#18 看病上手なセフレ
夢を見た。
暗い部屋で膝を抱えていたら、ノックもなしにドアが開いて、私に向かって手を伸ばす大和が現れた。
差し込む光。私は、導かれるようにその手を掴んだ。
大和が笑い、私も笑って、目の前に広がる果てしない道を二人で歩いていた。
周りには一面のひまわり畑。
大和は私のことを「好き」だの「可愛い」だの言い、歩きながらスマホで写真まで撮り始めた。
私は「やめてよ」と言いながらもう嬉しそうに、取り留めのないことを話しては笑っていた。
そのうち私の大嫌いな蜘蛛が道にはびこって、大和が私を背負って、歩き始めた。
私が「ありがとう」と言うと、大和は静かに笑って「俺がいるよ」と言った。
目を覚ますと、静かな部屋でコトコトと音が聞こえてきた。
ぼんやりしたまま目だけを動かして音を探すと、音の出どころはどうやらキッチンで、何かを煮込む鍋と蓋が小さくぶつかり合う音だと気がついた。
キッチンに大和が立っている。その後ろ姿はなんだか頼もしく見えた。
窓の外は夕暮れに染まっている。それなのに、額に乗せられたタオルはひんやり冷たくて、きっと何度か取り替えてくれたのだと簡単に察しがついた。
冷たいままのタオルに愛情を感じる。
そのせいか、熱のせいか、境界線がぼやけてきた。
「好き……大和……」
思わず唇からこぼれてしまった蚊の鳴くような声は、大和に届かなかったようで、大和は振り向かなかった。
よかった……と思った矢先、振り向いて目が合った。
「おお、起きたか。よく寝てたな。今、俺の名前呼んだ?」
ドキッとした。
近づいてくる大和に、慌てて首を横に振った。
「そっか。好き、大和って聞こえた気がしたけどやっぱ気のせいか」
大和が残念そうな声で言う。私は、チラリとさえも大和の顔を見れない。
「寝言でもいいから聞きてーけどな」
からかうように笑ってサイドテーブルに置かれた体温計を差し出してきた。
「熱。また計ってみな」
目を合わせられないまま受け取ると、私は身体をモゾモゾと動かして体温計を脇の下へ入れた。
「少しくらい下がってるといいな」
大和はそう言って私の額からタオルを取ると、身を屈め、自分の前髪をかき上げて、額を私の額に当ててきた。
身体中の熱が、顔に集まった気がした。
「まだ熱いか」
あんたのせいよ……という言葉が喉まで出かかった。
ピピッと体温計の電子音が鳴って、大和の額が離れていった。
うっかり、ドキドキした余韻に浸ってしまい、大和を見つめてしまった。
「なに?キスして欲しかった?する?」
大和はストンとベッドのそばにしゃがみこみ、人懐っこく笑った。
風邪をひいた飼い主を心配して様子を見に来た大型犬みたい。
そう思うと無下にできなくて、そっと手を伸ばして大和の頭を撫でた。
「看病してくれてありがとう。キスはお預け」
「犬扱いすんな」
不機嫌そうな顔になって、大和はスッと立ち上がった。
「ほら、体温計。見せてみな」
脇から取って渡すと、大和は頭をかいた。
「三十八度か。少し下がったけどまだ心配だな」
大和はサイドテーブルに体温計を置いて、布団を整えると、私の頭にポンポンと手を置いた。
気だるい身体に、このスキンシップが心地いい。
「粥食って薬飲むか」
「……食欲ない」
「少しでいいから。じゃないと薬飲めねーだろ」
「薬なんて飲まなくていいよ。寝てれば治る」
「じゃあ病院連れてく」
風邪ごときで大袈裟だ。
でも大和の目は本気だった。
「……お粥食べる」
観念してそう返事すると、大和は口元に笑みを浮かべた。
「いい子だな。用意するから待ってろ」
満足そうに言ってキッチンへ向かう大和の背中を眺めた。
もう、元には戻れそうにない想いを抱えながら。
