#21 お手上げなセフレ
夏の夜風が肌を滑る。
すっかり調子が戻った身体に、それは心地よく感じられた。
途中、大和がタバコを買うのにコンビニに寄り、私はバイクから降りて外で待っていた。
星のない暗い空を見上げ、大和とどっぷり過ごしたこの一日半のことを振り返った。
黒の絵の具で塗りつぶしたこの空の色みたいに、すごく濃密な時間だった。
身体だけじゃなく、心まで大和を近くに感じた。
家族でもない。昔からの友達でもない。恋人でもない。ただ数ヶ月前に出会った身体だけの関係の相手。こんなに良くされるなんて思ってもみなかった。
大和のことが好きかもしれない。
それは熱のせいでも、おいしい手料理のせいでもない。冷静な気持ちでそう思える。
空に光はないけれど、私の心には光が点った気がした。
しばらくして大和が戻ってきて、バイクに跨ると、夜の街を駆け抜けた。
たった一日半ぶりに見るアパートは、ひどく懐かしく思えた。
三年住んでいる私の小さな城。見ただけでほっとする。
でも大和と離れるのは、何だか名残惜しい気がした。
「看病してくれて、本当にありがとう」
バイクから降りてヘルメットを脱ぐ。
大和もヘルメットを脱いで髪を軽く振ると、私を見た。
「無理すんなよ。治りがけなんだから」
「うん。でも大和の料理でパワーついたよ」
大和は嬉しそうに小さく笑い、「あ、そうだ……」と思い出したように呟いて、ヘルメットをミラーに引っ掛けると、胸元に回されたボディバッグからガサガサと音を立てて何かを取り出した。白い袋だった。
「これ食えよ。栄養になると思うから」
抱えていたヘルメットを大和に渡して、物々交換のように袋を受け取った。
中を覗くと、バナナとプロセスチーズとゆで卵とパウチの焼き魚が入っていた。
どうしたのこれ?という目で大和を見つめると、大和は優しい眼差しをくれた。
「さっきのコンビニで買った。それ食ってしっかり治せ」
まだ続いてる看病。私のことを気にかけてカゴに入れたと思うと、胸の底から愛おしいという気持ちが湧いてきてしまった。
嬉しいのにぎこちない笑みがこぼれた。両手で抱えきれないような大きな愛情を感じて、戸惑いを隠せない。
「困ったみたいに笑うなよ」
大和が見透かすように笑う。
「だって……こんなにしてもらっていいのかなって」
「べつに大したことじゃねーだろ」
大したことだ。これを大したことと言わず、なんと言うのだ。全人類の女が惚れるレベルの愛情だ。
「俺がしたくてしてることだから気にすんなよ」
大和はいつものように笑うと、ヘルメットを被ってシールドをあげた。
「じゃあわりーけど、土曜日、彼女役頼むな」
エンジンをかけると、低いエンジン音が夜の静けさに響いた。
「うん。任せて。借りはきっちり返すから」
「心強ぇーな。期待してる」
シャッと音を立ててシールドを下ろすと、大和は片手を上げて走り去っていった。
部屋へ入ると懐かしさを感じる間もなく、荷物を置いて速攻でバスルームへ。
汗をかいた身体を濡れたタオルで拭いたとはいえ、シャワーほどの爽快感はなく、早く熱いお湯を身体中に浴びたかった。
レバーを捻り、ヘッドから吹き出したぬるま湯を顔からかぶった。髪が濡れ、肌を伝った雫が次々と滴り落ちていく。水温が徐々に熱くなっていくにつれ、身体に残った汗や疲れも少しずつ流れていくようだった。
ボディソープをネットでもこもこに泡立てて、丹念に身体を洗い、顔も髪も洗う。
そしてバスルームの床を激しく叩きつける水音を聞きながら、ふと大和との約束について考えた。無音の世界でぼうっと考えるより、このくらい音があるほうがいい。
胸の高鳴りに押されてあっさりと彼女役を承諾してしまったけど、それはセフレとして脱線ではないだろうか。いや、もう献身的に看病してもらって、今更なのだけど。
偽りの関係とはいえ、大和の家族に紹介され、大和の人生の一部を見ることになる。
本当の彼女でさえ恋人の家族に紹介してもらえるかもわからないのに、セフレから彼女に飛び級し、家族との行事に参加する。
