伝説の聖骸布を布おむつにしました
その日の夜、セイルはいきなり育児の難しさを思い知らされた。ようやく町の宿へたどり着き、女将に抱き方やミルクの飲ませ方を教えてもらったところまではよかったのだが、ルウは飲んだと思えば泣き、寝たと思えば起き、そのたびに布おむつまで汚していく。
「赤ん坊って……こんなに忙しいのか」
慣れない手つきで何度もおむつを替え、ようやく眠ったと思って横になれば、しばらくして「ふぇ……」と小さな声が聞こえる。夜半を過ぎた頃には、女将から分けてもらった布おむつをすべて使い切ってしまっていた。
「まずいな。洗ったのは……まだびしょびしょか」
窓辺に干した布を触ってみたが、とても使えそうにない。明日の朝になれば買い足せるものの、それまでルウを汚れたまま寝かせておくわけにもいかなかった。
そこでセイルは、自分の荷物袋をひっくり返した。服や手拭いを避け、代わりになりそうな物を探していると、一番底から古びた白い布が出てくる。
「……ああ、これか」
数か月前、古代遺跡でアレンが拾った物だった。最初こそ「絶対レアアイテムだろ! こういうの知ってるぞ!」と騒いでいたのだが、何に使う物なのか分からないと知るや、三日ほどで飽きてしまった。
『邪魔! お前持っとけよ! 荷物持ちだろ!』
そう言って押し付けられ、そのまま忘れていた品である。
セイルが白布を広げてみると、古びた見た目に反して驚くほど柔らかかった。生地もしっかりしており、少し強く引っ張った程度では破れそうにない。
ベッドの上では、ルウが不快そうに足をばたばたさせている。
セイルは白布を見た。
ルウを見た。
もう一度、白布を見る。
「……布は布だよな?」
もちろん返事はない。
「よし。一晩だけだからな」
女将に教わった形へ折り畳み、ルウの腰へ巻いていく。生後二か月の小さな身体を壊してしまわないよう慎重に結び終えた、その瞬間だった。
白布が、ぽうっと光った。
「……は?」
淡い黄金色だった。眩しいほどではなく、小さな星を散らしたような光が、ルウの腰の周りでぴかぴかと瞬いている。
セイルが恐る恐る指先で触れてみると、布はほんのり温かかった。熱いわけではなく、赤ん坊が心地よく眠れそうな、絶妙な温度になっている。
そして何より驚いたのは、ルウだった。
「あぅ……」
先ほどまで不満そうに動かしていた足が止まり、青い瞳がとろんと細くなった。やがて身体から力が抜け、そのまますやすやと眠り始める。
「……保温の魔道具か何かか?」
セイルには分からない。ただ、ルウが気持ちよさそうに眠っているのなら、今のところ外す理由もなかった。
「まあ、いいか。明日ちゃんとしたの買おうな」
そう言って布団を掛け直す。
その頃。
何百里も離れた王都の大聖堂で、五百年間一度も鳴ったことのない巨大な聖鐘が、誰の手にも触れられていないのに轟音を響かせた。
ゴォォォン……!
