#19 罪作りなセフレ
翌朝、熱は三十七度まで下がった。
それなのに大和は難しい顔で、体温計を眺めていた。
「まだ微熱だな。油断できない」
そう言って、ベッドに横たわる私をちらりと見たあと、体温計をサイドテーブルに置いた。
「もう大丈夫だよ。自分のアパート帰りたい」
駄々をこねるような言い方になってしまった。
「心配だからダメ。もう少しここにいろ」
頭に手をポンと置かれ、優しい口調で窘められると、何も言えなくなる。
「今日、バイトは?」
「ないよ……あ!美羽!」
私はがばっと起き上がった。
「どうしよう、連絡するの忘れてた」
昨日思い出した時に連絡しておくべきだった。きっと心配している。
「そういえば、ゆうべずっと葉月のスマホ鳴ってたな」
はぁ……と肩を落としたけど、大和の引くほどの献身的な介抱のおかげで身体はずいぶん楽になった。
「ほら」と大和がテーブルの上にあったバッグを取ってくれて、私は慌ててスマホを取り出した。
美羽から心配するメッセージと電話が何件か来ていた。
「葉月」
呼ばれて、顔を上げた。
「俺、もう出かける。卵粥、朝と昼用に作ってよそっておいたから。レンジであっためて食えよ。あとは薬飲んで、大人しくしてろ」
襟付きの黒いシャツをラフに着て、黒のチノパンを合わせている大和は、昨日までとは違う出勤前の顔だった。
時計を付けたり、財布や社員証をポケットにしまったり忙しそう。
仕事終わりの顔は見たことがあるけど、仕事へ行く前の顔は初めて見る。
「誰か来ても居留守でいいから。勝手に帰んなよ。あー、そうだ、あと」
バイクの鍵を手に取って、玄関へ向かいかけた大和は、思い出したように言って振り向いた。
「何かあったり、寂しくなったら連絡してこいよ」
愛情たっぷりの眼差しを注がれると、太陽の光を浴びるよりもエネルギーがチャージされそうだった。
「大和」
「ん?」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
少しの笑みを添えて、そう言いたくなった。
大和は一瞬、意外そうに私を見つめて嬉しそうに笑った。
「いってきます」
こんなやりとりもいいものだ。
大和の姿を隠すように静かに扉は閉まったのに、私の中では別の扉が開いてしまった気がした。
コール音は二回。すぐ繋がった。
「ごめんね、美羽、心配させて。あれから大和が迎えに来てくれて、大和のアパートへ連れていかれて看病してもらってるの。熱のせいで寝ちゃって連絡できなかった。でももうだいぶ良くなった。本当にごめんね」
一呼吸も置かず、美羽に喋らせる隙も与えず、一気にまくし立てた。
すると受話口の向こうから可愛らしい安堵の吐息が聞こえた。
「なんだぁ。それならよかったぁ。今朝になっても連絡来なかったら店長に相談しようと思ってたとこ」
そう言うと美羽は、一瞬遅れて聞いてきた。
「ねぇ、待って。大和くんのアパートで看病?なにそれ、献身的!」
「うん。うちよりこっちのほうが看病しやすいからって。それに大和の職場も近いから、仕事行っても何かあればすぐ駆けつけられるって理由で連れてこられた」
「合理的ー!それに付き合ってもいないのに看病だなんて、葉月、めちゃくちゃ愛されてる!溺愛だね!」
溺愛。一昨日、すみれにも言われた言葉。
大和の思いの丈を嫌でも実感させられる言葉。
でも、不思議とあの時よりも素直に受け止められた。
「うん、そうかも。あいつ、自分の楽しみだった予定を蹴って、私を迎えに来て看病してくれたの」
「えー!それってメロドラマ!彼氏だよ!いや、彼氏でもそこまでしてくれるかわからない!」
私は心で深く頷いた。
「優しいよね、大和って」
「何度も言うけど、付き合っちゃえばいいのに」
「それは話がべつ」
私は冷静に答えた。
「大和くんに言われないの?付き合おうよって」
「前は言われてたよ。でも拒否してたら、今度は『葉月が恋愛できるまで待つ』って。一昨日告白されたばっかり」
「えー!究極のメロドラマ!」
目を輝かせている美羽の顔が浮かんだ。
「それで、葉月はどうなの?大和くんの見方、変わっちゃったんじゃない?」
「え?」
「告白されて、熱心に看病してもらって、大和好き……って感じ?きゃー!」
美羽は一人で盛り上がっていた。
おっとりとした愛らしい声なのに、相変わらず鋭い。
大和の名を呼んで、好きと呟いたことを思い出した。でもあれは、若気の至りらしからぬ、熱の至りだと思いたい。
それでも、セフレの枠は熱で溶けてしまったようだけど。
「そういえば……大和に告白された後のセックスはいつもとなんか違ったの。大和が近くに感じたり、割り切れない感情があったっていうか」
「えーなにそれ。好きって気持ちじゃない?」
