2
路頭に迷った真奈を和奈左夫婦が子として引き取る。初めは優しかった夫婦だったが・・
二
峠の夜明けは夏でも寒い、屋根に当たった朝日が湿り気を帯びて下へと抜ける。ぽつん、ぽつんと頬を濡らされ、与五は目を開けた。蹴破られた入口から日差しが射し込んでいる。家の中を見渡すと笠や蓆が散らかって、囲炉裏も縁の石が数ヶ所どこかへ転がって、消し炭が散乱している。
起き上り、ふらふらと表へ出ると、木々の隙間から射し込む日差しが目に入り、思わず手を翳して仰ぎ見る。前夜の出来事が何だったのか未だに分からない。
(五平さん、三右衛門さん、どこに行っちゃったの?・・与謝姉さん・・)
捨てられたとは考えが及ばない与五であった。きっと何かのっぴきならないことが起こったのだ、そう考えた。
(事に依ると山賊、いや獰猛な獣にでも襲われたのかもしれない。きっと、わたしを助けるために身代わりになったんだわ。可哀そうな三右衛門さんと五平さん、無事だといいんだけど。与謝姉さんはどうしているかしら?)
そんな心配をして涙を流す与五であった。
ふと目が慣れて、表の様子に目を凝らすと、峠道が左右に走り、木々が疎らになっている。大木の切株が一つ、枯れているのか新芽は出ていない。その横に、風に揺れる大きな桃の木が目に入った。根元には綱の付いた釣瓶が、平らな板蓋の上に置いてある。
「ああ、井戸だわ」
与五はようやく喉の渇きを思い出した。つかつかっと寄って板蓋をどかして覗きこむと、ひんやりとした澄んだ水が流れている。水際に脇穴があるのか、水が滔々と流れ出ている。水底から渾々と湧きだす泉であった。
与五は早速釣瓶を下ろして水を汲み出しに掛かる。枝に絡んだ綱を細腕でやっと引き上げ、釣瓶を井戸の縁に下ろして水を呑もうとした時、ふっと背中に何かを感じて地べたに跪いた。釣瓶は太い枝を擦りながらけたたましい音を立てて落ちて行く。
「何なの?」
与五は振り向いてきょろきょろ見廻したが、何も変わりがない。
すると、突然耳の奥で声を感じた。
「ま・・な・・? 真奈?・・そうだわ、わたしは真奈。今、誰かがわたしを呼んだような気が・・ああ、でもだめ、名前以外何も思い出せない」
与五は自分が真奈という名であると、はっきりと思い出した。
茫然と左右に走る峠の道を見つめ、日差しの射す方から来た事だけは覚えている。しかし、女一人でこの遠い道のりを戻れるだろうか、真奈は不安に駆られた。
気を取り直して、もう一度釣瓶で水を汲んだ。釣瓶を井戸の縁に置き、腰を屈めて両手で水を掬い、口に運ぶ。
「ああ、美味しい、命の水だわ、こんないい水があるなんて・・・」
命の水と言った途端に、真奈は何かを思い出し掛けたが、ふと林の向こうでガサガサと音がして、思考が途切れた。一瞬獣かと驚いて井戸の陰にしゃがんで身を隠したが、五平達が戻って来たのかと思いなおし、頭を出して覗きこんだ。
現れたのは年寄りの夫婦だった。老夫婦もまた驚いたようで、
「あれま、おっとろしやぁ(驚いた)、おみゃーは誰だな? どっから湧いで来ただな? まさか、神さんの使いではねぇべな?」
と、近づきながら爺さんが言う。真奈はよく聞き取れなかったのと、驚いた事で、口を開けたまま茫然と立ちあがった。
すると腰の曲がった婆の方が、
「いやいやいや、おっとろしやぁー」
と言いながら、真奈の品定めでもするかのように、じろじろ上から下まで見ながら、片手を腰にあてて真奈の周りを回り始めた。
真奈は不安そうに両掌を口元に持ってきて、竦み上がっている。
「あ、あの、あなた方は・・」
「わしらか、ははは。わしはすぐそこの和奈左谷に住んどる者じゃ、和奈左爺という、こいつはかかの媼じゃ」
