うちの子、ちょっと不思議かもしれません
二歳になったルウは、少しずつ使える言葉が増えてきた。一歳八か月で初めてセイルを「とちゃ!」と呼んでから、知っている単語を一つずつ増やし、足りないところは指差しや表情でどうにか伝えている。
「とちゃ! おきて!」
休日の朝、セイルは腹の上に乗った小さな重みで目を覚ました。薄く目を開けると、金色の髪を寝癖だらけにしたルウが、すぐ目の前からこちらを覗き込んでいる。
「……まだ早いぞ、ルウ」
「おひさま、いる!」
得意げに窓を指差された。確かに朝日は差しているが、だからといって眠っている父親の腹へ乗っていい理由にはならない。
「お腹空いたのか?」
「パン! おっきい!」
ルウは両腕をいっぱいに広げてみせた。本人は全部食べる気らしいが、どうせ残すだろうと思っていたら、十五分後には案の定、セイルの予想通りになった。
「とちゃ。はい」
「……ずいぶん残ったな」
「はんぶんこ!」
差し出されたパンは七割ほど残っている。「半分」という言葉の意味はまだ怪しいらしく、食べられなくなった分を全部セイルへ渡し、それでも分けてあげたつもりなのか満足そうに笑っていた。
二人が暮らしているのは、ルウを引き取った日に駆け込んだ宿屋だった。事情を知った女将が「赤ん坊を抱えて家と仕事をいっぺんに探すなんて無理だろ」と住み込みで雇ってくれ、それ以来、セイルは荷物運びや買い出し、料理の手伝いをしながらルウを育てている。
勇者パーティーにいた頃と違い、突然旅程を変える者もいなければ、使った薬を黙って放り出す者もいない。その代わり最近は、目を離した隙に嫌いな食べ物を父親の皿へ移す二歳児がいた。
「ルウ。豆は?」
夕食の皿を見たセイルが尋ねると、ルウの肩がぴくっと動いた。さっきまで三粒あった豆が消え、その代わりセイルの皿には見覚えのない豆が三粒増えている。
「……ない」
「ここにあるけどな」
セイルが自分の皿を指差すと、ルウはしばらく豆を見つめた。それから何か名案を思いついた顔になり、セイルの皿を指差す。
「とちゃ、まめ!」
「俺に食べろって?」
「うん! つよい!」
ルウは両腕を曲げ、力こぶを作る真似をした。もちろん二歳児の細い腕なので何も盛り上がっていないが、本人だけはとても強そうな顔をしている。
「俺を強くして、どうするんだ?」
「だっこ!」
即答だった。どうやら豆を食べさせてセイルを強くし、もっと抱っこしてもらう計画らしい。
「豆を食べなくても抱っこはする。でも、これはルウの分な」
「……まめ、や」
「一個だけ」
「はんぶん!」
結局、一粒を二人で半分ずつ食べることで決着した。ルウはたいそう不満そうな顔をしたものの、飲み込んだあとは自分から「できた!」と手を叩いたので、セイルも一緒に拍手してやった。
勇者の息子だとか、特別な血筋だとか、セイルにはどうでもよかった。よく食べ、よく眠り、嫌いな豆はこっそり父親へ押しつけ、それでも一粒食べられれば得意そうに笑う。それくらい普通に育ってくれれば十分だった。
お気に入りの白い布おむつも、相変わらず現役だった。風呂上がりになるとルウは自分から白布を抱えて持ってきて、セイルへ差し出す。
「とちゃ! ぴかぴか!」
「はいはい。まず身体を拭こうな」
裸のまま逃げようとするルウを捕まえ、身体を拭いてから白布を腰へ巻いてやる。すると今日も淡い黄金色の光がぽうっと灯り、ルウは嬉しそうに自分の腰を覗き込んだ。
「ぴかぴか!」
「今日も光ってるな。ほら、服着るぞ」
「やー!」
光るおむつのまま走り回りたいらしい。セイルは部屋の隅へ逃げたルウを捕まえながら、二年前には赤ん坊をどう抱けばいいかさえ分からなかった自分が、今では裸の二歳児を追いかけ回していることに少し笑ってしまった。