とんでもないシンデレラストーリーにため息が出た。
二日振りに戻った日常。
バイトに行くためにメイクをして髪を緩く巻いてMuseの服を着て、十時ぴったりにアパートを出た。
今日の服はノースリーブのミニ丈のワンピース。大和が見たらきっと「風邪ぶり返す。布面積増やせ」なんて言われそうな服。
夏らしい、白と黒のバイカラーの生地。ウエストはキュッと締まっているけど、裾に向かって広がるフレアスカートが歩くたび、風にさらりと揺れる。
今朝は、ゆうべ大和にもらったバナナとゆで卵とチーズを食べてきた。いつもは朝食は抜くか、甘い菓子パンで済ませるのだけど、せっかくだから大和の優しさを味わった。
そしたら大和から『体調どう?無茶すんなよ』とメッセージが届き、重度の看病に苦笑いを浮かべると、『何かあったら遠慮なく甘えてこいよ』と二通目のメッセージが立て続けに届いて、もうお手上げだった。
そんな朝のできごとを思い出して半笑いを浮かべながら、人が行き交う駅の構内を歩いて、十時三十二分発の山手線に乗り込んだ。
店内に入ると白を基調とした明るい空間が目の前に広がった。軽快なBGMが流れ、すでに何人かのお客様が商品を見ていた。
「葉月ちゃん。おはよう。もう大丈夫なの?」
レジの横で検品をしていた店長が、私の挨拶よりも先に声をかけてくれた。笑顔に纏ったどぎつい華やかな香りは、半径二メートルほどの距離にいる私のところまでふわりと侵食してきた。
「おはようございます。はい、すっかり元気です。ご心配おかけしました」
「よかった。無理しないでね」
そう言って、検品していた商品を手に、店長はバックヤードへ入っていく。
「はい」と返事をしたところで、お客様を見送った美羽が、ちょこちょこと早歩きでこちらに来るのが視界の端に入った。
「葉月ー!病み上がりなのに大丈夫?」
「うん。心配かけてごめんね。もうすっかり元気で、通常運転」
「よかった!大和くんのおかげだね」
「うん」と頷く間もなく美羽はニヤリと笑った。
「ゆうべも泊まったの?もしかして、大和くんのアパートから出勤してきた?」
美羽はすごく楽しそうだった。
きっと一人ではお酒もタバコも買えない、居酒屋さんでは年齢確認必須であろう幼い顔なのに、言うことだけは一丁前だった。
「ゆうべは自宅に帰って、そこから来たよ」
ツンと人差し指で美羽の額を小突くと、私はお客様のいなくなった売り場に出た。ラックのある壁沿いに歩いていく。
その後ろを美羽がちょこまかついてきた。
「えーなんだぁ。あのまま、同棲コースかと思ったぁ」
美羽の口からとんでもない言葉が飛び出して、思わず笑った。いや、私も大和の料理目当てで結婚までよぎったけど。
「なにそれ?付き合ってもいないのに?」
ラックに掛かった服の間隔を綺麗に整えながら、ふと思い出した。
「あ、そうだ。大和の家族と会う時に着る服揃えなきゃ」
独り言のように言うと、後ろのディスプレイ台に並べられていた服をたたみ直していた美羽が、目を丸くして私を振り向いた。
「え?なにそれ?」
手にはパールが散りばめられた、黒のサマーニット。
「大和、家族から見合いしろって言われてるみたいでさ。だから私を彼女ってことにして家族に紹介すれば、もう言われなくなるんじゃないかって。それで近々、おじいさんのお墓参りがあるから、彼女として一緒に来て欲しいって頼まれたの」
「えーっ!大和くんの彼女になるの!?」
美羽の顔がぱぁっと明るくなると、ニットを手にしていた両手が胸元で重なってニットがぐしゃっとなった。
私は興奮する美羽の手からそっと取り上げて、たたみ直した。
「うん。一日だけね」
「大進展!そのまま付き合っちゃったりして!」
きゃー!なんて、一人で騒いでいる美羽を、私は横目で見やって、展示されているバッグの向きを整えた。
「そんなわけないでしょ」
実は内心、少しだけ気がかりだった。
「好きかもね」と美羽に吐露してから、少なからず大和を意識している自分がいる。
