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梨と湯気

 閉館間際のロビーに、木崎の姿があった。

 夜型の彼は、暑い日中を避けて夜にやってきて、水中ウォーキングをして帰る。

「木崎さん」

 御岳はカウンターから声をかけ、車のキーを渡した。

「乗って待っててください。閉めたら、いつもの店でいいですか」

 木崎は笑って頷き、キーを受け取った。

 閉館作業を終えてジムを出ると、絡みつくような暑い夜気に包まれた。

 もうすぐ九月になるというのに、この暑さだ。

 駐車場へ足を向けると、御岳の車の中で木崎が待っていた。

「待たせた」

「ううん、お疲れ様」

 木崎はそう言ってから、小さく空咳をした。

「風邪ひいたのか?」

 助手席を見ると、木崎は口元に手を当てて首を振る。

「違うよ、大丈夫。秋が近くなると、空気が乾燥するからどうしてもね」

 心配する視線を振り払うように、木崎は笑ってみせた。

「いつものことだから、気にしないで。マスクも持ってきてるんだ」

 そう言って、バッグから白いマスクを取り出す。顔の半分が隠れてしまう。

「うつるものじゃないけど、周りの人が嫌がるしね」

「……そうか」

 御岳はそれだけ言って、車を出した。


 いつものラーメン屋に入り、それぞれ注文をした。

 御岳はいつも通りの醤油ラーメン。

 木崎はワンタンメンに半チャーハンまで頼んでいる。

 ひとりのときは、ろくに食べていないと言っていたのに。

 食事を抜くことも多い、と前に聞いた。

 それ以来、仕事上がりは一緒に食べるようになった。

 注文の品が届くのを待つ間も、木崎はときどき咳をしている。

 咳をするたび、息がうまくできていないみたいで、胸の奥がざわついた。

 肺が弱い、と以前聞いた言葉を思い出し、御岳はその薄い背を撫でてやりたくなった。

 代わりに、水のグラスを手に取りながら雑談を振る。

「お前、作家になる前は会社員って言ってただろ。何してたんだ」

「営業。オフィスサプライの。飛び込みもしてたよ」

 意外な答えに目を丸くしていると、木崎が自嘲めいた笑みを浮かべた。

「断られるの、得意だったよ」

「馬鹿」

 反射的に、御岳はそう言っていた。

 木崎の笑顔が、ふっと凍りつく。

「俺の前まで営業しなくていい」

「……」

「お前は、普通にしてればいいんだ」

「……うん」

 木崎は小さな声でそう言って俯いた。耳の端が、かすかに赤くなっている。

 注文した品を食べ終え、店を出たときには二十四時近くになっていた。

 御岳は、これから仕事だという木崎を家まで送り届け、自宅へ向かった。

 あとはシャワーを浴びて眠るだけだ。

 それでも御岳は、スマホを手にしたまましばらく逡巡していた。

 実家の父は、まだ起きているだろう。

 午前一時に寝て、朝六時半に起きる。判で押したように、そんな生活を続けている人だ。

 御岳はひとつ息を吸い、父の番号に電話をかけた。余計な前置きはしない。

「親父? あの家さ……」

 御岳は背を少し丸め、話を切り出した。


 翌日、御岳はいつもより早くジムに出勤した。

 マシンのフロアに向かい、マネージャーを捕まえて事務所に入った。

 安っぽい合皮のソファが、腰の下でぎしりと音を立てる。

「先日の、サブマネージャーの件ですが、お受けします」

 御岳が言うと、マネージャーは頭髪の後退し始めた額に手をやり、「そうか」と言った。

「御岳がそう言ってくれたら安心だ。来月から、頼むよ」

「はい。よろしくお願いします」

 御岳は膝頭を掴み、頭を下げた。

 この地に根を下ろそう。

 あいつとなら、それができる気がしていた。

