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時間の色

 八月初旬の空は晴れていた。

 セミの鳴き声を聞きながら、御岳(みたけ)は車を降りた。

 仕事に行く前に、木崎のマンションへ寄ることになっていた。

 チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「入って」

 通されて部屋に上がる。

 ワンルームでもないのに、リビングにベッドがある光景にももう慣れた。

 だが、また本が増えている。

 奥の部屋を書斎にしていると言っていたが、そこから溢れたのだろう。本の山がひとつ、ふたつ。

 ベッドの枕元にも読みかけらしい本が積んである。

「ごめんね、仕事前に。すぐ渡したいものがあったから」

 木崎は申し訳なさそうに言い、麦茶を出すと、御岳の前に一冊の本を置いた。

 青い表紙。

『海に沈む』とタイトルがある。

 作者名は、木崎(そう)

「新刊の見本、送られてきたから。(がく)に、と思って」

 御岳は差し出された本を手に取る。

 冒頭のページをめくる。

 ――その男は、生まれてこの方、呼吸というものをしたことがなかった。

 その一文に目が止まる。

 どんな話なのか気になりつつ、本を閉じた。

「……ありがとう。ゆっくり読むよ」

「うん。嶽、仕事三時からだよね。まだ少し時間ある?」

 時計を見る。まだ二時少し前だった。

 ここからジムまではそう遠くない。

「ああ」

「じゃあ、少しゆっくりしていって」

 木崎が笑い、麦茶を口にする。

 白い喉が上下する。

 御岳は自分のグラスを手に取った。

「ジム、お盆は休みだよね。嶽は帰省するの?」

 御岳は麦茶に口をつける。

「いや。親父が墓参りに来るから、一緒にじいちゃんの家の片づけだ。お前は?」

「僕は実家、もうないんだ。両親は東京で、兄夫婦と一緒に住んでるから」

「……そうか。おまえ、末っ子か?」

「そう。上に兄が二人いて、不肖の三男坊。嶽は一人っ子か、長男でしょう」

 肩をすくめた木崎が笑う。

 御岳は髪をかき上げ、細く息をついた。

「よくわかったな。一人っ子だ」

「なんとなく、そんな気がしてた」

 木崎が笑い、少し眩しそうに目を細める。

「……いつか、地元に帰るの?」

「いや……まだ考えてない」

「そっか」

 その声に、わずかにほっとした響きが混じった。

 御岳は木崎の顔を見た。

「木崎」

 座卓に手をつき、身を乗り出す。

 驚いたように顔を上げた木崎の鼻先に、唇が触れた。

「もし帰るにしても」

 御岳は低く言う。

「お前を置いてはいかない」

「嶽……」

「盆休みの最終日に、会おう。泊まりに来てもいいか」

 俯いた木崎が、こくりと頷いた。

 汗をかいたグラスの中で、氷が小さく鳴った。

 御岳は一度、静かに息を吐いた。


 盆休みの初日、御岳の父が来た。

 最寄り駅から車に乗り込んできた父は、「暑いな」とだけ言ってハンカチで汗を拭った。

 御岳は、前に会ったときより小さく見える父に「ああ」とだけ返し、冷房を強めた。

 ふたりで墓参りを済ませてから、祖父母の家へ向かう。

 御岳が先に来て、家の窓を開け、風を通しておいた。

 父はまず仏壇に手を合わせ、それから縁側に出て庭を眺めた。

「ずいぶん、さっぱりしたな」

 飛び石が顔を出し、伸び放題だった植え込みは刈り込まれ、鉢植えも生き生きしている。

「今年は……知り合いが手伝ってくれたから」

 木崎のことをどう説明すればいいのか少しためらい、御岳はそれだけ言った。

 父は気にした様子もなく、「そうか」と言って伸びをする。

「じゃあ、片付けるか」

「ああ」

 マスクをつけ、軍手をはめる。

 御岳が持ってきたゴミ袋を広げ、ふたりで黙々と片づけを始めた。

「二階の親父の書斎の本も、処分するか」

「知り合いに古書店を紹介してもらって、全部引き取ってもらった」

 父は眼鏡の奥の目を瞬かせた。

「全部か。そりゃすごい」

 少し間を置いて言う。

「いい知り合いができたんだな」

「……まあな」

 口の中で呟き、御岳は手を動かした。

 父が二階の自分の部屋を片づけに上がるのを見送り、御岳は客間に掃除機をかけた。

 今日は父と、ここに泊まる予定だった。

 少し陽に焼けた畳の上に、漆の表面が曇った仙台箪笥が置いてある。

 それを見ながら木崎が言った言葉を思い出す。

 ――時間の色、って感じ。

 そのときの横顔を思い出し、御岳は小さく笑った。

 日が暮れかけたところで片づけの手を止め、近所で買ってきた弁当に箸をつけた。