だからもし、彼女役を演じたその翌日も翌々日も、私自身が〝大和の彼女〟を引きずってしまったらどうしようと。
彼氏役をする大和に魅せられでもしたら……。
「えー?だってドラマで恋人役した俳優さんたち、プライベートで付き合うことあるし~」
追い打ちをかけるような美羽の言葉に、ヒヤリとする顔を押し隠して、私は美羽の柔らかそうな両頬をむにっと軽く摘んだ。
「もう、うるさい」
美羽は不服そうな顔で「んー」と喉から声を出して返事をした。
「どんな服がいいかなぁ」
乱れた服をたたみ直したり、飾られた小物を整えながら、さりげなく商品を見回した。
露出の多い服からフォーマルな服まで揃っていてこういうときには助かる。
「そんなの、清楚感と清潔感のある服に決まってるよ。ワンピースは?」
美羽が淡いピンクで膝丈くらいのワンピースを勧めてきた。
「バイクだからパンツの方がいいかも」
「ああ。そっか。じゃあこのテーパードパンツとこのブラウスは?」
美羽はそれぞれを片手に持って、顔の高さに掲げた。
少し細身の明るいベージュのパンツと、ペプラムシルエットの淡いピンクのブラウス。
私のクローゼットにはない、きちんとした印象のものだ。
ブラウスはハートネックで前開きのデザインになっていて、そのボタンがパールになっている。
「これにブラウンのバッグや靴を合わせたら絶対可愛い!絶対、葉月に似合うよ!」
美羽は服を私の身体に当てながら熱心に言う。
いつもより品のあるお姉さんっぽい雰囲気になりそうで、私に似合うのか不安になった。
「ねえ、今、試着してみたら?店長バックヤードにいるし、お客様もいないし」
美羽がこそっと囁いて、私はその気になってしまった。
ブラウスとパンツを手に、広いフィッティングルームに入る。
円形のカーペットにオシャレなアンティーク調の小さなデスクと椅子。デスクの上にはMuseの冊子が広げられていて、白い壁にはゴールドで縁取られた額縁が飾られている。
くすんだピンクのカーテンを閉めると、ちょっとした個室だ。
着ていたワンピースを脱いで、パンツを履くと、フェイスカバーをかぶってブラウスを着た。
鏡を見ると、ブラウスの淡いピンクが、顔色も髪色も綺麗に見せてくれている気がした。
露出少なめの、いつもより品のある私。
落ち着いた印象なのに、いつもと違う自分で心はどこか落ち着かない。
この服を着て、大和の家族に紹介される。〝彼女〟として見られる。
想像するとそれは、思っていたよりも特別なことのように思えて緊張してきた。
「葉月、着れた?ブラウンのバッグと靴も持ってきたから合わせてみなよ」
カーテンの向こうから、美羽の小さな声が聞こえた。少し恥ずかしい気持ちでカーテンを開けると、美羽は笑顔になった。
「わっ!すっごく可愛い!似合ってる!」
私は照れたように笑ってみせた。
「ね、これも。早く早く」
美羽はバックヤードの方を伺いながら、ダークブラウンの小さなショルダーバッグと、ビット付きのローファーを渡してきた。
いそいそとローファーを履いて肩にバッグを下げてみた。
「え、すごく良いよ!可愛い!お嬢さんって感じ!」
美羽は顔の下で小さく拍手する。
褒められて悪い気はしない。むしろ自分でも、いいかもなんて思っている。
「大和くん、惚れ直しちゃうね!」
イタズラっぽく笑う美羽を、私は軽く睨んでからふっと笑みを浮かべた。
「じゃあ私、フロア戻るね!葉月も早くね!」
お節介なスタイリストは足早にフィッティングルームを後にした。
カーテンを閉め、改めて鏡に自分の姿を映す。
普段と違う、上品にアップデートされた私。大和が見たらどんな反応をするだろうか。
鏡に向かってニコッと笑う自分に寒気がした。
まるで彼女役を喜んでいるみたい。そうじゃない。これはあくまでお礼だ。
だから服だけで十分。バッグや靴まで新しく揃える必要はない。持っているものを合わせよう。そう思おうとしたのに。
『そのバッグと靴も服の雰囲気によく合ってる。これはまとめて買うべきだ』
頭の中で散財の悪魔が囁いた。




