#20 胃袋を掴むセフレ
目を覚ますと、蝉の声が聞こえてきた。静かなモーター音も。
その音がエアコンだと気が付くのに五秒くらいかかり、さらに、ああ、ここは大和の部屋だっけ、と気が付くのに十秒ほどかかった。
ゆっくり起き上がって背伸びをする。
「うーん!」という大して大きくもない声が、蝉の声とエアコンの音しかない静かな部屋にやたら響いた。
一人で大和の部屋にいる奇妙な状況を実感する。
熱を測ると三十六度五分。スマホを見ると十五時だった。
ふと視線を動かした先にカレンダーが見えて、昨日の日付の赤い丸が、もう過ぎたことなのにまだはっきりと主張していた。
それは痛々しい傷跡のようで見るのが辛い。
これ以上、大和に迷惑をかけたら悪いからもう帰ろうかな……とベッドを降りた。
ぶかぶかの大和の服を脱いで、着てきた服に着替える。バッグにスマホをしまおうとした時、画面が明るくなってメッセージが届いた。大和からだった。
『元気になったからって勝手に帰るなよ』
ドキリとして周りを見回したけど、もちろん大和はいない。隠しカメラでも仕掛けてあるのだろうか……とさえ疑いたくなる。
『冷蔵庫にプリンあるから食べな。それ食って大人しくしてて』
子供扱いに苦笑しながら『ありがとう』と返事を送った。
冷蔵庫を開けるとすぐわかる位置にプリンが置いてあった。ありがたく、いただくとする。
元気になった身体に染み込む甘みはオーガズムのようだった。おいしさに全身の力が抜けてしまうようだった。おまけにぷるんと柔らかい口当たりは大和の愛情のようだ。
縛らない愛。ただひたすら、私を受け止める愛。プリンみたいに柔らかい、甘い心で。
そんな愛情が本当に存在するのか。知りたくなった。
空が夕焼けに変わった頃、大和が慌てた様子で帰ってきた。
「ああ、よかった。居てくれた」
大和は肩で小さく息をつきながら、ソファに座ってスマホをいじる私を見るなり安心したような表情を浮かべた。
「おかえり」
顔を上げて笑みを浮かべると、大和は笑った。
「ただいま」
そう言って、疲れた足取りでソファへ近づくと、隣にドカッと沈むように座った。
「あーなんかいいなーこういうの」
「え?」
「朝は葉月に見送られて、帰ってからは葉月に迎えられる。すげー幸せ」
大和の口元は緩んでいて、本当に幸せを感じているようだった。
そんな大和を見ているとこっちにまでそれが伝染しそうで怖くて、私は視線を逸らした。
それでも〝誰かを見送って迎える〟、それは一人暮らしにはないシチュエーションで、安らぎを感じる。
「……なに、帰んの?熱は?」
大和は着替えた私に気づいたのか、今度は少し寂しそうな顔をした。
「三十六度五分。もう大丈夫そうだから帰る」
「まだ心配だからもう一晩泊まっていけよ」
「これ以上お世話になったら悪いよ。ベッドも占領してるし、下着も取り替えたいし」
「気にすんなよ。下着なら洗って干してやるし、なんなら俺の履けば」
「そこまでの関係じゃない」
呆れた目を向けると、大和は心底がっかりするような顔をした。
「じゃあ飯食ったら送ってく」
「え、もう帰るよ。一人で帰れるから大丈夫」
立ち上がろうとすると、大和に軽く腕を引かれてふらりと身体が傾き、大和の胸に倒れ込んでしまう。
至近距離にドキドキしながら、私は責めるように目を細めた。
「ちょっと、危ないじゃない。何すんのよ」
「一人で帰らせるなんて、俺が大丈夫じゃねーよ。病み上がりだし、もう暗くなるし、心配」
大和は真面目な顔で言う。それでいて、いつの間にか自分の胸の上で、私の両手を片手で束ねていた。
「ねぇ、離して」
「やだ」
大和は何か企むように笑った。
「離してってば。帰る。帰りたい」
離して欲しくて振りほどこうとしても、大和の手に力が込められて解けない。
「帰したくない」
そんな言葉を聞き流して、手を捻ってみるけど敵わない。
「身動き取れねーな。やりたい放題じゃん」
意地悪な目で見つめられ、ゾクッとした。
大和の空いている片手がするりと背中に入り込み、簡単にブラのホックを外した。
「えっ……ちょっと、何するの……んっ」
胸の先端を指先で摘まれ、文句が甘い吐息に変わってしまった。
「……そんな声聞いたら余計に帰したくなくなったわ。もっと聞かせて」
私の反応を楽しむかのように刺激してくる。
「んんっ……あっ……やめて」