白布の方は、二年以上も使っているというのに傷み一つない。何度洗っても柔らかいままで、どれほど汚れても水で軽く揉めば綺麗になり、乾くのまで妙に早かった。
魔法のかかった衣服や道具そのものは、この世界では珍しくない。だからセイルも、最初こそ光ることには驚いたものの、今では「保温と自浄の魔法でもかかっているのだろう」と考えていた。
「これと同じ布、どこかで売ってないのかな。宿の洗濯物にも使えそうなんだけど」
正体不明の古代遺物に対する評価としては、すっかり生活用品寄りになっていた。
◇
そんな生活が数か月続き、ルウが二歳半になる少し前のことだった。最近のルウはセイルが厨房へ立つと、よく横から覗き込むようになっている。
野菜を洗わせれば必要以上に何度も水へ浸し、皿を運ばせれば割らないよう両手で大事そうに抱えて歩く。無事に仕事を終えるたびに自分から「できた!」と拍手するので、セイルもつられて褒めることが増えた。
「ルウ、それはこっちに置いてくれるか?」
「ここ?」
「そう。上手だな」
「できた!」
褒められたルウは満面の笑みになった。その勢いで包丁へまで手を伸ばそうとしたので、そこだけはセイルがすぐに止める。
「これは駄目。危ないからな」
「ルウも、する」
「もう少し大きくなってからな」
「……おっきくなる!」
胸を張るルウへ、セイルは笑いながら「いっぱい食べたらな」と返した。すると少し考えたあと、「まめ、や」と言われたので、「そこは食べろよ」と即座に返しておく。
その日の夕食は、肉と野菜の煮込みだった。ルウは横から鍋を覗き込んだり、切る前の人参を転がしたりしていたが、セイルが肉を切り始めると、突然何かを見つけたように声を上げた。
「とちゃ、これ!」
「ん?」
ほんの一瞬、そちらへ目を向けた。その拍子に包丁が滑り、左手の人差し指へ刃が入った。
「痛っ!」
深い傷ではなかったが、切れた場所から赤い血がぷくりと浮かび、指先を伝って落ちていく。セイルは包丁を置き、「しまったな」と言いながら手を洗おうとした。
その横で、ルウがぴたりと動きを止めていた。
「……とちゃ?」
青い瞳が、血の出ている指へ釘付けになっている。さっきまで楽しそうだった顔がみるみる曇り、小さな眉が下がった。
「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」
「いたい?」
「少しだけな。これくらいなら治癒薬を塗るほどでも――」
言い終わる前に、ルウがセイルの手を両手でつかんだ。傷口を見つめる顔は、今にも泣きそうだった。
「とちゃ、いたい……や」
「大丈夫だって。すぐ治るよ」
ルウはそれでも血のにじむ指から目を離さなかった。やがて、いつも自分が転んだ時にセイルがしてくれるように、小さな手を傷口へ重ねる。
「いたいの、とんでけー!」
ぽうっ、と淡い黄金色の光が灯った。
セイルは思わず目を見開いた。
「……治癒魔法?」
見覚えがあった。勇者パーティーで旅をしていた頃、怪我をした仲間を聖女や町の治癒術師が治す時にも、よく似た光が傷口を包んでいた。
だが、そんなことを考えている間に光は消えた。
セイルが自分の指を見ると、血だけが残っている。さっき確かに切れたはずの皮膚は綺麗に塞がり、指を曲げても押しても痛みはなかった。
「……本当に治ってる」
治癒魔法そのものは珍しくない。町の教会へ行けば傷を治せる神官もいるし、冒険者の中にも簡単な治癒術を使える者はいる。
だが、当然ながら誰でも生まれつき使えるわけではなかった。
