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百日紅の庭

 翌朝、御岳(みたけ)が目を覚ますと、木崎は腕の中にいた。

 もう起きていたらしく、視線を向けるとぱっと俯く。耳の先が赤い。

 御岳は「おはよう」とだけ言い、彼の額に口づけた。

「……おはよう」

 額を押さえた木崎に笑いかけ、御岳はベッドを抜け出す。

 半裸の上半身に、昨夜脱ぎ捨てたTシャツをかぶった。

 木崎も、目を擦りながら起き上がる。

 白い胸元に視線が行き、御岳はそっと目を逸らした。

 昨夜初めてそこに触れた指先が、かすかに疼く。

 木崎も脱ぎ捨てたままのサマーニットを頭からかぶった。

 御岳の腹が、空腹を訴えて鳴る。

「腹減ったな」

 短く言うと、木崎が苦笑した。

「夕飯、食べ損ねたもんね。ちょっと待ってて」

 服を着た木崎が、台所へ入っていく。

 やがて、トーストとクロワッサン、それにオレンジを盛った皿を手にして戻ってきた。

「目玉焼きも焼こうか?」

「いや、これで充分だ」

 コーヒーの入ったマグカップを差し出され、御岳は礼を言って受け取る。

 テレビをつけたまま、ふたりで朝食を食べた。

 クロワッサンをちぎっていると、天気予報が始まる。今日も暑くなるらしい。

 画面が切り替わり、どこかの庭園からの中継になる。青々とした緑が、やけに濃く見えた。

「嶽のお爺さんの家のお庭、この季節もきれいなんだろうな」

 ぽつりと木崎が言う。

「前に行ったときは、紫蘭と鉄線が咲いてたね。山椒の木もあったし、今ごろはアゲハ蝶が飛んでるかもしれない」

 父と祖父母の家の片づけをしていたとき、庭でアゲハ蝶らしい影を見たのを思い出す。

「また行くか」

 御岳が言うと、木崎が「いいの?」と首を傾げた。

「いいに決まってる」

 短く答えて、クロワッサンをひとかじりする。

 口の中にはバターの香りが広がったのに、どこかで夏草の匂いがした気がした。


 一度家に帰り、シャワーを浴びてからジムへ出勤した。

 業務をこなしていると、「御岳。今、いいか?」とマネージャーに声をかけられる。

 マシンフロアにある事務室へ呼ばれ、御岳はそこへ向かった。

 事務室の片隅の応接セットに腰を下ろすと、向かいのソファに座ったマネージャーが膝の上で手を組んで言う。

「お前、そろそろサブマネージャーになってくれないか」

 六月にサブマネージャーだった男が退職し、主任である御岳に白羽の矢が立っていた。

 だが昇進に興味のない御岳は、これまでのらりくらりと話をかわしてきた。

「業務内容は今とほとんど変わらない。手取りも増えるし、休みもきちんと取れる。何が不満なんだ?」

「……いえ、不満というわけでは」

 身を乗り出してくるマネージャーから視線を外し、御岳は口ごもる。

「来週までに、きちんと考えてくれ。俺の次にここが長いのはお前なんだから」

「……はい」

 話はそれで終わりらしく、マネージャーは「来週までだぞ」と念を押して事務室を出ていった。

 御岳は小さく息をつき、ソファから立ち上がる。

 ありがたい話だとは思う。

 だが、自分がここで働き続けたいのかどうか、まだはっきりしない。

 地元のダイビングスクールが看板を下ろしたとき、御岳は二十五歳だった。

 新しい場所で新しいことを始めるのも悪くないかと思い、祖父母がまだ健在だったこの土地へ移り住み、ジムでアルバイトを始めた。

 三年後に社員になり、気がつけばもう十年になる。

 肩書は主任になったのに、どこかでまだここに根を下ろした気がしない。

 もう若くもないのに、いつまでこんな浮ついた気持ちでいるんだと思うこともある。

 十年以上住んでも、この町の匂いがまだ自分のものにならない。逃げてきた、という思いもあった。

 復興半ばのあの土地から背を向けて、自分はここまで逃げてきた。

 震災から十五年が過ぎても、その感覚は消えない。

 御岳は息をつき、持ち場に戻る。

 水質検査用の採取容器を手に取り、プールへ向かった。


 御岳の休みは水曜日と金曜日だ。

 金曜日の昼過ぎ、車で木崎を迎えに行き、途中のコンビニで買い物をして祖父母の家へ向かった。

 昼に起き出したばかりだという夜型の小説家は、車内で朝食代わりのサンドイッチを頬張っている。

 鍵を開けて中に入る。

 父と片づけたばかりとはいえ、閉め切っていた家の中は蒸し暑かった。

 木崎と手分けして窓を開けて回り、風を通す。

 それから順に仏壇に手を合わせ、ペットボトルのお茶を手に縁側へ腰を下ろした。

「あ、アゲハ蝶」

 木崎が声を上げる。

 庭の隅に植えられた山椒の木のまわりを、蝶がひらひらと舞っていた。

「庭に出ていい?」

「ああ」

 木崎は沓脱石の上に置かれた色あせたサンダルをつっかけ、庭に降りる。

 そのまま山椒の木へ歩いていった。

「枝に触るなよ。棘があるぞ」