この老夫婦は昔から比治の里の山にある社の井戸がとてもおいしい湧水を出すことを知っていて、よく手入れに来るのであった。今日は井戸や社の周りの草取りをしようと二人でやってきたのである。
だいぶ暑い季節になってはいたが、桃の木一本しかない井戸の周りとは違って、この社は高い木々に覆われていて日陰になっているため、夏でもひんやりと涼しい。魔物か神様でも住んでいそうな場所であった。
「あんさんは、ひょっとして天女様かえ?」
と、じろじろ真奈を見回しながら和奈左媼が訊いた。
「天女? いえ、わたしは真奈という者で御座います。旅の途中で供と逸れてしまい、難渋しております者」
「何だそうかね、わてはまた天女様かと思っただに」
媼は曲がった腰で、少し見上げるように真奈を見つめ、
「ちびっといらって(触って)もええかね?」
と言い、真奈の手を握った。
「こ、これ、かか、そんな失礼なことを・・」
と、爺は止めようとする。
「爺さん、構うでねぇ」
媼は、爺の手を払いのけて、また真奈の手を取り、背中を向かせたりして、体を触っては調べ回した。真奈は何をするのかと気味が悪かったが、じっと我慢した。
「ふんふん、天女ではねぇようだ、ただの人や。でもまあ、おみゃ様は、手っこで負えねぇびんちょうだなや。そげなびんちょうが、こげなとこで何してるだな?」
と、媼は爺と二人で真奈を挟みこむように、真奈の背中の方に回り込み、横向きで話す。
「で、ですから昨日まで二人の男と一緒の旅でしたが、昨日の夜二人が突然消えてしまって、途方に暮れているところです」
と、真奈は交互に前後の二人を見ながら話をする。「天女」だとか、「てっこで負えねぇびんちょう」などと、分からない語句を並べられて、言うことが半分ほどしか分からない。
ちなみに、このびんちょうという方言は、鬢長という魚の名からきている。長い背びれをピンと立てて、もの凄い早さで泳ぐ大きさ三尺ほどのマグロの事である。青緑と白銀色に輝く美しい魚で、おもに黒潮に乗って群れで回遊するから、日本海には滅多に現れない。居れば迷い魚なのである。美しくて殆んどお目にかかれない大魚に例えて、びんちょうと言ったものである。
「ほほぉ、そうかね、するってぇと娘さん、あんたは旅のもんか、この辺の者ではねぇんだな?・・・ははぁ、分かったぞ、捨てられたんだ、酷い事をする奴がおるわい」
と言って、爺は媼を見た。
「そんな人達ではありません・・・」
と、真奈は五平達を弁護した。
「まあ、まあ、爺さんも何言ってるだ。こんな器量好しを捨てるなんて事、ある訳がねぇ」
と、媼が真奈を誘うように側の切株に座らせた。真奈のほつれた御髪を直してやりながら自分も座った。
「きっと何か事情があるだよ。娘さん、その二人はどういう風に居なくなったんだな?」
「はい、あまりよく覚えてないのですが・・そこの社に今日は泊まると言われて、夜になって魚の干物を齧りながら二人はお酒を飲んでいました。わたしは慣れぬ旅で疲れて早くに寝てしまったんです。夜中に何かどたどた音がしたと思ったら、二人が外に飛び出してゆく姿が目に入りました」
「ははぁ、すると何かに吃驚して逃げたんだ。その二人はあんたの何なんだね?」
と媼が訊ねた。
真奈はこれまでの事を掻い摘んで話して聞かせた。
磯砂村と聞いて二人は仰天した。真奈が磯砂の手下に連れられて、頭の所へ行く途中だったことに思い至った。急に辺りを見回しておどおどする爺は、婆の袖を引っ張って顎をしゃくって合図する。匿えば禍になるかもしれないと爺は思ったのである。