 父は小さな体をさらに小さくして、黙々と箸を動かしている。

 ふと、その手が止まった。

「嶽」

 眼鏡の奥の目が、御岳を見る。

「お前、ここに住まないか」

 御岳は一瞬、言葉に詰まった。

「……俺ひとりじゃ、広すぎるよ」

「……そうか」

 父は手を止めたまま、茶の間や仏間をひとわたり見回す。

 それから縁側の方を向き、ぽつりと言った。

「片づけが終わったら、更地にして売るしかないか」

 その言葉に、胸を衝かれた。

「更地って……庭も潰すのか」

「そりゃあなあ。残しておいても仕方ないし」

 縁側で、オリヅルランの葉が揺れた。

「家具なんかも、粗大ゴミだな」

 父はそう言って、また箸を動かし始めた。

 御岳は黙って、父の肩越しに縁側を見ていた。

 それ以上、何かを食べる気がしなかった。

 父が帰っていったのは、盆休みの最終日の朝だった。

 片づけはあらかた終わり、父はまるで最後に家を記憶に刻みつけるように、ゆっくりと家の中を見て回ってから帰っていった。

 御岳はそんな父の背中に声をかけようとして、何を言えばいいのか分からず、言葉を飲み込んだ。

 改札を通り、こちらを振り向いた父に小さく手を挙げる。

 御岳はその背を見送った。

 駅を出て、近くの書店に向かう。

 入口のそばで、木崎が待っていた。

 待っているあいだに買い物をしたのか、ショルダーバッグをぱんぱんに膨らませ、書店の紙袋まで下げている。

「悪い、待たせたか」

「ううん。早めに着いたから、一回りしてた」

「荷物、車に置きに行こう。重いだろ」

 御岳はそう言って、駅のそばに停めた車まで木崎と並んで歩いた。

「お父さん、元気だった?」

「……ああ。歳は取ったけど、元気そうだったよ」

「そう。よかったね」

 強い日差しを浴びて、白い肌の木崎が笑う。

 御岳は車のドアを開け、木崎から受け取った紙袋を後部座席に置いた。

 やけに重い。

「これ全部、本か」

「うん。あとこっちにも」

 木崎はショルダーバッグをぽんと叩いて見せた。

「中身も貸せ。飯食いに行くのに、重いだろ」

「いいよ。慣れてるから」

「貸せ」

 重ねて言うと、木崎はしぶしぶと中身を出した。

 ブックカバーをかけた本が五冊も入っている。

「よく肩がこらないな」

 呆れて言うと、木崎は少し照れたように頭を掻いた。

「まだ読んでない本って、不思議と軽いんだよ」

「あんなに、いつ読んでるのかも謎だ」

 木崎のリビングまで浸食している本の山を思い出して言うと、わずかな苦笑が返ってきた。

「売れっ子作家じゃないし、暇はたくさんあるからね」

「売れてないと言いながら、こんなに本が買えるのも謎だな」

「それは僕も不思議」

 真面目な顔で言うので、御岳は笑った。

「飯、食いに行こう。何が食べたい?」

「車で来てるなら、ちょっと遠いところでもいい? 美味しいお蕎麦屋さん、知ってる」

 駅前で軽く済ませるつもりだったが、御岳は頷いた。

「いいぞ。どこだ?」

「ええっとね……」

 車に乗り込みながら、木崎がおおよその場所を告げる。

 御岳はシートベルトを締め、山の方へ車を走らせた。


「美味いな」

 山の近く、古民家を改築した蕎麦屋で天ぷらそばを食べながら、御岳は言った。

 蕎麦はこのあたりの名物だ。

 御岳は、こういう店で食べたことがなかった。

「でしょ? ここで打ってるんだって。天ぷらも美味しいよね」

 紫蘇の天ぷらにかじりつきながら、木崎が言う。

 さくり、と小気味よい音が鳴った。

 座敷の向こうの庭から風が渡ってきて、木崎の髪を揺らす。

「お爺さんの家の片づけ、はかどった?」

 不意に問われ、返事が一拍遅れた。

「……ああ。あらかたは。あとは、大きいものを処分するだけだ」

「処分って、お父さんたちはもう戻ってこないの?」

「両親は仙台に家があるし、戻ってくる気はないみたいだな」

 御岳は乾いた声で言った。

「そうなんだ。なんだか、もったいないね」

 いい家なのに、と木崎がぽつりと呟く。

 御岳は喉元まで出かかった言葉を、ナスの天ぷらをかじってごまかした。

 縁側で微笑んでいた木崎の横顔が、ふと目に浮かぶ。

 その像が、なかなか消えない。

「そういえば、もらってきたオリヅルラン、根が伸びたから鉢に植え替えたよ」

 言われて、御岳ははっと顔を上げた。

「書斎の窓辺に置いてある。あとで見せるね」

 微笑む木崎に頷き、御岳は蕎麦をすすった。

 書斎の窓辺に置かれた鉢を思い浮かべてみる。

 新しい根は、まだ細くとも、しっかりと伸びているだろう。


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