 幼いころ祖父に言われた言葉を思い出し、そのまま口にすると、木崎は風に髪を揺らしながら「うん」と答えた。

 サンダルは一足しかない。

 御岳は玄関へ回り、靴を持ってくる。

 ついでに庭の鉢に水をやろうと思った。

「あ、ねじ花」

 じょうろに水を汲んでいると、そんな声が聞こえた。

 御岳は水を入れたじょうろを手に、木崎のそばへ行く。

 彼の足元のすぐ近くに、らせん状に小さな花をつけた細い茎が伸びていた。

「夏の花だな」

(がく)、知ってるんだ」

「親父に登山に連れていかれたときに見た。俺にとっては、ひまわりよりこっちのほうが夏って感じがする」

「へえ。思い出の花なんだ」

 帽子のつばを揺らして、木崎が笑う。

「ここにも咲くのは、知らなかった」

 御岳は手にしていたじょうろを傾け、ねじ花の根元に水をやる。

 濡れた葉が、夏の光を受けてきらめいた。

「桔梗も、撫子もきれい。百日紅(さるすべり)も」

 木崎が飛び石をゆっくり渡りながら、庭の花や木を眺めて回る。

 五角形に膨らんだ紫のつぼみを見つけ、御岳はその鉢に水をやりながら呟いた。

「この花、婆ちゃんが好きだったんだ。紫が好きだったから」

「桔梗?」

 木崎がしゃがみ込み、つぼみを覗き込む。

「そういえばこの庭、紫の花が多いね。紫蘭も鉄線も。紫陽花も紫だったし、竜胆(りんどう)の鉢もある」

「ああ」

 御岳は頷いた。

「爺ちゃん、婆ちゃんのために植えたんだろうな」

「素敵だね」

 木崎はそう言って立ち上がり、庭の奥へ視線を向けた。

 燃えるような赤い花をつけた木――百日紅、と彼がさっき言っていた――の向こうに、生け垣が続いている。

「秋になったら、あのドウダンツツジが真っ赤になって、竜胆が咲くんだね」

「……お前、この庭、好きか」

 軽くなったじょうろを手に、御岳は問いかけた。

 木崎が振り返り、御岳を見る。

「うん。庭だけじゃなくて、おうちも。どっちも大事にされてきたことがわかるから」

「……そうか」

 御岳は庭の隅の水道に歩み寄り、もう一度水を汲んだ。

 水音が、セミの声に重なる。

 サンダルの足音が近づき、木崎が傍らにしゃがみ込んだ。

「それに、嶽も小さい頃に遊んだお庭でしょ」

 御岳は目元を和らげ、百日紅を見上げた。

「あの木に登ろうとして、爺ちゃんに怒られた」

「やんちゃだったんだ」

「普通だ」

 水を止め、じょうろを手に御岳は腰を上げた。

 木崎も立ち上がり、庭を見回す。

「僕も水、あげていい?」

「ああ。重いぞ」

 水を湛えたじょうろを手渡す。

 木崎が鉢植えに水をやるのを見ながら、御岳は目を細めた。

 木崎が空になったじょうろを手に戻ってきたところで、御岳は蛇口に散水用のホースの先を取り付けた。

 庭木や生垣には、ホースで水をやる。

 手元の切り替えをシャワーにして、生垣と百日紅、山椒の木の根元に水をまいた。

 弧を描く水の中に、小さな虹が生まれる。

「嶽、虹!」

 子どものような声で木崎が言った。

 御岳は笑いながら、ホースを左右に動かす。

 濡れた土の匂いが立ち、夏草の匂いに混ざった。

 水やりを終えると、二人は縁側に腰を下ろしてお茶を飲んだ。

 百日紅にでもセミが止まっているのか、鳴き声が近い。

「……この庭」

 ぽつりと、御岳は声を落とした。

 だが続く言葉を探せず、唇を噛む。

「このお庭がどうしたの?」

「……いや、なんでもない」

 御岳は首を振り、お茶を飲んだ。

 木崎は何か言いたげな顔をしたが、何も言わずに手元のペットボトルへ視線を落とした。

 やがて顔を上げ、言う。

「このおうち、案内して」

「案内って言っても……居間と茶の間と仏間と客間。二階に爺ちゃんの書斎と親父の部屋。それだけだぞ」

「やっぱり広いね。放っておくのがもったいないみたい」

 振り返って見える範囲を見回しながら、木崎が何気なく言う。

「……そうだな」

 御岳はぽつりと答えた。

 ――更地にして売るしかないか。

 父の声が、まだ耳に残っている。

 それから、木崎の言葉も。

 ――庭だけじゃなくて、おうちも。どっちも大事にされてきたことがわかるから。

 御岳は庭を見たまま言った。

「……お前、ここに住む気あるか」

 木崎が瞬きをした。

「え?」

「この家」

 御岳は百日紅の向こうを見る。

「人が住まないと、家はすぐ駄目になる」

「……嶽も住むの?」

 問われて、まっすぐに彼を見て頷いた。

 木崎は何も言わなかった。

 御岳は庭を見渡した。

 百日紅の葉が揺れ、山椒の枝にアゲハ蝶が止まる。

 縁側の横で、オリヅルランが静かに揺れていた。

 御岳はゆっくり息を吸った。

『海に沈む』の男も、こんなふうに呼吸を見つけたのだろうか。

 ここなら、呼吸できる気がした。

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