#22 彼氏の顔をするセフレ
体調を万全に整えて、土曜日の朝を迎えた。
ベッドから降りると天井に向かって全身で伸びをする。不思議と、風邪をひく前と比べて調子がいい気がした。
大和のおかげで元気になったと言っても過言ではない。
看病明けに送ってもらったあとも、大和は仕事帰りに、バイト終わりの私を迎えに来てくれて、「治りかけが肝心だから」と、コンビニで栄養のありそうなものをたくさん買って持たせてくれた。
だからここ数日は、カップラーメンや甘い菓子パンとも無縁の生活を送っている。
そのせいか身体はすっかり元気だ。それなのに、落ち着かない。
窓際のフローリングにはダークブラウンのバッグと靴。カーテンレールには、ハンガーに掛けたブラウスとテーパードパンツが揺れている。それを見ると、ますますそわそわしてしまう。
今日は一日、大和の彼女。
そうは言っても、特に変わりはないんだろうなと思う。
いつも通り過保護に扱われて、家族に「彼女の葉月」と紹介されるだけだ。ニコッと愛想良く笑っているだけでいい。
でももし、「大和のどこが好きなの?」とか「結婚は考えているの?」とか突っ込んだことを聞かれたら、どうしよう。
「優しくてかっこいいところ」、「結婚はいずれできたらいいなって思ってます」なんていうテンプレを頭の中に用意しておこうか。
大和からはゆうべ「明日、十時に迎えに行くけど具合どう?」と電話があった。
「メッセージでいいのに」と言うと「葉月の声がどうしても聞きたかったから」といつにも増して甘いことを言っていた。
いや、それ彼氏みたいだから、フライングは勘弁してよと思いながら、一瞬にやけそうになった顔を私はどうにか押さえ込んだ。
十時まであと三十分。
ヘアメイクを終えて着替えると、リビングに置かれた全身鏡の前から、おかしいくらい離れられない。
前から、後ろから、横から。何度も全身をチェックする。
髪は結んだ方がいいかな?と、片手で括って全体の雰囲気を見たりもする。それともハーフアップ?なんて、正解がわからない。
でもヘルメットをかぶるのだから、やっぱりダウンスタイルにしようと決めたところでスマホが振動した。
大和から「着いたよ」という電話だった。
外へ出ると、夏のむせ返る空気が身体を包み込んだ。アパートの横にある大きな木から蝉の声が何重にも響いている。
一歩、また一歩と、大和のもとへ近づくたびにドキドキした。
「お待たせ」
スマホから顔を上げた大和は少し目を丸くして、まるで時間が止まったように私をじっと見てきた。
「……え、なに?」
「いや……うわー、マジか。そうきたか」
大和は一度ふっと冷静な顔になると、今度は頭を抱え始めた。
私はそんな大和を、ん?と怪訝そうに見つめた。
着替え直してこようかなと思ってしまう。
大和は困った顔でチラリと視線を向けた。
「……いつもと雰囲気違うなと思って」
そんなの自分が一番わかっている。
「うん。お墓参りと大和の家族に会うから、いつもみたいな服はやめたの」
「そういう感じもすげーかわいい」
困ったような表情が抜けきらないまま、大和は笑顔になった。
私は張り詰めていたものがほどけるように、ふっと笑った。
「ありがとう」
「じいちゃんには悪ぃけど、墓参りじゃなくてこのままデート行きてーなー」
なに言ってるのよとばかりに私は笑って渡されたヘルメットを被ると、後部座席を跨いだ。
「まぁいっか。これもデートみたいなもんだし」
大和はそう言うとヘルメットを被ってグリップを握り、サイドスタンドを足で蹴り上げた。
低いエンジン音が鳴り響いて、バイクは走り出した。
おじいさんのお墓は、青梅市の梅郷という山沿いの町にあるらしい。近くにはおばあさんがひとりで住んでいる家があると、昨日の電話で教えてもらった。
行ったことのない見知らぬ土地で、会ったことのない大和の家族に会うことを想像すると、心に一本の糸が張るように緊張感がピンと音を立てる。
