#17 放っておけないセフレ
大和のせいで、身体から熱が消えない。
朝からずっとそう感じていてゾッとしていた。
身体の奥がじわっと熱くて、頭が少しボーッとして、わずかに気だるい。
昨夜、大和を求めすぎたせい。大和へ揺れ動く気持ちのせい。大和の体温がまだ残っているせい。
それが全部、重なったからだと思っていたけど違ったみたいだった。美羽に指摘されるまで気づかなかった。
「葉月、顔赤いよ?熱でもあるんじゃない?」
レジカウンターの中で検品をしていると、接客から戻ってきた美羽に心配そうに声をかけられた。
「わかんない。でも朝から気だるくて」
私がそう言うと、美羽は額に向かってスッと細い手を伸ばしてきた。
「ちょっとごめん……え!熱い!熱あるよ、これ」
額だけじゃ足りないのか、頬や首にまで当てる美羽の冷たい手が気持ちいい。
ああ、こりゃ風邪だな……と、悟った。
「風邪だよ、絶対に風邪。店長に言って帰らせてもらいなよ」
「どうかした?」
騒ぎを聞いて、フロアで服を畳み直していた店長の園田美咲がやって来た。
彼女は致死量ほどの香水を付けるのが好きらしく、毎日ぷんぷんと匂いを撒き散らしているせいで本人の知らないところでは〝お花畑〟と呼ばれている。
「葉月、熱があるみたいなんです」
美羽が、プレゼントでも差し出すように私をグイッと店長に突き出した。
すると店長の腕まで伸びてきた。
整った顔立ちはまるで花のように綺麗なのだけど、気だるい意識の中で嗅ぐ彼女の香りは鼻先にとどまらず脳内を刺激してくらくらした。
「あら、ほんと。今日はもういいから、帰りなさい。タクシー呼ぼうか?」
「いえ。池袋なので近いですし、電車で帰れます」
まだ元気の残った顔を見せると、店長は開花のごとく笑みを浮かべ「気をつけてね。お大事にね」と言い、フロアに戻っていった。
「本当に大丈夫?大和くんに迎え来てもらったら?日曜日だからお家にいるんじゃない?」
大和。思い出すと余計に熱が回る気がした。
「大丈夫。一人で帰れるよ。じゃあね」
納得しない顔を浮かべている美羽を見ないようにして、従業員通路のドアへ続くバックヤードへ向かう。
「心配だからお家ついたら連絡してね!」
美羽の言葉に振り向いて手を振った。
チャンキーヒールをこつこつ鳴らしながら、従業員出入り口までの通路を歩く中、内心ほっとしていた。
恋煩いじゃなくてよかったと。発熱に感謝したのは生まれて初めてかもしれない。
だいたい煩うほど、大和のことを思っているわけではない。以前と比べると心の変化はあるものの、大和のことを思い出すのなんて二十四時間のうちのほんのわずかだ。
今日は朝起きた時、昨日の余韻から大和を思い浮かべた。そのあとバイトへ行く途中に大和のバイクに似たバイクを見かけて、大和がふと頭をよぎった。さらにそのあとナンパされて、大和の方がイケメンだなーと大和の顔を思い出した。
うわー午前中のうちだけで結構思い出してるな。自分に引いた。
「大和くんに迎えに来てもらったら?」
美羽の言葉を思い出して、バッグからスマホを出し、画面を眺めた。
べつに、迎えはいらない。
でも一応、この状況を知らせるだけ知らせておくか。今日とか明日、その気になって誘われて、空振りさせても悪いし。
セフレ相手に、そこまで気を遣う必要ないのだけど。
『熱出てバイト早退。当分キスもセックスもお預け』
ものの数秒で電話が来た。
「も──」
もしもし?と言い終わらないうちに、大和の慌てたような声が耳に届いた。
「今どこ?迎え行く」
「ルミネ出るとこ。電車で帰れるからいいよ」
「は?熱あるのに一人で帰すわけねーだろ。いつものとこ行くから待ってろよ。じゃあな」
一方的に電話は切れた。
大和を待つより電車で帰った方がきっと早い。
でもそうじゃないんだろうな。
一人で帰したくない。そんな大和の想いも、今の私のおでこみたいに熱を帯びている気がして、苦笑がこぼれた。
セックスはお預け。そこの部分には一切触れられず、大和の愛情の深さを見せられた気がした。
ルミネを出て、長い階段を下りたところにある大きな木の下。バイト終わり、大和が迎えに来る時はいつもここで待っている。
木を囲むような腰掛けが設置されていて、軽く腰を下ろせるところが気に入っている。
木陰に入ったのはいいけれど、熱が上がってきたのか寒気がしてきた。
真夏のむせかえる熱気の中にいるというのに。
行き交う人たちは皆、うだる暑さに顔をしかめて汗を拭っている。