美羽が食いつく。
「……ただ意識しちゃっただけ」
「あーまたはぐらかそうとしてるー。そんなこと言って、看病疲れで寝ちゃった大和くんの寝顔に思わずきゅんとして、キスしちゃったんじゃないの~?」
見透かされてドキリとした私は過剰に反応してしまう。
「ち、違うよ、あれは……!」
「え?図星?したの!?」
軽く畳み掛けられて、今度は動揺を隠せない。
「し、してないよ!大和が目を覚まして未遂!」
「……ふーん。しようとはしたんだ」
ニタリと笑った美羽の顔が見えた気がした。
「あ……」
しまった……と思っても、もう遅い。
「葉月、大和くんに〝恋〟しちゃったね!」
美羽の言葉が胸の奥でスパークする。
花火が打ち上がるような衝撃に、胸がひりひりと痛い。
「そ、そんなんじゃないよ!熱があると、人は変な行動を起こすものなの!」
「まだ誤魔化すの~?さっさと認めちゃえば楽なのに。大和くんのこと、好きなんでしょ?」
話はとうとう核心に触れ、私はすぐに言葉が出てこない。
「連絡来ないのずっと心配してたんだからね。教えなさいよー」
そう言われると弱い。
好きか嫌いか聞かれたら、好き。その間に普通があったとしても、私は……。
「……好き、かもね」
そんな私の言葉に美羽は「え!?」と甲高い声を上げた。
「葉月、ほんとに!?認めるの?」
「うん……」
どこか落ち着かない気持ちで返事をして、
「でも、まだわからないよ。やっぱりセフレとして好きだったんだって思ってすぐに心変わりするかもしれないし」
慌ててそう付け加えたけど、美羽の耳には届いてないようだった。
「わぁ、恋に目覚めた葉月が、今度は恋を認めた!大進歩!」
はしゃぐ美羽を他所に、また熱が上がってきた気がした。
美羽との電話が終わると、卵粥をレンジで温めてダイニングのテーブルで食べることにした。
昨日の残りならともかく、今朝、大和がわざわざ作ってくれたもの。
ゆうべ大和はお粥を、炊飯器ではなく鍋を火にかけて作っていた。手間も時間もかかったと思う。
それを気持ちの忙しい出勤前に、時間を割いて作ってくれたなんて、ふわっと軽い口当たりなのに、お粥に込められた気持ちは重い。
そんな大和の手料理を食べながら、大和のことが好きかもと口に出して認めたことを思い出した。
合コンを抜け出して会いに来てくれたり、接触事故に遭って飛んできてくれたり、告白してくれたり、大和のことは前から気にはなっていた。
好きの決定打を打ったのは、どう考えても今回の手厚い看病だ。
単なるセフレが、ヒーローに見えてしまった。
自分を救ってくれたヒーローに、恋をしないわけがない。
大和は風邪からだけじゃなく、恋愛を怖がる臆病な気持ちからも救ってくれるだろうか。
気がつくと茶碗の中は空っぽになっていた。
大和に言われた通り薬を飲み、ベッドに入って目を閉じた。
ガサガサとビニールが擦れる音で薄っすら目が覚めた。
ぼんやりとした視界でキッチンに見覚えのある後ろ姿を見つけると、ハッと目を見開いた。
「大和?」
「あ、悪い。起こした?」
肩越しに振り向いたのは、大和だった。
私は驚いて体を起こした。
「何してるの?仕事は?」
「昼休み。心配だから様子見に来た。調子は?」
どこまで溺愛するんだ……と呆気にとられつつも、「好き、かもね」と認めた自分の気持ちが、水の底から浮き上がる気泡みたいに湧いてきて、髪をかきあげてこちらへ近づいてくる大和を直視できない。
「元気」
目を伏せて短く返事をする。
「よかった。熱は?」
「これから計る」
大和を見ないようにサイドテーブルの体温計に手を伸ばした。
「昼飯、まだだよな?食欲は?」
「ある」
俯きながら答えて体温計を脇に挟むと、大和がベッドに手をついて身を屈め、顔を覗き込んできた。
「なぁ。なんで目ぇ合わせねーの?」
「べ、べつに」
私は素っ気なく言って顔を背けた。
「……ふーん」
少しの間の後、大和は私の顎先をグッと掴んで自分に振り向かせると、唇にそっとキスをした。
目を丸くしているうちに、すぐに唇は離れた。それなのに唇は一瞬にして熱を持った。
大和を見上げると、大和は意地悪そうに笑った。
「なんだ。ちゃんと見れるじゃん、俺のこと」
私は言葉に詰まりながらも何とか言う。
「な、何してんの。キスはお預けって言ったのに……移ったらどうするのよ」
睨みをきかせたけど大和はちっとも怯まない。
「昨日、死ぬほど我慢したから、今日はもう解禁」
脇から電子音が聞こえ、体温計を抜いて大和に渡した。
「三十六度五分か……ずいぶん下がったな」
熱はないのに身体も唇も熱い。
「オムライス作ってやるから、待ってな」
大和は何事もなかったかのように私の頭にポンと手を置くと、またキッチンの方へ歩き出した。