私にしか聞こえない音だけど、大和には聞こえたようだった。
「緊張してる?」
信号待ち。大和が後ろを少し振り向いた。
「少しね」
「俺がちゃんとフォローするから肩の力抜けよ」
まるで本当の彼氏みたいなことを言って、大和は腰に回された私の手に片手をぐっと重ねた。
そんなことされたら別の意味で余計に緊張してしまう。
「葉月なら気に入られるって」
「彼氏みたいなこと言わないで」
「今日は彼氏だろ」
「……信号、青」
教えると、大和は前を向いて静かに発進させた。
しばらく走っていると、目に飛び込んでくる景色が賑やかな街並みから落ち着いた郊外へ変わり、やがて自然の多い景色へと変わっていった。
交通量の少ない、静かな片側一車線の道路。左右には住宅がちらほらと並び、目の前には青空と緑の山が広がっている。
都内で見かける高いビルやマンションも、チェーンの飲食店もない。ドラッグストアとスーパーが時折あるくらいだった。
「そろそろ着くぞ」
一時間くらい走ったところで、大和がちらりと後ろを振り向いて少し声を張る。
私は、いよいよかと静かに深呼吸した。
道路から細い小道に入り、道なりに進んでいくと、急な坂道にさしかかった。坂を登り切ると、花と芝生に囲まれた広い庭と、昔ながらの平屋が息を潜めるみたいに佇んでいた。
玄関先にバイクを停める。
私はヘルメットを脱ぐと、前髪を直しながら辺りを見回して、最後は家を眺めた。
瓦の屋根に横幅のある外観。縁側と玄関の引き戸が珍しくて、見ているだけで温かみを感じる家だった。
「大きいお家だね」
大和はヘルメットを脱いで息をついた。
「ああ、田舎だからな。昔よく遊びにきた。降りていいぞ」
「へぇ……」と相槌を打ちながら、バイクを降りると、ガラガラッと玄関が開いた。
白髪混じりの髪をした、背の低い女の人が出てきた。
「大和ー!あんた来てくれたとね」
「おお、ばあちゃん久しぶり。来るに決まってんだろ」
「元気だったと?相変わらずいい男たいねぇ」
初対面で聞き慣れない言葉を立て続けに耳にして私が固まっているというのに、大和は嬉しそうに笑ってバイクを降りた。
大和が紹介してくれるのか、私からアクションを起こすべきなのかわからずにいると、おばあさんの、目尻の垂れた優しい目が私に向いた。
「あら、どちらさんね」
柔らかい物言いなのにピリッと緊張感が走った。
「彼女の葉月。ばあちゃんに紹介したくて連れてきた」
大和が息を吐くみたいにサラリと言った。
「こんにちは。初めまして。葉月です」
できるだけ平然を装って、私はぺこりと頭を下げた。
「あらぁ、やーらしか子かねぇ」
意味がわからず言葉に詰まっていると、隣で大和がクスッと笑った。
「可愛い子だねってさ。ちなみに九州弁」
「あ……ありがとうございます」
ようやく息がつけたように私は笑った。
「あんた彼女おったとね」
「ああ、まあね。それよりばあちゃん、標準語で頼むよ」
「あーごめんごめん。嬉しいとつい故郷の訛りがでちゃってね。それより中に入った入った。あんたの親も来てるよ」
「おー」
大和は軽く返事をしたけど、私は緊張でどうにかなりそうだった。
大和のご両親。玄関をあがって左側にある、おばあさんが入っていったあの古びた襖の向こうで待っているのだろうかと思うと背筋が伸びる。
玄関の中へ入ろうとすると、背中で低いエンジン音を聞いた。振り向くと黒のSUVが庭に入ってきた。
「あ。兄貴だ」
大和の呟いた言葉にドキンと心臓が跳ねた。
車は芝生を避けた庭の隅に駐車され、エンジンが止まると、運転席と助手席からモデルみたいな男女が降りてきた。その姿に、思わず目を見張った。
「よお、大和。久しぶり。二年ぶりか?」
落ち着いた低い声で言いながら、ゆっくりこちらへ向かって歩いてくる。
すらりとした長身。黒髪のオールバックに、無精髭を生やした浅黒い肌。それなのに清潔感が溢れていた。遠目からでもわかる整った顔立ちはイケメンという言葉では言い足りないもので、大和の色気に勝る色気を放っていた。