今朝は身体が熱かったから、少しでも熱を逃がそうと、オフショルブラウスとミニスカートという薄着で来てしまった。体調不良とも発熱とも考えず、なんてバカだったのだろう。
気づけば筋肉痛のように節々も痛みだし、それなのにこんな元気印みたいな服装。項垂れた。
喧騒と蝉の声が、本格的に具合が悪くなってきた身体を痛めつける。
大丈夫、まだ大丈夫という気持ちが、気泡緩衝材をひとつひとつ指で潰すみたいにぷちぷちと少しずつ潰されていく。潰されたそこは不安の色に染まる。
不意に聞き慣れたエンジン音が聞こえてきた。
顔を上げると細い道路の向こうから一台のバイクが見えた。
グレーのパーカー、黒いTシャツ、淡いブルーの緩めのジーパン。
ヘルメット越しでもわかる。大和だ。
砂漠で見つけたオアシス。はたまた、暗闇に差し込んだ一筋の光。もしくは、絶望の中で見えた希望。
そんな言葉を並べても言い表しきれないくらいの安心感が胸にぐんと迫ってきた。
私は立ち上がり、フラフラした足取りで歩き出した。
大和は道路脇にバイクを停めてヘルメットを脱いだと思ったら、私を見つけるなりこちらへ駆け寄ってきた。
「葉月!……すげー体調悪そうだな。来てよかった」
支えるように私の腕に手を置く大和。その胸にそのまま倒れてしまいたい。
「熱っ……。想像以上だな。これ飲めよ」
大和は額に当てていた手を引っこめると、パーカーのポケットから小さなペットボトルを出した。
まだ口の付いていない冷えた水だった。
「脱水になったらこえーから」
親切にも、目の前のイケメン救護班員は蓋を開けてそっと渡してくれた。
おまけに私が寒そうに身を縮めていたからか「寒いだろ」と言い、着ていたパーカーを脱いで羽織らせてくれた。
薄手のパーカー。それなのに、ほんのり残る大和の温もりが冷えた身体を包み込んだ。
本人は当たり前のようにしているけど、水を持ってきてくれたことといい、寒さに気づいてくれたことといい、優しさが弱った心に染みていく。
「ありがとう」
素直に言うことを聞いてペットボトルを口に運んだ。
大和に来てもらえてよかったかもしれない。
一人で帰っていたら水を飲むなんて頭になかっただろう。薄着のまま、冷房の効いた車内で凍え、悪化していく症状に足をふらつかせながら帰っていたかもしれない。
熱と夏の暑さの狭間で、水とパーカーと大和のありがたみを思い知らされた。
「今日は飛ばさねーけど、しっかり掴まってろよ」
大和はそう言って、自分の腰に回された私の手をぎゅっと握ってから、バイクをゆっくり発進させた。
私はぐったり寄りかかるように、大和に身体を預けた。
夏の街を走り抜けると、生ぬるい風が露出した足を掠めていった。
パーカーのフードがはためく。その風さえ通る隙間もないくらい大和の背中に密着しているかもしれない。
脱力している身体はいつか振り落とされてしまうんじゃないかとか、熱に冒された身体はどうなってしまうんだろうとか考えていると不安になって、大和につい体を寄せてしまう。
それに応えるように、大和は時々、片手を重ねてくれた。
グローブ越しの手の平から「俺がついてるから大丈夫」という言葉が伝わってきた気がして、私は安心して目を閉じた。
意識を手放さないように、音に集中した。
車やバイクのエンジン音、風の音、セミの声。
それらが混ざりあって耳に届いてくる。ちょうどいい具合にうるさい。
信号で止まると、大和はまた手を重ねて後ろを少し振り向いた。
「葉月、大丈夫か?」
「うん」
私は目を閉じたまま、返事をした。
「もうすぐ着くから、寝るなよ」
「うん」
そう返事をするのが精一杯だった。
やがて、セミの声だけを残し、賑やかだった音が消えた。
「着いたぞ」
薄っすらと目を開けて体を起こした。
気だるい身体を目覚めさせるようにヘルメットを脱いで大きく息を吸った。すると目の前の建物を見て呆然とした。
「え……大和のアパート?なんで?」
搬送先は自宅ではなく、大和のアパートだった。
「看病しやすいと思って。降りていいぞ」
ヘルメットを脱いだ大和は、ごく当たり前のように言って促した。
ゆっくりバイクから降りた私は、まだこの状況が掴めない。
「看病って……私一人で大丈」
「放っておけるわけねーだろ」
大和は私の言葉を遮るように言い放ち、小さく息をついた。
「葉月の辛そうな顔見たら、傍にいたくなった」
私は素朴な疑問をぶつけた。
「キスもセックスもできないのに?」
