腕の中の夜
その夜、御岳は初めて木崎を抱いた。
腕の中で呼吸を乱す木崎に口づけながら、御岳もまた息を深くする。
「嶽……」
差し出された手を強く握ると、二人の呼吸がゆっくりと重なった。
「好きだよ……好き」
甘く掠れた声が、御岳の胸を静かに揺らす。
幾度も口づけを交わし、互いの名を呼び合った。
「奏」
赤らんだ耳元で名を呼ぶと、木崎の肩がわずかに揺れる。
「耳元で呼ぶの、反則……」
照れているのか、少し拗ねているのか。
頬に朱を差したまま、木崎は御岳を見上げた。
「かわいい」
首筋に頬を寄せるようにして顔を埋め、御岳は低く言った。
「こんな、ときに、からかわないで」
息を乱しながら、木崎が小さく抗議する。
「からかってない」
絡めた指にそっと力を込め、御岳は首を振った。
「好きだ、奏」
「……嶽」
「離したくない」
そう言って口づけると、木崎がかすかな吐息を漏らす。
「離さないで」
しなやかに背を反らせ、木崎が微笑んだ。
「……ああ」
乱れた息が、静かに重なる。
御岳はもう一度、木崎に深く口づけて目を閉じた。
呼吸が落ち着くまで、御岳はしばらく木崎を抱きしめていた。
やがて、彼の髪をそっと指先で梳く。
「……体、しんどくないか」
胸元に顔を伏せたまま、木崎が小さく頷いた。
「うん。嶽が……優しくしてくれたから」
「手荒になんて、できるわけないだろ」
反射的にそう言うと、木崎が笑って顔を上げた。
「そういうところも、好き」
御岳は喉の奥で低く笑う。
「嫌いなところは?」
まだわずかに肌を上気させた木崎が、眉間にしわを寄せた。
「……ないから、困ってる」
真面目な口調で言う彼に、御岳は少し顔を寄せた。
「困ることなのか?」
「困るというか……このまま溺れて、いいのかなって」
ぽつりと呟いた言葉に、御岳は細い背を撫でていた手を止めた。
「後悔してるか?」
「ううん、そうじゃないよ。そうじゃなくて……」
木崎は首を振り、言葉を切って俯く。
やわらかな髪が、御岳の胸をくすぐった。
やがて顔を上げ、静かに言う。
「僕、嶽の重荷になりたくないから。だから……溺れちゃだめだと思って」
御岳はわずかに口元を引き締めた。
「重荷じゃないし、溺れてもいい」
木崎の額にそっと唇を落とし、少し乱れた髪を撫でる。
「俺はもう、溺れてる。お前に」
「嶽……」
「引き返せるくらいなら、抱いてない」
目を見て言うと、木崎の瞳がわずかに潤んだ。
「……僕も」
白い腕が御岳の首に絡み、引き寄せる。
「大好きだよ、嶽」
「知ってる」
頬を摺り寄せて言うと、木崎が笑った。
「……そういうところも、好き」
「だと思った」
木崎が噴き出して、細い肩を揺らす。
御岳も笑って、その身体を抱きしめた。
初めての夜は、そんなふうに静かに過ぎていった。
御岳の部屋着を着た木崎が、ベッドの隣でこちらを見た。
「引っ越し、いつするの?」
「今から少しずつ荷造りして、十月に入ったら有給を取って引っ越す予定だ」
木崎はそっと御岳の肩に頭を寄せて言う。
「僕も手伝いに来ていい?」
「ありがたいけど、そんなに物もないしな」
この土地に根付く感覚を持てずにいた御岳は、身軽に暮らそうとしてきた。
もともと物をむやみに集める趣味もなく、部屋の中には物が少ない。
「そうだね。本だらけの僕の部屋とは大違い」
木崎が少し眉を下げて笑う。
御岳の部屋にも本棚はあるが、そこからはみ出た物は潔く処分することにしていた。
「……もしお前が、あの家に越してくるなら」
少し言いよどんでから続ける。
「爺ちゃんの書斎、空けておく」
木崎はわずかに黙り込み、前髪を指でいじった。
「僕があそこ、使ってもいいの?」
「俺には使い道のない部屋だ」
木崎の身体を抱き寄せて言うと、彼は少し神妙な顔になった。
「……今すぐ、返事はできない。ごめんね」
御岳は息を吐き、彼の肩を撫でる。
「なにか、俺が不安にさせてるか?」
「ううん」
木崎は弾かれたように首を振り、それから唇を噛んで俯いた。
「これは僕の問題だから。もう少し時間、ちょうだい」
「待つよ」
安心させるように、御岳は低い声で言った。
「ただ今は、あの家にもお前の居場所があるってことだけ、覚えていてくれればいい」
「うん……ありがとう」
御岳の肩に顔を埋めて、木崎が小さく息をつく。
「それって、悪い想像じゃないね」
伸ばした手で、木崎が御岳の指にそっと指を絡めた。
「嶽のそばに、居場所があるって」
「……引っ越してこなくても、いつでも来ていい。お前の仕事場にしてもいい」
木崎は唇の端を上げ、くすりと笑う。
「居心地がよくて、帰れなくなりそう」
「それなら、それでもいい」
「誘惑しないで」
笑いながら、木崎が御岳の胸を軽く押した。
御岳はその細い手首を取り、右胸の上に手のひらを当てさせる。
鼓動が、静かに伝わった。
木崎は黙ったまま、しばらくその心音を聞いている。
「離さない。約束する」
真面目な口調で言い切った御岳に、木崎の瞳が揺れた。
呼吸を数えるように間をおいて、彼がぽつりと言う。
「僕の身体が、こんなでも?」
その言葉に孤独と不安を感じ取り、御岳は木崎を抱きしめた。
「お前は、弱くなんかないって、俺は知ってる」
同じシャンプーの香りが、木崎の髪からふわりと立ちのぼる。
「お前は強いよ。そこも、好きだ」
木崎は一瞬、虚を突かれたように瞬き、それから泣き笑いのような顔になった。
「そんなこと言う人、嶽が初めて」
「本当のことだ」
彼が夜中に一人で、再発におびえながら呼吸を数え、原稿に向かっていることを御岳は知っている。
それを弱いとは、御岳には思えなかった。
御岳はそっと、木崎の背を撫でた。
彼の身体から、ゆっくりと力が抜けていくのがわかる。
「もう寝ろ。疲れただろ」
「うん……」
答える声もどこか頼りなく、ふわりとしていた。
「嶽のこと……好きになってよかった」
木崎はそれだけ言って、御岳の肩に顔を埋めた。
彼といて救われているのは、自分のほうかもしれない。
けれど御岳はそれを言葉にはせず、寄り添う身体にそっと腕を回した。
窓の外はもう静まり返っていた。
御岳は木崎を抱いたまま、目を閉じた。
胸に触れる呼吸が、ゆっくりと重なる。
その夜、御岳は久しぶりに深く眠った。




