第2話 観測続行 諦めちゃ、め
「・・・自己紹介してくれるかな?」
先生の言葉をよそにあのひとの姿を探す。
わたしが知っているのは彼の目だけ。
どんな姿なのか知らなかった。
教壇から一人ひとりの目をゆっくり見つめる。
最初は静かだったものの、徐々に教室はざわめき出した。
最後のひとりまで見てやっとわかった。
ここに、あのひとはいない。
「・・・あ、ちょっと!」
どこに行くの、という先生の声を背中で受け止めて教室から抜け出した。
ミジンコだったわたしがいたのは旧校舎の理科室。
だから向こうの校舎にあるどこかの部屋にいるはず。
春手前の季節。
差し込む日差しに一瞬驚き、立ち止まって影に入る。
日差しを手で遮りながら、渡り廊下を進んだ。
旧校舎。
一気に雰囲気が変わったような気がした。
冷たく乾いた空気。
少し歪んだガラス窓から差し込む光。
細かな塵が、光の中で浮かんでいた。
反響する足音を聞きながら奥へ奥へと進んでいく。
まだ人間になってから時間が経っていない。
どうやって移動しているのか、自分でもよくわからなかった。
まっすぐに伸びた廊下を泳ぐ。
突然、隣の教室から物音がした。
曇りガラス越しにぼんやりと映る人影。
ピントが合う前のレンズみたいだなって思った。
吸い寄せられるように冷たい取っ手に手をかける。
横に引くと最初にちょっと引っ掛かった。
そのあとはガララ、と音を立てて横に滑る。
窓の外から差し込む日差しに遅れて、薬品とさびた金属の匂いが流れ込んできた。
そのときになって、ようやくここが理科室だと気づいた。
物音がした方向に視線を向ける。
そこにいたのは、背中の少し曲がった男子生徒。
わたしに気づいていないみたいで、彼は窓際の顕微鏡に手をかけていた。
目を見ればあの人かどうか分かるはず。
こっちを見るように念じながら、理科室に足を踏み入れた。
顕微鏡を持つ彼が、ふいにこちらを見た。
目があった。
対物レンズ越しに見たあの目が今、まっすぐわたしを見ていた。
左上がドクドクしているのを感じながら彼に近づく。
「・・・何か用ですか?」
「はい!」
大きく頷いてからわたしは続けた。
「あなたにあいにきました!」
「・・・え?」
少し間があってから、彼は応えた。
「僕に、ですか?」
もう一度大きく頷く。
「初対面だと思うんですけど・・・」
誰かと間違えてませんか? と尋ねる。
「はじめてじゃない!」
だってこの人の目は間違いなく、わたしが対物レンズ越しに見たあの目だったから。
「じゃあ僕の名前わかります?」
「・・・あ、」
どうしよう。
わたしが知っているのはこの人の目だけ。
名前なんて知らなかった。
「多分、他の人と間違えてると思うんで・・・」
そういって彼はわたしを理科室から追い出そうとする。
「まちがえてない!」
「でも僕のこと知らないんですよね?」
「しらないからもっとしりたい!」
好きな水位とか、水温とか、水質とか。
聞きたいことはたくさんある。
「わたしがミジンコだったとき、きみの目を見た!」
一瞬目を見開いた彼は、溜め息をついて続ける。
「・・・そんなこと信じるわけないじゃないですか」
ミジンコが人間になるなんてことありえないし、と口にする。
「でもわたし、ミジンコだった!」
一旦整理しましょう、と言って彼は黒板に向かった。
チョークを手に取り、簡単にミジンコのイラストを描く。
「あなたはミジンコだった、と言いましたね?」
「うん!」
大きく頷く。
「それなら第二触覚はどこですか?」
移動するために使いますよね、と言って、黒板のミジンコの第二触覚を円で囲む。
「・・・あれ?」
頭の前あたりに手をやる。
そういえばない。
「ミジンコの心臓は背中側にありますけど」
ミジンコの頭の後ろあたりを円で囲んだ。
人間は左半身にありますが、と補足する。
自分の左上に手を当てた。
ドクドク動いているこれが心臓?
そしてこれが一番重要なんですけど、と言って彼は続ける。
「ミジンコは光を複眼で受け取り、神経節で処理して反応しますよね?」
なんとなくだけど言っていることはわかった。
「認識できるのは光源の方向だったり光量の変化くらいです」
人間のように形を細かく識別するということはできないんですよ、と説明する。
「あなたがミジンコだということはひとまず肯定しましょう」
ひとまず、と繰り返す。
「ただ、あなたが先ほど言った『ミジンコだったときに、きみの目をみた』というのは科学的な観点からはあり得ないんですよ」
それをどうやって説明するんですか? と尋ねられた。
ミジンコだったときの常識なんて、わたしに聞かれてもわからない。
でもわたしが今ここに人間としているということだけは確か。
お引き取りください、と言って彼はわたしの近くに来た。
「・・・ミジンコのことはよくわからない、わからないけど・・・」
「わからないけど、なんですか?」
こちらに視線を向けて尋ねる。
「きみといっしょにいたい!」
それだけが願い。
だって、そのためにわたしは人間になったんだから。
少し沈黙してから、彼は続けた。
「・・・僕、人間に興味ないので」
お気持ちはありがたく受け取りますが、と言って引き戸を開けた。
これ以上ここにいても、同じ目線で話すことはできそうにない。
肩を落として理科室から出ようとしたそのとき、
「そういえば、あなたの名前を聞いてませんでしたね」
一応聞かせてもらえますか、と彼は尋ねた。
どう答えればいいのかわからない。
もともと、ミジンコのわたしに名前なんてなかったから。
少し考えてからわたしは口にした。
「わたし、ミジ子!」
「ミジ子さん、ですか」
変わった名前ですね、と彼は呟いた。
「あしたもまたくる!」
返事を聞かないまま、わたしは理科室を後にした。
彼が人間のわたしに興味がないからといってあきらめるわけにはいかない。
せっかくかみさまに魔法をかけてもらったんだから!