魔力の扱いを覚え、術式を学び、何度も練習して、ようやく簡単な傷を治せるようになる。それなのに目の前にいるのは、まだ二歳の子どもである。
セイルはしゃがみ込み、ルウと目線を合わせた。
「ルウ。今の魔法、誰かに教えてもらったのか?」
「?」
案の定、首を傾げられた。
「今のぴかぴかだよ。どうやった?」
「とんでけ、した!」
「それだけ?」
「うん!」
自信満々に頷く。
「ルウが光らせたのか?」
今度は少し考えてから、首を横へ傾けた。
「……わかんない」
どうやら本人には、魔法を使ったという意識すらないらしい。父親が怪我をしたから「痛いの飛んでけ」をした。それだけなのだろう。
「二歳で、誰にも習わず治癒魔法か……?」
セイルは治った指を何度か曲げ伸ばしした。少なくとも自分がこれまで受けた普通の治癒魔法と同じか、それ以上に綺麗に治っている。
ルウはそんなセイルの顔を不安そうに覗き込んでいた。
「とちゃ……?」
その声で我に返る。
「悪い。びっくりしただけだよ」
セイルが笑ってみせると、ルウはすぐに傷のあった指へ視線を戻した。
「なおった?」
「ああ。もう痛くないよ」
「よかった!」
途端に表情が明るくなり、そのままセイルの足へぎゅっと抱きついた。
その反応を見て、セイルの関心も治癒魔法からルウ自身へ移った。あの高熱を出した夜のことがあるだけに、妙な力を使ったせいで身体に負担がかかっていないかの方が気になる。
「ルウ。どこか痛くない?」
「ない!」
「しんどくないか?」
「ない!」
額へ手を当てても熱はなく、顔色もいつも通りだった。ルウは元気だと証明するように両手を上げたので、セイルもようやく肩の力を抜く。
「ならいいか」
治癒魔法の才能があるのかもしれない。それも、かなり早く目覚めた珍しい才能なのだろう。
だが、今すぐ試してみようとは思わなかった。
理由もないのに何度も魔法を使わせて、もし身体に負担がかかったら困る。本人がもう少し大きくなって、魔法について理解できるようになってから考えればいい。
「とちゃ、なおった!」
ルウはもう一度、嬉しそうにセイルの指を指差した。
「うん。ありがとうな」
頭を撫でてやると、ルウは目を細めた。
セイルにとっては、二歳で治癒魔法を使ったことよりも、血を見た瞬間に泣きそうな顔をするほど自分を心配してくれたことの方が、ずっと嬉しかった。
◇
その日の夜、ルウはお気に入りの白い布おむつを巻いて布団へ入ったが、なかなか眠ろうとしなかった。何度かごろごろ転がったあと、顔だけを布団から出してセイルを見上げる。
「とちゃ」
「どうした?」
ルウは少し考えてから、自分を指差した。
「ルウ、すごい?」
昼間のことを覚えていたらしい。セイルが「そうだな。とうちゃんの指を治してくれたのは、すごかったよ」と答えると、ルウは得意そうに笑った。
「えへへ!」
セイルも笑いながら金色の髪を撫でる。ただし、褒めたいのは魔法の上手さだけではなかった。
「でもな、とうちゃんが一番嬉しかったのは、そこじゃないぞ」
「?」
ルウは意味が分からないらしく、こてんと首を傾げた。
「とうちゃんが痛いの、嫌だったんだろ?」
「……うん」
「だから治してくれたんだよな」
「とちゃ、いたい……や」
「そっか。ありがとう」
もう一度頭を撫でると、ルウは嬉しそうに目を細めた。そのまま自分から頭をぐいっとセイルの手へ押しつけてくる。
「ほめて!」
「よくできました」
「もっと!」
「欲張りだな」と笑いながら何度か撫でてやると、今度は布団の中から両腕を伸ばしてきた。
「ぎゅー!」
「はいはい」
抱き上げると、ルウはすぐにセイルの首へしがみついた。しばらくすると眠くなったのか、肩へ頬を乗せて目をこすり始める。
