかなりの額がまとめて支給されている。武器や防具、薬、馬車、宿代などに使うことを想定した金だったが、アレンは以前から「勇者のために使うなら全部活動費だろ!」と言い張り、最高級の宿や高級酒、宴会にまで平然と使っていた。
「この酒うめえな! もう一本頼もうぜ!」
卓上には高級な肉料理や珍しい海産物が並び、アレンの隣では女剣士が新しい首飾りを胸元へ当てている。
「勇者様、これ似合います?」
「いいじゃん! 買えば?」
「でも、少し高くて……」
「いいって! 活動費から出しとけよ!」
聖女も「それでしたら、私も次の祝宴用のドレスを」と笑い、アレンは「買え買え! 勇者パーティーがショボい格好してたら俺まで恥ずかしいだろ!」と上機嫌で頷いた。
そんな宴の途中、王宮から遣わされた文官が一通の書類を持って現れた。
「勇者アレン様。今後の活動費について、王国より変更がございます」
「あ? また金?」
アレンは酒杯を片手に面倒そうな顔をした。
「魔王討伐に必要な武器、防具、薬品、食料、移動、宿泊などについては、これまで通り十分な支援を継続いたします。ただし今後、活動費の用途について明細をご提出いただくこととなりました」
アレンの眉が寄った。
「……明細?」
「はい。任務と無関係な宴席、高級酒、宝飾品、私的な衣装、最上級客室への追加料金などについては、ご自身の資金でお願いいたします」
「はぁ!?」
酒杯が卓へ叩きつけられた。
「何それ!? 俺にいちいち金の使い道を書けっての!?」
「必要経費については、これまで通り王国が負担いたします」
「勇者の俺が飲む酒は必要経費だろ! 俺が気持ちよく戦うために必要なんだから!」
文官は一瞬だけ黙ったが、相手が七つもの神力を持つ人間であることを忘れず、慎重に言葉を選んだ。
「勇者様のお力が王国に必要不可欠であることは、陛下も十分に承知しております。だからこそ、武具や薬品、移動費など魔王討伐そのものへの支援は一切減らしません。ただ、用途の確認だけは今後お願いしたいとのことです」
「はぁ……? 勇者の俺に領収書出せっての? マジでケチくせえな!」
それでも、全面的に支援を切られたわけではない。アレンも王国そのものと敵対するつもりまではなく、舌打ちしながら椅子へ座り直した。
「俺が本気出したら魔王なんてすぐなんだから、黙って好きに使わせときゃいいのによ!」
「勇者様のおっしゃる通りですわ」
聖女がそう言うと、アレンはすぐに気分を持ち直した。
「だよな!? 分かってんじゃん!」
再び高級酒へ手を伸ばすアレンの後ろで、取り巻きの商人が黙って目を細めていた。勇者のそばにいれば王家との商談にも箔がつき、金も動く。それが以前ほど簡単ではなくなるのなら、自分も少し考え直さなければならない。
もちろんアレンは、そんな視線には少しも気づいていなかった。