しかし、婆は強硬に反対した。
「娘さん、そりゃ危ないところだったぞ。この比治山に住むといわれる磯砂に売られるところだったようだな。ここのお社様に救われたんだな、きっと」
「ええ、そんな? あの二人はわたしの命の恩人です、悪い人達ではありません」
「あいつらは泣く子も黙る磯砂衆じゃ、騙されていたんだよ・・・どうだね、娘さん、わてらの所に来なせぇよ、食べてくくれぇは出来るだから。な、いっそのこと、わてらの娘になってくんろよ」
五平や与謝達が山賊の仲間だとは未だに信じられないが、真奈は婆の申し出に従うしかなかった。爺も仕方なく婆の意見に従うことにした。こっそり、ひっそりと暮らせば、見つかりっこないと思ったのだ。
峠道を東に少しおり、道と直行する谷に架かった吊り橋を渡り、北に分け入った。木々を掻き分け獣道のような所をおりて行くと、左手下方にさらさらと音がしてきて、細い谷川が流れている崖上に出た。その谷川の崖沿いを木々に掴まりながら北の上流へと辿る。
やがて山々の落ち込んだ谷筋のひっそりとした袋小路に出た。斜面から湧水が噴き出し小さな滝を形成し、澤となって流れ下っている。その近くの山の斜面に和奈左爺と媼の家があった。小高い丘の上に、木々に囲まれて隠れるように建つ伏屋根の家と粗末な物置兼用の家畜小屋、僅かばかりの畑もあった。
たった二人で下の澤で山葵を作って暮らしているのであった。採れた山葵や山芋などを、近くの村に持って行き、稗や粟などと交換するのである。この澤の水は、実は比治山峠の井戸の湧水である。ただし、一度土を潜って通り抜けてくるから、全く同じとはいかない。峠の社は湧水を守ってくれる水神様を祭ったものであった。
…京丹後市、久次岳南麓の鱒留公民館付近である。澤の水は西北に走る峠道沿いに流れる鱒留川にそそぎ、鱒留川は峰山街道付近で竹野川と合流し、街道と直交して北東に流れ下り、日本海に至る。…
この先は時の流れが速く、随想風に述べることにする。
――景行二八年盛夏、こうして和奈左爺と和奈左媼、そして真奈の三人での生活が始まった。老夫婦は幼い子供を病気で亡くして以来、子供に恵まれなかったせいもあり、真奈を大層大事に、本当の娘のように可愛がった。真奈も本当の父母であるかのようにいたわり、仕事を手伝った。
山葵は日の本の固有種である。先史時代から存在が知られ、越前から若狭、丹後、丹波、但馬などの山奥の澤で採れたと伝わる。山葵田の手入れは中々に重労働である。常に新鮮できれいな水の流れが必要なのである。しかも水深の加減も重要である、山葵が水に没してしまったら育たないからである。そのために大岩を並べたりしながら山葵田を作るのであるが、当時はそこまでは進んでいまい。それでも泥を溜めてはいけないとか、落ち葉や小枝などを常に取り除くという手間はあったことだろう。
畑を作って苗作りもしなければならない。そのまま畑でも育つのだが、葉物野菜にしかならず、山葵本体の根は大きく育たないのである。
真奈は冷たい水に手足を入れて、ひたすらに山葵田の手入れをしていた。不平一つ言わず、むしろ楽しそうに仕事をこなしている。歳をとった夫婦にはとてもありがたい助っ人であった。
忙しい中なのに、真奈はときに合間を見ては色々な事をした。記憶が戻ってきた訳ではなく、体が自然に動くのだった。山で薬草を摘んできては薬湯を作ったり、木の実から油を搾ったりした。また天気を占うことも出来たのである。
そんな時、比治の井戸水がとても美味しい水である、命の水だと感じたことを思い出した。そこでこの井戸で汲んだ清水を使って酒を造った。この酒は大層おいしく、澄んでいて、老夫婦にはとても嬉しい贈り物だった。夕食後に酒に指を浸して舐める程度に少しだけ頂く、そんな呑み方を真奈は勧めた。