もしかすると、かなり魔法の才能がある子なのかもしれない。
それでもセイルの腕の中にいるのは、父親が怪我をすれば悲しみ、治れば喜び、褒められればもっと褒めてもらいたがる二歳の子どもだった。
セイルにとっては、それで十分だった。
◇
その頃、王都の大闘技場では、耳をつんざくような歓声が響いていた。中央では勇者アレンが両腕を高く掲げ、その足元には王国屈指の剣士として知られる武闘大会の前年度優勝者が、何が起きたのかも分からない顔で場外へ転がっている。
「見たかぁ! これが勇者の実力だっつーの!」
《剣聖》と《神速》という二つの神力を持つアレンが、普通の人間を相手に負けるはずもなかった。試合開始と同時に一気に懐へ飛び込み、一撃で吹き飛ばしただけである。
「さすが勇者様! 圧倒的ですわ!」
「やはりアレン様こそ世界最強です!」
女剣士や聖女、取り巻きの貴族たちから褒められるたび、アレンの胸はどんどん反り返っていく。
「だろ!? 勇者ってのはこういう華がねえとな! 魔物相手に山ん中走り回ってても、誰も俺の凄さ分かんねえっつーの!」
優勝賞金を受け取り、そのまま祝勝会へ向かおうとしたところで、王宮から遣わされた騎士が一行を呼び止めた。アレンは賞金袋を片手で放り上げながら、いかにも面倒そうに振り返る。
「勇者アレン殿。国王陛下よりお言葉をお預かりしております」
「あ? 何?」
「北方で魔王軍の活動が活発化しております。すでに複数の村が避難を始めており、陛下は勇者殿に早急な出立をお求めです」
「……今日?」
「可能な限り早く、との仰せです」
アレンの笑顔が消えた。
「はぁ!? 無理に決まってんだろ! 俺、今日優勝したんだぞ!? これから祝勝会あんの! 貴族も商人もいっぱい来んだよ!? 主役の俺がいなくてどうすんだよ!」
騎士は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。それでも「しかし、北方ではすでに被害が出ております」と食い下がると、アレンはますます苛立った。
「魔王軍なんて明日もいるだろ! 祝勝会は今日だけなんだぞ!? そんなことも分かんねえの!?」
あまりにも堂々と言われ、騎士は返す言葉を失った。それでも職務を放棄するわけにはいかず、慎重に言葉を選びながら続ける。
「ですが、勇者殿は魔王討伐のために召喚されたと伺っております。召喚より、すでに三年以上が経過しておりますので……」
「あ?」
アレンの声が低くなった。
「何それ。俺がサボってるって言いたいの?」
七つもの神力を持つ男に睨まれ、騎士の顔が強張る。アレンはそれを見て自分が優位に立ったと思ったらしく、鼻で笑いながら片手を振った。
「分かってねえなぁ! 魔王ってラスボスだろ!? いきなりラスボス行く馬鹿がどこにいんだよ! 武闘大会とかダンジョン攻略とか、イベントには順番ってもんがあんの!」
「しかし、魔王軍の侵攻は勇者殿の都合を待っては――」
「うるせえな! 俺が本気出せば魔王なんていつでも倒せんの! 今は準備期間なんだよ! 主人公がちゃんとイベント消化してんの!」
険悪になった空気を察し、同行していた若い貴族が慌てて割って入った。
「ま、まさしく! 勇者様には我々凡人では計り知れぬ深いお考えがございます!」
「だろ!? ほらな! 分かる奴には分かるんだよ!」
その一言だけで、アレンの機嫌はあっさり直った。騎士の肩をぽんぽんと叩くと、「お前ももうちょい頭使えよ!」と笑い、女たちと取り巻きを引き連れて祝勝会へ向かっていく。
残された騎士は、何も言わずその背中を見送った。
異世界から勇者が召喚されて、三年以上。
魔王は、まだ健在だった。




