10−16 アララト山 (16)
「そうは言っても、人間以外が人間以上の軍事力を持つ状態に危機感を感じずにはいられないぞ」
偽ウトナビシュトは音を立てて溜息をついた。ただの画像の筈なのに。
「そうは言うが、天と地の権力者は別である必用があるぞ?でないと、当面使わない宇宙の戦力を地上に転用しようと必ず言い出すからな」
「それはそうだな。一度だけ、少しだけと言いながら、成功体験を積めばもう手放すまい」
「目先の自分達の利益のみ追求するのが扇動政治家とその支持者達だ。未来への蓄えを食い潰してでも利益を得たがる我慢の出来ない奴等だからな」
ヨハンの言葉に力が無くなった。
「…それでも人間以外が人間を滅ぼそうとする懸念は拭えない…」
「我々には二重の安全装置が付いていると言ったつもりだが?まず、宗教・道徳によるチェックを行う。もし宗教の観点から、神に約束された民族が近隣の民族を虐殺する事を許容したとしても、共和制下の法律・憲法の観点からは民族差別も虐殺も許容しない。扇動政治家とその支持者達が道徳・宗教や法律を気にすると思うか?」
ヨハンも私も、思わず考え込んでしまった。ダミアン・カペルやセシリア・ストーナーに道徳を説いたとする。
『それを守らないといけないと誰が決めたのか?そんな古臭いしきたりを現在の私達が守る必要があるのか?』
と言い返されるのが関の山だ。法についてはもっと酷かろう。
『法律なぞその時々で変更するものだ』
と言い出し、皆で騒いで都合よく変更するよう要求するだろう。
「分かった。人間以外が進んだ技術、優れた軍事力を管理する事に有効性がある事を認める」
「納得はしていない様だが、とりあえず理屈として認めてくれた事には感謝する」
私としては俯くしか出来なかった。欲を優先して理不尽な言動をしていたのはエリザベスお姉様も一緒だ。彼女も扇動政治家であるラッセルの余波で踊らされた人間だった。それを私は止められなかった。私にも罪があるのではないのか…
「聖女テティス、俯く事は無い。君の中には理想とする聖人・聖女の姿があるから、現在の人々の姿に絶望してしまうのだろうが、君は君らしく生きれば良い。扇動政治家達が欲と感情論で人を弄び、世界に憎悪を振り撒くなら、君は愛と公平さと思いやりを広めれば良い」
私は苦笑いするしか無かった。
「聖人・聖女など想像する事も出来ないわ。私に分かるのは、自分がされて嬉しい事、悲しい事くらいよ」
「それで良い。人にして欲しい事をすれば、それを知った人がまた他人にそうする。そうして愛と理想が広がって行くのだ」
ヨハンは目を細めて言った
「それは救世主とその弟子の教えと思うが?」
「そうだ。救世主達は選民思想と民族差別ではなく、愛と寛容と共助を訴えた。我々はその教えを汲む者達なのだ」
「なるほど、だから聖母を偶像とし、聖女を崇拝するのか」
「そうだ。旧教の経典は家長、族長の独断を許し、公平さを欠く記述が散見される。そりゃあそうだ。選民思想なんて公平さも愛もない者の思想だ。父性の攻撃性なのだ。他方、救世主の教えはむしろ母性的だ。愛し、許し、迷える者と共に歩もうとする。もし、万物の父たる神のアベルとカインの供え物への差別を指摘し、仲裁する万物の母がいれば惨劇は避けられた筈だ。もし、ノアが自分を恥じず息子のハムの子への呪いという代償行為を咎める妻がいれば、その後の民族差別もない筈だ。我々は仲介者としての聖母を、現在、地上に降りた聖母である聖女を選び、その権威の後ろ盾となる事で、人類の争いを減らそうと言うのだ。我々がノアを名乗らないのは、我々が旧教の流れを汲むものでない事をしめしている。一方、偶像として救世主を飾らないのは、我々が神の子の子供ではない、人間の子である事を示している。」
私としてはヨハンから聞かされた聖女像と同一な事に安堵すると共に、その道程の遠さに暗澹となった。
「私一人で思いやりを広めると言うのは、迂遠な事だと思うのだけれど」
「その背中を見せれば良いのだ。他方、扇動政治家達が憎み、奪う事を広めようとする。世界はそれだけでは無い事を、僅かな灯だとしても、それを示す事が必用なのだ」
「出来る事しか出来ないけれど…」
「無理をしては続かない。出来る範囲で進めてくれれば良いのだ」
ヨハンはまだ目を細めていた。
(ふん、今は緊急事態だと言っていた癖に。その緊急事態でテティスに望まれる事は、愛と思いやりなどではない。水の魔女としての破壊力だろう。人間の真似をする機械…人間そのものの虚と実の混じった言動をするものだ。油断も隙もない)
ヨハンのその表情に、ウトナビシュトも薄く微笑した。呑気なテティスには、ヨハンの様な思慮深く用心深いパートナーが必用だ、とでも言いたげに。
直前に書き直しました。分かりづらくてすみません。明日こそ話が進みます。