半信半疑で口にした和奈左爺と媼は、三日もすると曲っていた腰がピンと伸び、腰痛や手足の痛みもケロッと治ってしまった。
ひと月後には皺が減ってきて、みるみる若返ってきたではないか。
「これは凄い酒だ、万病に効く薬だ」
そこで夫婦は考えた。これを売れば長者になるのも夢ではない。早速近隣の村に持っていって稗や粟、干魚、農具、刃物、装飾具などと交換して歩いた。
やがて、噂が広まり、
「酒をひと舐めすれば、万病が治る」
と、丹波じゅうの評判になった。物売りに出なくても、向こうから求めに来るようになったのである。
財が増えてくると、山葵作りなどという辛い仕事をやるのも億劫となり、辞めてしまった。半年も前から真奈一人で山葵田の手入れをしていたのである。夫婦はどんどん酒を作ることを真奈に要求し、真奈も山葵田どころではなくなった。
この薬は何故か峠の井戸水で造らないと効き目がなかった。同じ湧水である山葵田の澤の水で造っても効能が無いと分かった。実を言うと真奈自身も気付いていないのか、この薬の秘密は桃の木にあるようだった。湧水が、邪気を祓うといわれる桃の木の薬用成分を取り込んだものかもしれない。遠い井戸の水を運んでくるのが大変で、どんなに頑張ってもごく僅かしか造れないのである。
そこで、これまで酒造りは真奈一人の秘法だったが、和奈左夫婦がどうしてもとせがんで秘かに教わり、仕込みのところを自ら手を掛けて造り始めた。真奈を除いて、和奈左夫婦だけが知る秘法となった。
和奈左夫婦はたくさん人を雇って、水汲みをさせて生産量も上がり、山を切り拓き、地所を大きくし、都風の屋敷も建てて、本格的に酒造りを始めた。
比治山の峠道からの下り道を大きく広げて階段状にし、下りた所に村の入口として社のような大鳥居を造り、その中央に万病に効く酒の意味を込めて丸に寿と書いた紋を記した。峠を通る人からもこの大鳥居の紋が良く見えた。今では二十人からの人を雇う長者となったのである。
山奥だというのに酒を求めて人が殺到し、あっという間に売り切れてしまう。どんどん値上げした。秘法の酒一合と、馬か牛、あるいは翡翠と管玉を散りばめた首飾りが等価になるほど値上げしたが、客は一向に減らなかった。しかも酒は一度に一人竹筒一杯、二合ほどしか売らなかった。
今では遠く尾張や科野からも足を運んで求めに来る。
科野の客が駿馬を三頭並べて、酒を求めてきた時、和奈左爺は、
「わしは忙しいでな、ではこれにてお暇致す」
と言って、平然と客を追い返した。交換品や客の様子を見て、選り好みをするようになったのである。
真奈はというと、大きな屋敷の奥の部屋を宛がわれ、家の者が誰も素性はおろか顔も知らない秘密の存在となった。磯砂達に知られては一大事とばかりに、出歩くことも制限された。おまけに仕丁達に知られて真奈の事が噂になっては困るというので、自分の部屋以外では薄っすらと透ける頭巾を被って、面体を隠すように仕向けられた。家の者には、色々なことを教えてくれる占いのお婆ということになっていた。
好きなことをすればよいと言われたのだが、することもなく機織りの真似ごとを始めた。また時折女丁の部屋に行っては機織りや衣装の仕立て方などを教えた。頭巾を被ってしか話せないので、皆は本当にお婆と思っているようだった。
段々若返って変貌する義父母に当惑する真奈。今や、真奈の兄弟と言ってもおかしくないほど、二人の老人は若返っていた。
ある時、真奈が頭巾を被って出来上がった袍を義母に届けに行った。