完全に弄ばれてしまい、身体をも捩るけど無駄な抵抗で、大和を喜ばせるだけだった。
「嫌ならもっと本気で抵抗すれば?」
本当は私が嫌がっていないのを知っている言い方だった。
「ねぇ、大和っ……んっ、ふっ……」
唇も塞がれ、されるがままの状態に、不本意ながら快楽を覚えてしまう。
口の端から吐息を漏らしてキスに夢中になっていると、大和はミニスカートから伸びた足を下から上へなぞり、その指先をスカートの中へ。
敏感なところを執拗に撫で上げられ、ビクンと腰を震わせると大和は唇をふっと浮かせて挑発的に笑った。
「手、もう自由だけど。帰らねーの?」
はっとして手元を見ると、大和の手は解けていた。
「帰るんだろ? ほら、帰れば?」
大和はキスも愛撫もやめて、余裕たっぷりに笑い、逃げ道を差し出してきた。
私は視線を泳がせて、そのまま大和の胸元のシャツの生地をギュッと掴んだ。
「帰りたくなくなった……」
「ふーん。なんで?」
口にするのを躊躇ってしまう。
「……もっとしてほしいから」
「もっと?」
大和はわざと聞き返す。
「ほら。何して欲しいのか、ちゃんと言ってみ?」
身体の奥から熱がじわりと溢れ出す。
「……もっと、キスしてほしい」
消え入りそうな声でそう告げると、大和は口の片端だけを上げ、嬉しそうに笑って親指の腹で私の唇をなぞった。
「ここに?」
私は大和の目を見て小さく頷くのが精一杯だった。
それなのに大和は羞恥心を突っついてくる。
「それだけでいいの?」
口元は緩んでいるのに、視線は鋭い。私は首を横に振った。
「……大和がしたいことして欲しい」
大和は一瞬黙って、低く呟いた。
「……じゃあ、遠慮しねーわ」
そして半開きの私の唇に荒々しくキスをした。
病み上がりだということを忘れて求め合ったせいか、頭がくらりとした。
「なぁ、ほんとに帰んの?」
まだ興奮が冷め切らない身体で服を着ていると、ひと足早く着替え終わった大和が不服そうに聞いてきた。
「うん。明日はバイトもあるから」
「じゃあせめて飯食っていけよ。カップラーメンじゃ栄養とれねーだろ」
服を着る手が止まり、急にばつが悪くなって大和を見つめた。
「カップラーメンなんて食べないわよ」
「嘘つけよ。葉月んちで飯作った時、皿探しててカップラーメン大量にしまってあるの見つけた。あれじゃまたいつか体調崩すぞ」
「……ほっといてよ」
肩越しに振り向いて吐き捨てた。
小さく息をついて着替え終わると、背中に大和の気配を感じた。ふわりと片腕で抱き込まれ、もう片方の手で頭をぽんと撫でられた。
「放っておけない。うまいの作るから食ってけよ。そしたら送ってやるから」
さっきまで意地悪をして求めさせていたのに、今度は優しい声で私を求めている。
おまけに料理が上手いときたら、食べていかないわけもない。
「……わかった」
仕方ないから食べていってあげてもいいわよ、というスタンスで。
不貞腐れたように尖らせた口元は、気を抜くと呆気なく緩みそうだった。
見慣れない部屋で、寝て暮らして三度のおいしい食事付き。ついでにセックスも。まるでリゾート気分。
帰りたいなんて言ったけど、幸せが染み込んだ身体は日常にうまく戻れるだろうか。
こうなったら、やっぱりまだ調子が戻らないと言って入り浸り、リゾート気分を延長させようか。それとも大和と付き合って同棲でも始めようか。
いやいや、何、胃袋掴まれてるんだよ。正常な思考がそう突っ込んだ。
そんなことを大真面目に考えていると、目の前に引くほど見栄えのいいおいしそうな料理が運ばれてきて、頭には〝結婚〟の文字が浮上する始末。
「わぁ、なにこれ……すごい」
出てきたのはサラダやスープがついたハンバーグセット。
レストランで見かける、木製の敷板とセットになった黒鉄のプレートに、デミグラスソースをたっぷりまとったハンバーグが盛られていた。
コロッとしたニンジンとジャガイモも添えられている。
無造作に垂らされた白いクリームと、計算されたようにハンバーグの上に添えられたクレソンが芸術的だった。
洋食らしく平皿に盛られたご飯にはパラリと乾燥パセリまで飾られていた。
「デミグラス煮込みハンバーグ。昼間のデミグラスが余ってたから。少し味変えてリメイクした」
家庭料理のようでそうじゃないクオリティの高さに唖然とする。
これをものの三十分で二人分作ってしまう大和の手際の良さにも脱帽だ。