夜番の神官たちが飛び起きる。
「な、何だ!?」
「聖鐘が鳴ったぞ!」
「そんな馬鹿な! あれは《聖骸布》が真なる主を見つけた時にしか鳴らないと……!」
眠りから叩き起こされた老神官は、震える手で古い記録を開いた。
「五百年前に失われた聖遺物が……どこかで目覚めたというのか?」
大聖堂が大騒ぎになっている頃、当の聖骸布は。
赤ん坊のお尻を包んでいた。
◇
翌朝、セイルは店が開くと同時に布おむつを買い込んだ。さすがに正体不明の光る布を使い続けるのもどうかと思い、まずは普通のおむつへ交換する。
しばらくは何事もなかった。
ところが、ルウがだんだん落ち着かなくなってきた。
「ふぇ……あぅ……!」
「どうした? ミルクは飲んだよな」
抱き上げても機嫌が悪い。眠いのかと思って揺らしてみても駄目で、困ったセイルが部屋の中を歩き回っていると、窓辺に干してあった白布が目に入った。
その瞬間、ルウが反応した。
「あー! あー!」
小さな腕を、一生懸命そちらへ伸ばしている。
「……まさか、あれ?」
白布を取り込んで近づけると、さらに手足をばたばたさせた。
「あー!」
「昨日のがいいのか?」
試しに普通のおむつを外し、白布を巻いてやる。
ぴかっ。
黄金色の光が灯った。
「あぅ!」
ルウの顔が一瞬で緩んだ。満足そうに足を伸ばし、そのままご機嫌で手をぱたぱたさせている。
「……そんなに好きなのか」
どうやら偶然ではないらしい。
それから何度か試してみたが、結果は同じだった。普通のおむつでも過ごせるものの、白布を見せた時だけ明らかに嬉しそうにする。
さらに、セイル自身も白布の異常さへ気づき始めた。
最初に盛大に汚された時は、さすがにもう使えないと思った。ところが桶の水へ浸し、軽く揉んだだけで汚れがするりと落ちていく。
「……え?」
もう一度すすいで持ち上げてみる。
真っ白だった。
染み一つない。臭いも残っていないうえ、しばらく干せばすぐに乾く。
何日使っても、何度洗っても、生地はまったく傷まなかった。
「柔らかいし、頑丈だし、汚れもすぐ落ちる。しかも乾くのも早い……」
セイルは白布を両手で持ち、感心しながら眺めた。
横では、ルウが「あー!」と早く寄越せと言わんばかりに手を伸ばしている。
「本人もこれが一番好き、と」
条件を並べ終えたセイルは、大真面目に頷いた。
「なんだこの布。布おむつとして最高じゃないか」
伝説の聖骸布は、こうして育児用品として高い評価を獲得した。
それから白布は、ルウのお気に入りになった。洗って干してあれば見つけるだけで喜び、腰へ巻けば淡い光に包まれて安心したように眠る。
セイルもすっかり慣れた。
「はいはい、ぴかぴかの方な。今替えるから暴れるな」
「あー!」
「お前、本当にこれ好きだな」
そんな毎日が積み重なっていった。
◇
一年ほどが過ぎた冬の夜。
セイルは、初めて本気で怖いと思った。
寝ている途中で何となく目が覚め、隣のルウへ目を向けると呼吸がいつもより速かった。嫌な予感がして額に手を当てた瞬間、その熱さに心臓が跳ねる。
「ルウ? おい、ルウ!」
一歳を少し過ぎたルウは、まだまともな言葉を話せない。普段ならセイルが声をかけるだけで「あー!」と手を伸ばしてくるのに、今夜は顔を真っ赤にしたまま、苦しそうに「うぅ……」と声を漏らした。
セイルは寝間着のまま宿の女将を叩き起こし、夜中でも診てくれる医者を呼んでもらった。診察を終えた医者は胸の音を聞き、「風邪だな。今のところ肺は大丈夫だ。水分を切らすなよ」と言ったが、それでもセイルの不安は消えなかった。
「本当に大丈夫なんですか? こんなに熱いんですが……」
「三十九度くらいなら子どもには珍しくない。とはいえ今夜はよく見てやれ。様子がおかしかったらすぐ呼べ」
医者が帰ったあとも、セイルは眠らなかった。
濡らした布を額へ置き、水を少しずつ飲ませる。汗をかけば服を替え、咳き込めば背中を撫で、泣けば抱き上げた。
「うぅ……あぅ……」
「大丈夫だ。とうちゃん、ここにいるからな」
いつの頃からか、セイルはルウへ自分のことをそう呼んでいた。まだ意味が分かっているかどうかも怪しいが、「とうちゃんがミルク作るぞ」「とうちゃんと風呂入ろうな」と毎日のように話しかけている。