「え、でもお粥あるよ」
背中に投げかける。
「ああ、それだけじゃ飽きると思って。粥は俺が食うから、葉月はオムライス食いな」
大和はそう言うとまた肩越しに振り向いて、袋から出した卵のパックを片手に得意げに笑った。
「俺の得意料理。前に作ってやるって言ったろ」
その言葉で思い出した。
美羽に策略されて、大和とサンシャインでデートらしいことをした時に何気なく言われたっけ。
あの時、私はまだセフレの枠にこだわっていて、大和がむやみにその枠を払おうとしてくることを嫌がっていた。
でも今となっては、もうその枠は見る影もなくて、あの頃の気持ちに戻れる自信もない。
だから私はオムライスができあがるのを素直な気持ちで待つことにした。
私が想像していたオムライスは、チキンライスをさらりとした卵の生地で包んでケチャップをかけた平凡なもの。
それなのに、ダイニングテーブルへレストランのようにコトッと静かな音を立てて目の前に置かれたのは、まるで洋食屋さんで出てくるようなデミグラスソースに囲まれた本格的なオムライスだった。白い上品な食器によく映えている。
生地はとろとろの半熟で、ドレスのスカートのようにふわりとし、乾燥パセリが乗っていて、彩りも綺麗だった。
「わぁ、おいしそう!」
思わずそんな声がこぼれてしまった。
「これほんとに大和が作ったの?」
プロ顔負けの出来栄えに疑いたくなって、キッチンに戻った大和を振り向いた。
「他に誰かいたかよ」
大和は苦笑して、電子レンジからお粥を取り出すとテーブルに運んで椅子に座った。
「だって……すごく綺麗」
卵にはプリーツ状のひだができていて、その繊細さに見とれてしまう。
「ドレスドオムライス。兄貴が昔よく作ってくれて、ついでに教わった」
私は「へぇー」と相槌をうちながら、早く食べたくて、スプーンを握った。
「いただきます」
ふわっとした生地の裾にスプーンを入れると、チキンライスが覗いた。デミグラスソースも一緒にすくって食べると、自然と顔が綻んだ。
チキンライスも生地の卵もソースも、それぞれ違うおいしさなのに、口の中でひとつに溶けあって深い味わいに変わっていく。
「おいしい……すっごくおいしい!」
想像以上の味で、スプーンが止まらない。
そんな私を見て大和は笑った。
「よかった。それに元気そうな葉月を見れて嬉しい」
がつがつと食べていた自分が、急に恥ずかしくなった。愛おしそうに目を細める大和に、そんな姿を見られていることも。
口に運んだスプーンを静かに下ろした。
「大和。看病してくれてありがとう。ただのセフレなのに……」
「セフレの前に、俺にとっては好きな子だから」
さらりとそう言って、大和はお粥を食べた。
好きな子……たった一言なのに、心が乱れる。私はその言葉を、胸の奥で何度も反芻した。
顔が緩みそうになるのをぐっとこらえて、何も感じていませんというクールな表情を作った。
「そっか。大和と付き合ったら、どうなるんだろう」
カランと音がした。大和がスプーンをテーブルに落とした。
「あ、悪い……葉月が俺とのこと考えてくれて動揺した」
コントか、と毒づきたくなりながらオムライスを口に運んだ。
「まぁ、どうなるって……今まで以上に葉月を大事にするだけ」
「え……どんなふうに?」
胸の高鳴りを抑えられない。
「あれ?俺と恋愛する気になったの?」
からかうように笑う目は少し意地悪だった。
「そんなわけないでしょ。恋人いらない。聞いただけよ。でもどうせ大和も束縛するんでしょ」
「しねーよ。大事にするって、葉月を俺のものにすることじゃねーから」
ピクッと心が反応した。
「束縛もしない。好きなことして、好きなとこ行って、俺のことなんて忘れて楽しんでてもいい。まぁ、他の男に惚れるのは許さねーけど」
独占欲をちらりと覗かせるあたり、大和らしかった。
「葉月は我慢も遠慮もいらない。ありのままで、自由でいればいい」
大和の愛情は、束縛することではなかった。
サンタクロースはお父さんだったと聞かされた時のような衝撃だった。
「……露出した服着ても平気?」
「俺の彼女かわいいだろって自慢して歩くよ。下着や水着じゃ困るけどな」
大和が笑う。つられて私も小さく笑った。
でも胸の奥が熱くなって上手く笑えない。
「あとはあれだなー。毎日セックス三昧」
大和はイタズラっぽく笑った。
「俺と付き合う気になった?」
「なるわけないでしょ。バカ」
私は即答して、オムライスを頬張った。
人懐っこく笑う罪作りな男。
このオムライスの卵の黄身と白身を混ぜるみたいに、私の抗う気持ちと降参する気持ちをぐちゃぐちゃに混ぜてくる。
だからできるだけ何も考えずに食べた。
食べ終わると、大和は会社へ戻り、私はまた眠ることにした。