「はぁ?そんなことより葉月が熱出してることの方が問題だっつーの」
大和は呆れたように言った。
大和に好かれていることは知っている。
でもここまでだとは知らず、熱でぼんやりする頭で考えながら、ちょっと衝撃。
「俺のアパートにした理由は、葉月の部屋だとどこに何があるかわかんねーから病人の葉月にいちいち聞きながら看病することになるだろ」
大和はそう言いながらヘルメットをミラーに引っ掛けてバイクから降りた。
「それに明日、俺、仕事。葉月のアパートだと何かあってもすぐに駆けつけられねーから。でもここなら職場近いから問題ねーだろ。そういうわけ」
大和がからかうように笑い、私の手を握った。
「ほら、行くぞ」
体調が悪くて抵抗する余裕もない私は、大人しく大和の部屋に連行されていく。
「反抗しない葉月も可愛いなー」
そんな呑気な軽口を言われながら。
セフレとして何度も来ている部屋なのに、今日はベッドに連れていかれる意味がまったく違う。
大和は優しくエスコートして、私をベッドの縁に座らせた。
「着替え用意するから服脱いで待ってろ」
頭にぽんと手を置き、大和は柔らかく笑う。
いやらしい意味じゃない。わかっているのに、ドキッとしてしまう。
ゆっくりとパーカーを脱ぎながら、ぼんやりと部屋を眺めた。
相変わらず綺麗で、埃一つ落ちていない。
ふと壁に飾られたカレンダーを見ると、今日の日付に赤い丸。なんだろう……と思う。
大和はクローゼットを開けてその中のチェストから丁寧に畳まれた服を取り出すと、オフショルブラウスを脱いだ私に差し出した。
「これ着てろ」
「……ありがとう」
戸惑いながら受け取る。
大和の部屋にいること自体、まだ整理できていない。自分の部屋の方が絶対に安らげるのに。でも頭がクラクラしてきて、そんなこと思っている場合ではなくなってきたけど。
渡された服を広げてみると、長袖のTシャツだった。それと長いズボン。
大和が何か探し始めた隙に、私はのそのそと着替え始めた。
スカートを脱いでブラも外し、Tシャツを頭から被って袖を通す。余った袖の先からは指先しか見えず、長い着丈はミニワンピースみたい。
「葉月、これ……」
振り向いた大和が、目を輝かせた。
「か、可愛い……体調悪くなきゃ絶対襲ってる」
私は呆れた目で大和を一瞥して、ズボンに足を通した。やっぱり長い。
「ほら、これ体温計。熱、計ってみな」
変態エロ救護班員はどこからか体温計を出してきて、ベッドの上に置いた。
計っている間に、大和は、締め切られた部屋の窓を開けた。
ふわっと風が流れ込んで、白いレースのカーテンを揺らした。遠くで喧騒が聞こえる。
寒気で気づかなかったけど、熱のこもった部屋は暑いはずだ。
「冷房、つけたら」
「震えてんのに、何言ってんだよ」
「でも……」
「俺のことは気にすんな。暑かったら半裸にでもなるから」
大和は余裕そうに笑ったが、計り終えた体温計を見てみると、
「……三十八度五分?」
その表情は、スッと真顔に変わった。
「今、タオル濡らしてくるから寝てろ」
大和は綺麗にかけられていた掛け布団をめくり、私をベッドに寝かそうとする。
「あーその前に薬か。いや、その前になんか食わなきゃか。米あったよな……いや、まずは冷やさないとだよな」
ぶつぶつと独り言を披露して私を寝かせるなり、大和はそそくさとキッチンへ。
私はベッドに沈み、大和の世話焼きっぷりに苦笑した。
他人から、こんなに世話をしてもらったのは初めてだ。恋人ならまだしも、いや、恋人でもここまでしてくれる人がいるかわからないのに、身体だけの関係の相手に甲斐甲斐しく世話を焼かれるなんて。
キッチンにいた大和が、心配そうな表情の中に少し笑みを浮かべて、タオル片手に戻ってきた。
「ほら、これおでこに乗せとけ」
冷たいタオルが額に触れた瞬間、「ん……」と声を漏らしてきゅっと目を閉じた。
「気持ちいい?」
「うん……」
熱でぼんやりした頭が、鎮まっていくように思えた。
薄っすら目を開けると、じっとこちらを見ている大和と目が合った。
「ん?」
「あ、いや……キスしてーなって思っただけ」
大和は言いにくそうに視線を泳がせた。
「はぁ?何言ってんの……寝込み襲わないでよね」
「病人襲うほど、飢えてねーよ」
「どうだか……」
私はそう言ってまた目を閉じた。
「粥作るから、その間少し寝とけ」
「うん……ありがと……」
返事をしながら、私はとうとう意識を手放した。