「お母様、入っても宜しゅう御座いますか」
「お入り」と、和奈左媼がとげとげしく促す。
真奈は、言われるままに引き戸を開けて中に入ると、すぐに閉めて板敷きに座った。そして頭巾を取って丁寧にお辞儀して、
「お母様、お健やかで御座いましょうか?」
と、挨拶した。
背中を見せて鏡台に向ってせっせと化粧をしている和奈左媼が、鏡に映った真奈を横目に見た。
「そうね、健やかだよ、元気そのもの。でもねぇ、真奈や、そのお母様はやめておくれよ、今じゃあ、わたいの方が真奈姉さんと呼ばなくちゃいけないのにさ。人聞きが悪いだろ」
「はあ、でも・・」
「いいから今度からは、わたいの事を弟姫と呼んどくれ、いいね。そして、あなたの事は真奈姉さんと呼ぶからね。うふふ」
「はい、弟姫様。実は今日は弟姫様に着て頂こうと思って袍を持って参りました、気に入って頂けると嬉しいのですが・・」
と言って、持ってきた袍を差し出した。
化粧を終えて半分向きを変えた弟姫の和奈左媼は、きちんと畳まれて板敷きに置かれた衣装を横目でじろっと見つめ、如何にも億劫そうに息を吐く。
「そうかい、そんなことを真奈姉さんがしなくても、ほかの誰でも出来るんだから・・」
丹念に機織りから起こして仕立てた衣類を、さも迷惑そうに見て、
「まあ、せっかくだから頂いとくよ。今度はさ、自分のものでも作りなよ、ね」
「はい、分かりました、そう致します」
真奈は冷たくなった義母に寂しさを感じた。義父母にはいつまでも元気でいて欲しいからあのお酒を造ったのに、すっかり人が変わってしまった。酒を造ったことをつくづく後悔していた。これもきっと自分の至らなさゆえだから、努めて明るく振る舞おう、そしてもう一度気にいられるようになりたいと願った。
弟姫は板敷きに置かれた衣類に手を触れることもなく、
「用事が済んだらさっさと自分の部屋に帰っとくれ、わたいはこれから出かけなくちゃいけないからさ」
と、すげなく真奈を部屋から追い出すのであった。
出かける行き先とは足湯であろう、若返ってもなお綺麗になりたいと思うのだ。媼がこのように真奈に辛く当り出したのは、若くは成れたが真奈の美しさには到底かなわない、真奈を見るたびにむらむらと妬心が起こるからであった。
景行三〇年夏、真奈と暮らし始めて二年もすると和奈左夫婦は近隣では比ぶべくもないほどの物持ち長者になっていた。長者のお陰か近隣にも家が増え始め、今や村と化している。遠くから訪ねてくる者のための寝所や食事などを提供する宿の如きものも現れた。長者が人を雇って家を造らせ、運営させているのである。
人という者は分からないもので、あれほど真奈に優しかったのに、若返って大層な物持ちになった途端、段々娘の真奈が邪魔になってきた。酒の造り方も覚えたことだし、もともと真奈は赤の他人である。酒のお陰ですこぶる元気な二人は、守銭奴と化し、他人に財産を分けてやりたくないと思うようになった。
若さのお陰で人生を二度過ごしている気分なのである。初めの人生はただあくせく働き、生きるためだけのものだった。それでも夫婦ともに幸せな日々だと思っていたはずである。
しかし、その幸福感をいつの間にか忘れ去り、これからは財も有り、若さも有り、永遠の寿命が有るのだ、青春をずっと謳歌したいと思うようになった。それには邪魔な子供など居ない方がよい。そう思うのだった。――
景行三一年睦月、転機である。
屋敷の奥座敷に和奈左爺がやってきた。最早爺ではない、十代後半の若々しい和奈左の長者である。真奈が奥の部屋でひっそりと機織りをしている。仕入れた綺麗な糸で和奈左夫婦の着る物を作っているのである。そこへ、
