根がつく
木崎のマンションに着くと、もう夕方が近かった。
彼は靴を脱いでリビングに入るなり冷房をつけ、荷物を机の横に置いた。
それから振り向いて、御岳を手招く。
「こっちきて。鉢、見せるから」
彼の書斎に足を踏み入れるのは初めてだった。
奥にクローゼットの扉があり、窓辺には幅の広い机が置いてある。それ以外の壁は、天井までの書架で埋まっていた。
「これ」
物珍しそうに部屋を見回していた御岳の前に、木崎が小さな鉢を差し出す。
まだ若いオリヅルランが、白い斑の入った細い葉を伸ばしていた。
「元気そうだな」
「あの庭からもらってきた子だからね」
どこか誇らしげに言う木崎に、御岳は小さく笑った。
指先で、そっと葉を撫でる。
「来年の春には、きっと小さな白い花が咲くよ」
「そうか」
来年の春。
あの庭は、どうなっているだろう。
家も庭もなくなった景色が一瞬よぎり、御岳は小さく首を振った。
「嶽、指に土ついてる」
鉢に触れたときについたのだろう。
指先に、わずかに土が残っていた。
木崎の手が伸びてきて、そっとそれを払う。
真夏なのに、少し冷たい手だった。
指先に触れた感触が、やけに静かに残る。
「……木崎」
「あ……ごめん」
木崎は気づいたように手を離し、少し照れた顔で鉢を窓辺に置いた。
「いや」
御岳は短く言い、机に視線を向ける。
ノートパソコンの横に一冊の本が置かれていた。
『海に沈む』。
木崎の書いた本だ。
「読んだ?」
視線に気づいたのか、木崎が聞く。
「まだ」
「感想、怖いな」
御岳は小さく笑い、手を伸ばして木崎の髪に触れた。
柔らかい髪が指にかかる。
「読むよ、必ず」
「うん」
木崎の睫毛が、わずかに震えた。
見上げてきた木崎の額に、御岳はそっと唇を押し当てた。
木崎は一度まばたきをして、それから少しだけ頬を赤くする。
「ここでいつも、お前は小説を書いてるんだな」
書架に囲まれたこの部屋にも、床には本の山がいくつかあった。
「お前の中に、少し入れてもらった気がする」
「そんなの……いつだって入れるよ。こんなところでよければ」
御岳は小さく笑い、もう一度木崎に口づけた。
今度は、唇に。
触れるだけの、短い口づけ。
「そうじゃなくて」
御岳は木崎の胸にそっと指先を触れた。
指の下で、かすかに鼓動が動く。
「お前のここに」
「嶽……」
「今日は、もっとお前のことが知りたい」
木崎の手を取り、自分の胸に導く。
「俺のことも、知ってほしい」
右胸に当てられた手のひらが、鼓動に触れてわずかに震えた。
「いやか?」
まっすぐ見つめて問うと、木崎は小さく首を振った。
「……いやじゃないよ」
それから、手のひらを御岳の胸に当てたまま言う。
「僕も、嶽のことが知りたい」
木崎が顔を上げ、御岳にそっと口づけた。
触れるだけの、やさしい口づけ。
「教えて、嶽」
御岳は木崎の細い体をそっと抱き締めた。
木崎は一瞬だけ息を詰め、それからゆっくりと力を抜いて御岳の肩に凭れかかる。
「嶽……」
震えるような声が、御岳の耳に届いた。
「向こうに行こう」
「……ああ」
腕の力を緩めると、木崎がするりと抜け出して書斎を出た。
御岳も後に続きながら、一度だけ窓辺を振り返る。
オリヅルランの葉が、ひっそりと夕焼けを浴びていた。
リビングの隅に置かれたベッドに腰掛け、二人は見つめ合う。
木崎の頬が、わずかに紅潮していた。
「奏」
御岳が呼ぶと、木崎はぴくりと肩を揺らした。
声が沁みていくのを追うように、そっと目を閉じる。
御岳はその頬に触れ、閉じられた瞼の上に唇を押し当てた。
「……っ」
息を詰めた木崎の、膝の上で握られた拳を御岳は手のひらで撫でる。
小さく息をつき、今度は眉に口づけた。
形のいい眉を辿り、鼻梁をなぞり、唇に触れる。
細い息が、わずかに開いた唇からこぼれ、二人の間で混ざり合った。
御岳は、まだ拳を固く握ったままの木崎を見て、ふっと笑う。
「そんなに緊張するな」
「だって……」
「最後まではしない。何の準備もないし、どっちが下になるかも決めてないだろ」
「下って……」
木崎が顔を赤らめる。
御岳はその頬を親指でそっと撫でた。
「大事なことだろ。お前は、どっちがいい?」
「そんなの……」
「俺は、お前とならどっちでもいい」
御岳が言うと、木崎はらしくなく視線を泳がせた。
何かを想像するように天井を見て、それから小さく首を振る。
「……僕が嶽を抱くところが想像できない」
御岳はしばらく木崎の顔を見ていた。
それから静かに言う。
「じゃあ、想像しなくていい」
指先で木崎の顎を持ち上げる。
「俺がお前を大事にするほうだけ考えてろ」
木崎は目を丸くしたあと、ゆっくり笑った。
「嶽って、ずるい」
「そうか?」
「うん」
そう言って、木崎は御岳の胸に額を寄せた。
御岳はその背を抱き寄せる。
「ほら、もう緊張してない」
抱き合ったまま、二人はベッドに倒れ込んだ。
何度も唇を重ね、互いの名を低く呼び合う。
木崎の指が御岳の髪に絡み、くしゃりとかき回す。
御岳はその背に腕を回し、細い体の線をゆっくりと確かめるようになぞった。
「嶽……」
息の混じった声が耳元でこぼれる。
御岳はその声を受け止めるように、木崎の額にもう一度口づけた。
木崎は少しだけ笑い、御岳の胸に頬を押し当てる。
鼓動を確かめるように、そっと目を閉じた。
御岳はその背を撫で、指先で肩から腕へとやさしく辿る。
静かに言う。
「もう震えてない」
木崎は小さく息をついて、御岳の服を指で掴んだ。
「……嶽がいるから」
その声はかすかだったが、確かに笑っていた。
御岳は答える代わりに、もう一度木崎を抱き寄せる。
「嶽」
「ん」
「オリヅルラン、ちゃんと根つくかな」
御岳は木崎の背を撫でた。
「つくよ」
御岳は木崎を抱き寄せた。
書斎の窓辺でオリヅルランの葉が揺れるのを思い浮かべる。
木崎は御岳の胸に顔を埋めたまま、小さく笑った。