「レストランみたい」
キラキラした料理に負けないくらい目を輝かせて感動すると、大和は照れくさそうに笑って椅子に座った。
「いただきます」
自宅でカップラーメンを食べる時にはそんな言葉は出ないのに、大和が作った料理を目の前にすると自然と出てしまう。
ナイフとフォークを握ってハンバーグに刃を入れると、すっと切れていく。肉々しい断面から肉汁がじゅわっと溢れ、その一切れを口の中へ。
少し酸味のきいたデミグラスソースと、肉の甘さがめいっぱい絡み合う。
「んー。おいしい!」
プロ級の味わいに、私は目を見開いた。
この時ばかりは大和とセフレだということも、大和を好きかもという感情も忘れてしまう。
ただただ、おいしい料理に感動する食いしん坊となる。
「味も見た目も最高だね。これもお兄さん仕込み?」
そう聞きながら、また一切れ切って、今度はご飯も一緒に口へ運んだ。
「ああ。料理にはうるせーから。あと女の扱いにも」
「女の扱い?」
「好きな子は丁重に扱えって」
その一言で、大和の優しさのルーツが少し見えた気がした。
「お兄さんと歳、離れてるんだっけ?」
「八個上。結婚してて、都内のイタリアンの店でシェフしてる。昔から大人でかっこよくて、俺の憧れ」
大和はスープを静かにすすった。
「親が共働きだったから、兄貴がガキの俺の面倒見てくれて、兄貴の背中ばっかり見てきた。バイクもタバコも料理も。ちなみにあのバイクは兄貴のお下がり」
「へぇ。そうなんだ」
いつも乗らせてもらっているバイクに、兄弟の歴史があったとは。
そもそも大和の人生に、お兄さんがそこまで関わっているなんて知らなかった。
「ねぇ、じゃあなんでエンジニアしてるの?お兄さんみたいに料理の道に進めばよかったのに」
「料理は好きだけど、仕事にするほどじゃなかった。兄貴みたいにはなれねーよ」
「こんなに上手なのに?」
デミグラスソースをたっぷりつけた大きな一切れを頬張った。
「兄貴の腕には敵わねーよ。今度、店連れてってやろうか」
そんな誘いも悪くない。でも私は、首を横に振った。
大和の目が、ん?と言う。
「大和の料理がいい」
ハンバーグを切る大和の手が止まって、そのままナイフとフォークを置いた。
「マジか。あーやべぇ、嬉しすぎる」
照れたように言って片手で顔を覆う大和が、飼い主に褒められて喜ぶ犬と重なり、私はクスッと笑った。
大和はまたナイフとフォークを持つと、照れを引きづりながら話を変えた。
「は、葉月の兄弟は?」
「四個下の弟がいるよ」
「葉月、姉ちゃんなんだ。……ああ、だからか」
「なにが?」
「甘え下手のわけ。元彼だけが原因じゃなくて、お姉ちゃんだからしっかりしなきゃって思ってんだろ?」
大和は見透かしたように言う。
そう言われて、ああそうなのかな……と気がついた。
「……うん」
「俺には甘えてこいよ。甘えっぱなしでいい」
心がジンとしてしまうのを抑えた。
「そ、そうはいかないよ。今回の看病のことだって、何かお返ししなきゃって思ってる」
「はぁ?そんなもんいらねーよ」
大和はしかめっ面で突っぱねてきたが、私は引き下がらない。
「貸しは作りたくないの。何かさせて」
「しなくていいっつーの。……あ、でも」
大和は何かを考えるように目を伏せた。
「なに?」
気になって食いつき気味に身を乗り出すと、大和は遠慮がちに私を見つめ、躊躇うように口を開いた。
「……一日だけ彼女になってくんね?」
「え?」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。
「爺ちゃんの命日が近くてさ。家族で墓参りと食事会があるんだけど、俺、最近婆ちゃんや親に、見合いしろってしつこく言われてんだ。先輩に相談したら『女の子の友達を彼女ってことにして紹介すれば?』ってアドバイスもらってさ。悪いんだけど葉月、その役やってくんね?」
もっと適当なお礼を想像していた。
セックスで私がもっと積極的になるとか。大和の好きなことをしてあげるとか。いつもより長く一緒にいるとか。
それなのに、大和が求めてきたのは〝彼女になって大和の家族に紹介されること〟。
想像しただけで目眩がしそうだった。それなのに、胸が高鳴った。
「……わかった。いつ?」
「今度の土曜。サンキュ」
テーブルで交わす会話は、ベッドで交わす会話と違い、親密さと温もりに溢れていた。