「真奈、真奈はいるか?」
と、長者が断りもせずに引き戸を開けた。
「はい、お父様・・お懐かしゅう御座います」
と、元気のいい声で答えた。機織り機の前に座ったまま、真奈はくるっと振り向いてお辞儀をした。人と会える嬉しさで、真奈は心なしか明るい。
「おや、居たな、相変わらずわしらの服を作っているのか、御苦労だな。わしら夫婦は汝の造った酒のお陰で大層若返った。実はな、このところ夫婦になったばかりの頃を思い出してな、今一度二人で仲良く水入らずで過ごしたいと思っておる」
と、長者は窓の方を見ながら、ちらちら真奈の貌色を覗う。真奈の視線が懐かしそうに、嬉しそうに己が背中に刺さって来るので、次の言葉が出しにくい。
「その、なんだ・・悪いのだがな、真奈や・・お前もどこへなりとも行って、男を捉まえて一緒になってくれや。わしらは若返ったで、もう子供は要らんでな」
思っても見ないことを耳にして、真奈は愕然とした。
「そ、そんな、お父様、どうしてそんなつれないことをおっしゃるのですか? わたしにはどこにも行く宛などありませんのに・・」
「ええい、うるさい、父などと呼ぶでない。人聞きが悪いではないか」
「ですがお父様・・」
「言うな。とにかくお前と一緒では楽しゅうないのじゃ、さっさと出て行ってくれ」
と言って、無理やり手を引っ張っていって、門の外に放り出してしまった。
廊下を引き摺られ、門の外に放り出された者を、家の者は初めて目にした。勝手に家に迷い込んだ乞食かなんかとでも思ったに違いない。
頭巾を被らされて、どこにも行けない状態だった真奈。というのも、真奈の存在が近隣に漏れると、磯砂に伝わり、磯砂が襲ってくるかもしれないのだ。真奈は和奈左の長者夫婦にとって目の上の瘤と化していたのである。
真奈はあまりの仕打ちに、凍てつく地べたにへたり込み、涙を流しながら恨めしそうに門の中を見つめている。和奈左夫婦から未だかつてこれほどに酷いことをされた試しはなかったのである。
(ああ、わたしはこれからどうしたらいいの? ずっと室で過ごしていたから外のことが丸で分からない、どうしよう?)
比治の山にはチラチラ白いものが舞っていた。まだまだ雪解けには早い睦月の夕暮れである。無理やりに追い出されて薄絹を二枚着ているだけの素足であった。
とにかくあの社の所まで行こうと、震えながら歩き出した。否応なく北風が霞のように雪を舞わせて真奈を悩ませた。
足があかぎれになりながらも、なんとか井戸に辿り着いた。
白い息を吐きながら手足を洗おうと井戸の水を汲み、真奈はふと釣瓶の中を覗き込んだ。
(はっ、これがわたしなの? わたしはまだ十七だというのに)
水面には、干からびた老婆のような姿が映っていた。
(こんなにやつれてしまったなんて・・・わたしは冬の陽炎のような存在、もう生きていたってしょうがないわ、いっそのこと、ここで死のう。身寄りも無いわたしだもの、だれも悲しむこともない・・・)
人を愛し、疑ることを知らない明るい娘が、これ以上ないというほどの人の冷たさを味わった。しかし、真奈は人を恨むことはしない、その状況に至り、行動せざるを得なかった人の行為をこそ憎んだ。わが身を冬まで生きてしまった陽炎に例える真奈。
夏に川面を飛び交う陽炎は、どことなく羽衣をまとった天女が遊ぶ姿に似る。
水面を見つめ、真奈は茫然と考え込んでいる。
(そうだわ、わたしは真奈よ、まだわたしの記憶が戻っていないというのに、今ここで死んでしまったら、悲しむ人が出てくるかもしれない。生きなきゃ・・・でも、神様、わたしはどうすればいいの?)