湯気の立つお粥がトレイに乗せられて運ばれてきた。サイドテーブルに置かれると、私はのそっと上半身を起こした。
お粥をちらりと見ると、ふわふわの卵が浮かび、醤油が細い茶色のストライプ柄のように無造作にかけられて滲んでいた。
彩りで、小口切りのネギがちょこんと置かれている。
映え狙いの女子か。とツッコミたくなった。
「だし醤油かけた卵粥。うまいぞ」
大和はお粥の器とスプーンを手に取ると、私の方へ体を向けるようにしてベッドの縁に座った。
そのままスプーンで熱々のお粥をすくい、フーッと息をふきかけたところで、まさか……と嫌な予感がした。
「ほら、あーん」
大和は、スプーンを私の口元に差し出した。
ああやっぱり。私は照れる顔を隠すように、うんざりした目で大和を見つめた。
「……なにそれ」
本当のところ、食べさせてもらっても悪くはない。
でもそんなこと、恥ずかしいではないか。
いや、そもそも、なんだ?「あーん」て。
幼い子供でも、恋人でもあるまいし……。
距離感、普通におかしい。
「一人で食べられる」
「知ってる。でも食わねーだろ」
大和は言うことがいちいちごもっともだ。
「セフレってこと忘れないで」
「まだそんなこと言ってんのかよ。今は病人と看護人だ」
そう言い切られても釈然としない。
スプーンを前に口を開かずにいると、
「……じゃあ口移しで食べさせる」
スプーンがくるりと向きを変え、大和の口の方へ。
私は慌てて口を開いた。
「わ、わかった、食べさせてもらう……」
声がしぼんでいく。
「言うこと聞いていい子だなー葉月は」
大和はご機嫌な様子で、お粥がのったスプーンをまた私に向けた。
口を小さく開いてお粥を含むと、舌の上に広がる旨みに少し目を見開いた。
「ん……おいしい……」
卵とだし醤油の甘みが絡んだ、柔らかくふやけたご飯が、するりと喉を通っていった。
「だろ?よかった」
大和は嬉しそうに笑い、二口目も三口目もフーッと息を吹きかけて差し出した。
身体が温まるより先に、胸がじんわりと温まっていった気がした。
結局、お粥をぺろりと食べてしまった私は、大和を喜ばせることとなった。
シンプルなのにお世辞抜きにおいしくて、普段、カップラーメンや外食で生きている私には、お粥といえど贅沢な栄養となった。
それでもまだ少しぞくぞくする身体で、大和が常備していた市販の風邪薬を飲んで布団に入ると、大和がひんやりしたタオルを用意してくれて、額に乗せてくれた。
それだけでは安心できないのか、大和はタオルを軽く押し付けるようにして手を添えている。
額とタオルが密着してひどく気持ちよかった。
ブーッとスマホが振動する音が聞こえてきた。
それでハッとした。美羽かもしれない。
「心配だから家に着いたら連絡して!」と言われているのに、まだしていない。
心配してあっちから連絡してきたのかも。
そう思っていたら、振動していたのはジーパンのポケットに入った大和のスマホで、大和はタオルを押さえながらもう片方の手で電話に出た。
「大和ー、今日のイベントどうだったー?行けなかった俺に詳細教えろ~」
男の人のそんな声が聞こえた。
今日のイベント……。
ふと、私の目は、赤い丸が書かれたカレンダーに向いた。
「あー気が変わって行ってない」
「は?お前すげー楽しみにしてたじゃん!」
「そうだっけ」
そう言って大和は立ち上がって私のそばから離れた。
あえなく、電話の相手の声が聞こえなくなった。
急に、私の心は穏やかではなくなった。
電話を終えて戻ってきた大和は「悪い」と軽く謝ると、また座り直してタオルに手を添えた。
私は胸に引っかかっていたことを聞いた。
「今日、何か予定があったの?」