お気に入りの白い布おむつへ替えてやると、今夜も淡い黄金色が灯った。いつもより弱い光だったが、ルウはほっとしたようにセイルの胸元へ頬を押しつけた。
「これがあると落ち着くんだな」
小さな手が、セイルの服をつかむ。
セイルはその手を包み込み、一晩中離さなかった。
光る布でも、風邪そのものを消してくれるわけではない。夜中に何度も熱を確認し、そのたびに胸が冷たくなり、ようやく明け方になって呼吸が穏やかになった。
額へ手を当てる。
熱が下がっている。
「……よかった」
その言葉と同時に、全身から力が抜けた。
ルウはもう眠っていた。それでも、小さな指だけはセイルの指をしっかり握ったままだった。
「元気でいてくれれば、それでいいからな」
特別な力なんていらない。
英雄にならなくてもいい。
この子が笑って大きくなってくれれば、それだけで十分だった。
◇
さらに半年ほどが過ぎた。
一歳八か月になったルウは、自分の足でかなり歩けるようになっていた。まだ危なっかしくはあるものの、セイルを見つければ嬉しそうに両手を広げて駆け寄ってくる。
その日も、仕事を終えたセイルが宿へ戻ると、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
「あー!」
「おい、走るな。転ぶぞ!」
言ったそばから、ルウの身体がぐらりと傾く。
セイルが慌てて駆け寄り、その身体を抱き上げた。
「ほら。言っただろ? まだ急がなくていいんだ」
叱られたことなど気にしていないらしい。ルウは嬉しそうに笑い、セイルの頬へ両手を当てた。
何かを言おうとしている。
「ん?」
ルウは一生懸命、口を動かした。
「と……ちゃ!」
セイルの動きが止まった。
「……今、なんて言った?」
ルウはセイルが反応したことが嬉しかったらしい。にこっと笑い、今度はもっと大きな声で呼ぶ。
「とちゃ!」
「……俺?」
「とちゃ!」
どうやら間違いない。
「とうちゃん」と言おうとしているのだろう。しかし、まだ幼い舌から出てきたのは、短くて舌足らずな「とちゃ!」だった。
それでもセイルには十分だった。
「……そうか」
思わず笑ってしまう。
「俺が、とちゃ、か」
「とちゃ!」
ルウは新しく覚えた言葉が嬉しくて仕方ないらしく、セイルの頬をぺちぺち叩きながら何度も繰り返す。
「とちゃ! とちゃ!」
「うん。ここにいるよ」
その夜、ルウはお気に入りの白い布おむつを巻き、淡い光に包まれながら眠った。セイルはその隣でしばらく寝顔を眺め、最後にそっと金色の髪を撫でる。
「……とちゃ、か」
誰も見ていなかったので、目元を拭ったことは秘密にしておいた。
◇
その頃。
セイルを追放した勇者パーティーは、街道のど真ん中で立ち往生していた。
「はぁ!? なんで食料がねえんだよ!」
アレンの怒鳴り声が響き渡る。目の前では、新しく雇った荷物持ちの男が疲れ切った顔をしていた。
「昨日、勇者様が予定を変更して遺跡へ入られたからです。二日で次の町へ着く予定だったところを、三日余計に使いましたので……」
「だったら三日分多めに持っとけよ!」
「予定変更を聞いたのは、遺跡の入口に着いてからですが」
「は!? それくらい予想しろよ! 荷物持ちだろ!?」
男はしばらく黙ってアレンを見た。
そして背負っていた荷物を地面へ置いた。
「……辞めます」
「はぁ!?」
「次の町までなら、この荷物で足ります。そこで別の方をお探しください」
アレンの顔が真っ赤になる。
「お前まで俺に逆らうのかよ!? 勇者パーティーだぞ!? 入りたい奴なんかいくらでもいるんだからな!」
男は答えなかった。
その日の夕方、本当に一人で町へ帰っていった。
「クソッ! 使えねえ奴ばっかだな!」
アレンが地面を蹴ると、取り巻きの貴族が慌てて頷く。
「ま、まったくです! 勇者様ほどのお方に仕えられるありがたみが分からないのでしょう!」
「だよな!? 荷物持ちなんて誰でもできんのによ!」
セイルを追放してから、これで三人目だった。
それでもアレンは、一度たりとも自分に原因があるとは思わなかった。