真奈は遥か天を見上げて涙を流し、一首の歌を詠んだ。
天の原 ふり放け見れば 霞立ち
家路まと(惑→迷)ひて 行方知らずも
…なお、比治山峠の井戸はずっとのちになって、真奈井(真名井ではない)と呼ばれるようになるが、残念なことに現在は涸れてしまっている。
比治山とは丹後国の南西側半分に広がる山並を指すことは前述した。磯砂山を比治山と呼ぶ人もあるようだが、どうであろうか。比治山峠道は磯砂山とは随分離れていて間に小山も幾つかある、むしろ北に聳える久次岳の裾野道といえる。磯砂山が比治山ならこの峠道を比治山峠とは呼ばない事であろう。この間違いから派生して真奈井の跡地が磯砂山の南の湿地、女池だとされているが、はなはだ疑問である。…
一晩社に泊まって暖をとり、翌日苦心して足駄を作り、蓆を被って東に向かって道を下ると、荒塩という村(峰山町久次)近くに辿り着いた。かつて加悦谷からやってくるときに通った所である。微かに記憶があった真奈は、与謝の家に戻ろうと懸命に小雪の降る中を歩いた。最早与謝しか頼る人がなかったのである。
寒い一日だったせいなのか、幸か不幸か道々人と出会うこともなく、ひたすらに東に向かった。やがて雪は本降りとなってきて、どこをどう歩いているのかも分からなくなった。
とうとう真奈は空腹と寒さのために朦朧となり、小さな社(奈具の社)の入口で倒れてしまった。雪はしんしんと降り積もっている。
その時、ちょうど社にお参りに来た年老いた百姓の夫婦がいる、単衣の重ね着に袴、蓑笠を被って、藁で作った深靴を履いている。
「おや、あんた、あれはなんだや」
と、婆が言う。
「んん、なんだって? ああ、雪溜りだな、こげな所になんだってこんなに雪が積もったかな」
と言って、爺は社の入口を塞ぐ邪魔な雪塊を手で掻き分け始めた。
「おや、これはてぇへんだ、人だぞ」
見ると、長い黒髪が雪に混じって湿っている、うっすらと白い肌も見えた。爺さんは急いで頭付近の雪を掻いで、雪塊の中から現れた娘の口元に手をあててみた。
「息があるぞ。婆さん、手伝え、助けるべぇよ」
と、二人は慌ててしゃがみ込んで、手で雪を掻き分け始めた。娘はすっかり冷えきっていて、青白くなっている。
爺さんが娘を肩に担ぐようにして家に運び、囲炉裏の側に横たえ、氷のように冷たくなった足を婆さんが擦った。爺さんはすぐに火を熾し、朝飯の残りの土鍋を掛けた。
幾分温もりが回復したところで、爺さんは娘を抱き起こし、椀に盛った暖かい猪鍋の汁をゆっくりと口の中に注ぎ入れた。
やがて、体の芯から温まってきたと見えて、娘の頬にも赤味が射してきた。
この百姓夫婦は穂井爺に穂井媼と言い、川(竹野川)にほど近い山沿いの穂井村(竹野郡弥栄町船木)のおさであった。真奈はいつの間にか峰山街道を東に突っ切り、東丹後に分け入っていたのである。
既に五十を超えているというのに穂井夫婦には子が無く、二人で稗や粟、米、里芋などを作って暮らしている。十数戸、三十人ほどしか居ない小さな村だけに、村民は皆家族のように仲が良く、結束している。
かつてはこの倍ほどの規模であったのだが、十五年ほど前から若者の居ない寂れた村になってしまった。夫婦はある願い事を聞いて頂くために、お社様に毎日お参りしているのである。
信心深い穂井夫婦に介抱されて、どうにか真奈は死なずに済んだ。しかるに真奈の心の傷は深く、あまりの悲しさでとめどなく涙が溢れ出る。
この日から真奈はこの穂井夫婦の家で暮らすことになった。夫婦の優しさに触れ、真奈も次第に元の明るさを取り戻していくのである。
…『丹後国風土記・奈具の社』を参考。…