この人が大和に美味しい料理と優しさを仕込んだ噂の兄貴……と息をのんだのも束の間。
隣には洗練された女の人。
センター分けされたダークブラウンの長い髪は緩く巻かれていて切れ長の目が印象的だった。センタープレスの効いたパンツが、スレンダーなスタイルによく似合っている。まるでファッション雑誌から飛び出してきた売れっ子モデルみたい。
「ああ、兄貴。久しぶり。静華さんも。ご無沙汰です」
二人が一歩、また一歩と近づいてくる。近くで見ると美の圧が強すぎて口が開かない。
こんな二人を前にして怯みもしない大和の目はきっとただの飾りだ。
「大和くん。相変わらず爽やかでかっこいいね。地黒のむさ苦しい和臣とは大違い」
「悪かったな」
イケメンを超越した男をイジることを唯一許されたモデル級の美女は、私を見るなり柔らかく笑った。
「ねぇ、もしかして大和くんの彼女?」
「そう。葉月。大学三年生。葉月、兄貴と奥さんの静華さん」
大和にそう紹介されて、私は小さく頭を下げた。
「初めまして。葉月です」
「可愛いー。お似合いの二人ね」
薄い唇をきゅっと上げて笑う静華さんは、見た目よりもずっと素朴そうな人だった。
「大和ー。お前もいっちょ前に彼女いるのかー。しかもこんな可愛い子ー」
和臣さんは大和の首に腕を回し、後頭部をわしゃわしゃと乱した。
「ちょっ、やめろよ兄貴!」
口では嫌がっているのに大和はどこか嬉しそうだった。普段見る落ち着いた顔と違い、弟らしい一面を見た気がした。
「お、スーフォア。まだ乗ってるんだな」
和臣さんは大和を離すと、懐かしそうにバイクを眺めた。
「ああ。気に入ってるから」
和臣さんはバイクの前にしゃがみ込み、タンクを撫でるとふっと笑った。
「相変わらず全然いじってねーな」
「……兄貴が乗ってたままが一番いいかなって」
大和はどこか照れくさそうだ。
「なんだよ。兄貴大好きか?」
和臣さんが茶化すように笑った。
「そんなんじゃねーよ」
虚勢を張っても「兄貴大好き!」の気持ちが垂れ流れていた。
「ほんと懐かしいわね。よくここに乗ったっけ」
静華さんまでバイクに歩み寄って、後部座席のシートに手を置いた。
和臣さんと静華さんは目を合わせ微笑み合った。
「鼻垂らしてた大和が、今じゃ彼女を後ろに乗せて走ってるなんてな」
「うるせーよ」
和臣さんの軽い冷やかしを大和はムッと言い返した。
「危ない乗り方してないだろうな?」
和臣さんが立ち上がって心配そうに聞く。
「ああ。無事故無違反だよ」
大和がうんざりした顔で返すと、玄関の奥の襖が開いた。
「あれあれ、和臣と静華さんも来てくれんさったとね。じいさん喜ぶばい」
おばあさんがよたよた歩きながら、また顔を出した。
「ばあちゃん、久しぶり」
「こんにちは。お久しぶりです」
和臣さんと静華さんが挨拶する。
「まぁ、あんたたちゃ相変わらずよか男とよか女たいねぇ」
「いやいや、そがんこつなかばい」
照れ笑う和臣さんが、慣れたように訛りを口にした。
「ほらほら、いつまで外におるとね。みんな上がりんしゃい」
喜びを抑えきれないおばあさんに促され、今度こそ玄関の中へ入った。
心の中で身構える私は、まるでリングに上がったボクサーみたいだ。
よく見ると広い玄関の土間には、靴が何足も履き揃えられていた。
「親父とおかんも来てる?」
和臣さんが聞くとおばあさんは深く頷いた。
「来とる来とる。あんたちに会えるて、首ば長うして待っとるよ」
その言葉に思わず緊張して、手が自然と胸元へ。
するとその手を大和が握って、すっと下ろした。
驚いて大和を見ると、口元に小さな笑みを浮かべ、大丈夫と励ます優しい眼差しをくれた。
フォローすると言っていたけど、こんなに甘いフォローだとは聞いていない。
セフレの関係だけでは見れない一面を見て、私は早くもリングに沈んだ。