 プールのフロアに向かうと、ロビーで利用者たちが雑談していた。

 御岳は目礼だけして、カウンターに入る。

 ふくよかな婦人が、やせ形の連れにしきりに何かを言っていた。

「梨。梨は肺を潤すのよ。薬膳なんだって。もう走りの梨も出てるし、食べてみて」

 やせ形の婦人は、木崎がしていたのと同じような空咳をして言う。

「そうねえ、梨だったら、効かなくても悪いことはないものね」

 梨は肺を潤す薬膳、という言葉が御岳の耳に残った。


 御岳は次の休みの日、スーパーに寄ってから木崎の家を訪ねた。

 インターホンに「俺」と声をかけただけで、木崎が出てくる。

「嶽、いらっしゃい」

「これ」

 手にしていたスーパーの袋を差し出す。

 木崎は中身を見て、目を丸くした。

「梨、こんなにたくさん」

「肺にいい薬膳らしい」

 咳をするあいつの肺に、少しでも空気が通るならいいと思った。

「肺に……。ありがとう」

 袋を受け取った木崎が、「上がって」と御岳を促す。

「ネットで検索したら、芯をくりぬいて蒸して、はちみつ垂らして食べるといいって」

「蒸すって……電子レンジじゃ駄目かなあ?」

 袋から走りの梨を取り出して眺めている木崎に、御岳は笑った。

「念のため、簡易蒸し器とはちみつも持ってきた」

 バッグから折り畳み式の蒸し器と、はちみつのボトルを取り出す。

「ちょうどおやつにいいだろ。台所、借りてもいいか?」

 午後三時が近いのを見て木崎に断る。

 彼は「散らかってるけど」と言ったが、洗い物が溜まっているわけでもなかった。

 ネットで見たレシピを思い出しながら、梨の上の部分を切り、スプーンで芯をくりぬく。

 木崎はキッチンの入り口で、御岳の手元を見ていた。

「嶽、器用だね。自炊してる人の手つきだ」

「一人暮らしも長いから、それなりにはな」

 鍋に水を張って蒸し器をセットし、あとは蒸すだけだ。

 梨を入れて火をつけ、蓋をする。

 蒸し上がりを待つ間に、木崎がコーヒーを淹れてくれた。

 飲みながら、御岳は来月からジムのサブマネージャーになることを話した。

「昇進するんだ。おめでとう。お祝いしなくちゃね」

「お祝いなんて、いいよ」

 白い歯をこぼした木崎に、御岳は苦笑して首を振る。

「ただ、あそこでやっていこうっていう決心がついた」

「……決心?」

「ああ。親父にも、あの家に住むって連絡した」

 木崎は一瞬、マグカップを手にしたまま黙った。

「……あの話、本気? あそこに住まないかって」

 台所から、湯の沸く音が聞こえてくる。

「うん。先に俺が住むから、お前はゆっくり考えててくれ」

 そう言ってから、御岳は言葉を付け足した。

「時々遊びに来るだけでも、いいし」

「……うん。またお庭の手入れ、させてね」

 木崎が躊躇いがちに、小さく頷く。

 早まったという気持ちは、御岳にはなかった。

 木崎が迷うのなら、待つつもりだった。

 共に暮らすことを拒まれても、関係そのものは変わらないと思った。

 それなら、それでいい。

 やがて梨もいい頃合いかと、御岳は腰を上げる。

 蒸し器から梨を取り出し、くりぬいた窪みにはちみつを垂らした。

 スプーンを添えて、木崎のもとへ運ぶ。

 彼は「あったかい梨……」と呟き、スプーンを取って果肉をすくった。

 目を閉じて、一口食べる。

「……美味しい」

 木崎の口元に笑みが浮かぶのを見て、御岳はほっと息をついた。

「蒸し器とはちみつ、置いていく。咳出そうなときに、作れ」

「嶽が来たときだけ作る」

 湯気の立つ梨の甘い匂いが、部屋の空気をやわらかくした。


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