「あー……まあな」
大和は言いたくなさそうに返事した。
「大事な予定?カレンダーのあの赤い丸と関係ある?」
「……ああ、バイクのイベント。有名ショップのカスタム車が見られるから楽しみにしてただけ」
大したことじゃないみたいに言う。
でもカレンダーに赤い丸をしていたら、その説得力はない。
ワクワクした気持ちで赤く丸を書いて、指折り待っていたのではないだろうか。
そんな大和の姿を想像すると、胸がひりひり痛んだ。
「行けばよかったのに」
「熱出してる葉月放って行けるかよ」
私は「迎えに来て」とも「看病して」とも頼んでいない。
でも私からメッセージを送った。
事の発端を作ったのは私なのではないか。そう思うと顔が曇ってしまう。
「私があんなメッセージ送らなかったら、大和は楽しみにしてた予定を蹴ることはしなかったよね」
「そんな顔するなよ。俺が勝手にやったことだろ。葉月が責任感じることねーよ」
優しさが胸に沁みて痛い。
「ねぇ、大和……」
「ん?」
「なんでそんなに優しくしてくれるの?」
「なんでって……」
当たり前のこと聞くなよ。という顔をしていた。
「葉月のこと好きだから」
「好きにしたって、限度があるよ。楽しみにしてた予定をすっぽかすなんて」
「葉月と会えること以上に楽しい予定なんてねーよ。そう思えるくらい、好きなんだよ」
さらっと特大の愛をぶち込まれて、不覚にも、きゅんとしてしまった。
「なんでそんなに私のことが好きなの」
「そうだなぁ……顔が可愛くて、細いのに出てるとこ出てて、エロい女子大生だから」
大和がふざけたことを言って笑う。
「はぁ?変態エンジニア。もう寝るからあっち行って」
シッシッと虫を払うジェスチャーをした。
「冗談だよ。まぁ冗談でもねーけど」
小さく笑って、真面目な顔になった。
「葉月は俺に、何も求めてこないだろ。会いたいとも言わない。甘えてもこない。むしろ俺が優しくすると煙たがったり、ちょっと困った顔してさ」
「だってセフレだもん……」
「セフレじゃなかったら?恋人だったら甘えられる?」
「……そりゃ恋人なら、会いたいって言うし、いろいろ甘えるでしょ……」
そう答えながら、どうだろうと考えた。
元彼との最初の一年は恋人らしい付き合いをしていたけど、それ以降は顔色を伺ったり、甘えたくても遠慮や我慢をしていた。
素直に何かを求める付き合い方なんて忘れてしまったかも。何が愛情なのかも。
「まぁ、迷惑にならない程度に……」
「恋人に甘えられて何が迷惑だよ」
大和が呆れたように言った。
「葉月って、甘えたり愛されるのに慣れてねーだろ。そういうとこ見てたら放っておけなかった。だからさ、こいつ、俺が大事にしたいって思った」
大和の愛情の理由を初めて知った。
柔らかい大和の心と、そうじゃない私の心。
大和が優しいクッションになって受け止めてくれるから、私は取り繕わない自分でいられるのかもしれない。
それなのに、そんな大和の愛情をすぐには受け取れない気がした。
「甘えるのも愛されるのも怖い……」
こぼすつもりはなかったのに、ついぽろりとこぼれてしまった。きっと、熱のせいだ。
「怖くねーよ」
大和の目は思わず息をのむほど真剣だった。
自分の愛情は怖いものではないと、安心させるように私を見つめている。
その目をもっと見つめていたいのに、どっと眠気が押し寄せる。
「俺が証明していくから。お前はとりあえず、もう寝とけ」
穏やかな声音に導かれるように、私は静かに目を閉じた。
ふと目が覚めると、部屋の窓はまだ開いていて外は薄暗く、視界の端だけがぼんやり明るかった。
見ると、サイドテーブルの小さなライトが、眠る前には付いていなかったオレンジ色の灯りを放っている。
