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息をするように君を

 車に乗り込んで時計を見ると、まだ午後二時だった。

「他にどこか寄るところがないなら、うちに来るか」

 助手席の木崎にそう声をかける。

「嶽の家?」

 木崎は少し声を弾ませて、「行きたい。行ってもいい?」と首を傾げた。

「引っ越し準備で、散らかってるけど」

 そう言って、御岳は車を出した。

 四駆をマンションの駐車場に入れ、先に立って木崎を案内する。

 部屋に入ると、木崎はぐるりと室内を見回した。

「物、少ないね」

「ちょうどいい機会だから、思い切っていろいろ処分した。適当に座ってろ」

 二人掛けのダイニングテーブルに着いた木崎に、コーヒーを淹れてやる。

 木崎は「ありがとう」と言って、カップを受け取った。

「ねえ嶽」

 向かいの席に座ろうとした御岳を、木崎が呼ぶ。

「今なら、キスもできるよ」

 御岳は一瞬だけ動きを止めた。

 それからゆっくり、木崎の方へ歩いた。

「奏」

 見上げてくる木崎の上に屈み込み、短く唇を合わせる。

 吐息が混じり、すぐには離れがたい。

 間近で見上げてくる木崎が目を細め、御岳の頭に手を寄せてきた。

「もっと」

 ねだるように言われて、御岳はふっと口元を緩める。

「もっと?」

「うん。外で我慢した分……もっとしたい」

 少し恥ずかしがるような小さな声に、御岳は柔らかく笑った。

「奏。口、開けて」

 薄く唇を開いた彼に、さっきよりも深い口づけを落とす。

 ん、とくぐもった木崎の声が溶け、甘い吐息に紛れた。

 御岳は彼の唇を軽く甘噛みして離れ、首筋に唇を滑らせる。

「嶽……」

 木崎が掠れた声で言って、御岳のシャツを掴んだ。

 御岳はそっと体を離し、睫毛を震わせて瞼を上げた木崎と目を合わせる。

「コーヒー、冷めるな」

 それだけ言って、御岳は自分の席に腰を下ろした。

「うん……」

 顔を赤らめて俯き、カップに手をかけた木崎を見て、御岳は目を細める。

 かわいい、などと言ったら、彼は怒るだろうか。

 御岳はコーヒーを飲みながら思った。

 こんな顔をする男を、他に知らない。

 彼の、もっといろんな顔を見たくなる。

 それが恋なのだと、静かに思う。

 湯気が、二人の間でゆっくり揺れた。

「……嶽」

 コーヒーを飲んでいた木崎が顔を上げ、躊躇いがちに言った。

「嶽はなんで、潜るのやめたの」

 一瞬、胸の奥に鋭く切り込まれた気がして、呼吸が止まる。

 御岳はカップを置き、無理に唇の端を引き上げた。

「お前の小説のネタになるようなことじゃない」

 木崎は静かに首を振った。

「取材がしたいわけじゃないよ」

 わずかに視線を揺らして、御岳を見る。

「作家の好奇心で聞いてるわけでも、ない」

 御岳は黙って、手元に視線を落とした。

 クローゼットに突っ込んであったダイビング用品を、先日処分したばかりだった。

 もう潜らない、と決めたわけではない。

 ただ、思い出に区切りをつけたところだった。

「……震災の後」

 乾いた声で、御岳は言った。

「最初は自衛隊が潜って捜索をした。そのうち、地元の民間ダイバーにも協力要請があって」

 言葉を切り、唇を噛む。

 冷たい水がスーツの隙間から入り込んできた。

 あの海の温度を、御岳はまだ覚えている。

 続けられずに黙り込んだ御岳に、木崎が手を伸ばした。

「嶽は……潜ったんだね」

 御岳は、答えなかった。

 代わりに、ゆっくり息を吐いた。

 カップに添えた手の上に重ねられた木崎の手のひらが、優しかった。

「……それで、潜れなくなった。それだけの話だ」

「それだけなんて」

 木崎が震える声で言った。

「そんなこと言わないで」

「奏……」

 目を合わせた彼の瞳が、うっすらと潤んでいる。

「……僕を海に連れて行ってくれてありがとう」

 御岳は目を閉じ、息を深く吸った。

 胸の奥で凝っていた何かが、一緒に吐き出された気がした。

 けれど痛みは、消えない。

「俺もお前と行けて……よかったと思うよ」

 劇的な回復はない。ドラマチックな救済もない。それでも、前へ進もうと思えた。

 こいつとなら、と、重ねられた手を握る。

「……好きだ、奏」

 木崎の手が、わずかに強く握り返した。

 かたりと小さく、椅子が鳴る。

 腰を上げた木崎が身を乗り出し、御岳の唇にそっと唇を重ねた。

 触れるだけの短いキスだった。

 御岳は黙って、目の前の彼を見つめる。

「僕も、嶽が好き」

 まっすぐに御岳を見つめて、木崎が言った。

「嶽がここにいてくれてよかった」

 御岳は目を閉じ、静かに息を吸った。

 海の底から浮かび上がるときのように、ゆっくりと、呼吸が戻ってきた。

 その手は、まだ繋がったままだった。


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