おまけに、さっきはなかった水の入ったグラスと、小さなメモ用紙が一枚置かれていた。
むくっと身体を起こすと、気怠さや寒気は消えていた。その代わりに、汗をかいていて気持ち悪い。
メモに目を落とすと、クスッと笑みがこぼれた。
〝何かあったら遠慮なく起こせよ〟そう走り書きされていた。
どこまで面倒見がいいんだか。
一瞬、そんな大和が恋しくなって、探すように視線を動かした。大和はソファで眠っていた。
無性に近づきたくなった。
するりとベッドを降りた身体は、昼間の気怠さが嘘のように軽やかだった。
そっとソファへ歩み寄る。
ゆったりとした二人がけの低いソファに、大きな体が少し投げ出されていた。
めくれたTシャツの裾から腹筋が大胆にあらわになっていた。触りたいのを我慢して、めくれたのをそっと直してあげると傍にしゃがみこんだ。
セフレなのに、恋人を見るような気持ちで眺めてしまう。
私のために行動してくれて、受け取りきれないほどの優しさをくれる。
逃げても、突き放しても、追いかけてきて大切にする。
私を好きな理由さえ、温もりに満ちていた。
それらは愛情だとわかってる。頭では。
心では、わかる手前で一歩引いていたい。心でもわかってしまったら……。
無防備な唇から目が離せない。
少しだけ身を乗り出し、大和の身体に手を置くと、その唇に顔を寄せた。
わずかに体重をかけた瞬間、大和に手首を掴まれた。
「……葉月?どうした……?」
切れ長の目が細く開き、眠そうな声は色気を含んでいた。
そう聞かれて我に返った。キス、しようとした。
「べ、べつに、なにも」
慌てて身体を離そうとすると、大和に引き寄せられた。
「具合悪くなったのかと思った……よかった」
頭をぽんぽんと撫でられる。
「今、葉月の夢見てた。葉月の熱が上がりすぎて頭おかしくなって俺に迫ってきた夢」
「へ、へぇ……」
あながち夢ではなさそうで、私は思わず苦笑い。
それにしても、大和の心は寝ても覚めても私。
幸せなのか、気の毒なのか。
「具合は?」
「だいぶ落ち着いた……」
スッと大和の手が額に触れた。
「熱も下がったな。薬が効いてるだけだろうけど。とりあえず、よかったー」
大和はそう言って、大事なものを抱きしめるみたいにギュッと抱きしめてきた。
「で?本当はどうした?」
「え?べ、べつに」
大和はのそっと起き上がり、私をひょいと持ち上げると自分の足の上に乗せた。私たちは向き合う形になる。
「キスしようとした?」
ベッド脇の小さなライトが着いただけの、薄暗い部屋。イケメンの顔が霞んだけど、大和は声もいいことに気がついた。
「そ、そんなことしてない」
「ふーん」
まったくもって信じていない声で相槌をうちながら、大和は私のTシャツの中に手を入れ、指先で背中を下から上になぞった。
「んっ……」
ビクッと反応してしまう。
「……そんなかわいい反応すんなよ。シたくなる」
目の慣れた暗闇の中で見えた、余裕に欠けた瞳。大和はそう言って私を抱き寄せると、首筋に唇を落とした。
「え、ちょっと……ダメだよ……」
チュッと鳴る音がなんだかいやらしい。
もっと触れられたい。そう思って、身を委ねたくなる。
それなのに大和は、急にブレーキがかかったようにふと身体を離した。
「抵抗しろよ。これじゃ止まんねーだろ」
自分が風邪だということを一瞬忘れてしまっていた。
「ごめん……」
「治ったら、たっぷりな」
甘い声に胸の奥が疼いた。
「汗かいてんな。体拭いて着替えるか」
夜中に起こされたのにもかかわらず、大和の声は終始穏やかだった。
大和が優しければ優しいほど心が満ちて苦しい。
それではっきりした。
幸せで気の毒なのは、私の方だと。




