#13 迫るセフレ
夏休み四日目にして、なんだかものすごく濃い夏休みを過ごしている気がする。
ソファでゴロッとハーゲンダッツのアイスを食べながら、私はこの数日のことを振り返った。
大介の告白で、私の心はもう他にあるように感じた。
もう誰のことも好きにならない、そう思っていたのに。
仕事を抜けて駆けつけ、公衆の面前にも関わらず抱きしめて心配してくれた大和に、正直なところ心を打たれた。
「自分の中で葉月の存在がでかくなってる。収拾つかないくらい」
耳の奥に残る大和の言葉が蘇る。
それは飴玉みたいに丸くて優しい形をしている甘いものなのに、素直に受け止められない。
恋愛したくない自分の気持ちと、大和のことが気になり始めた気持ちに、私は一体どう折り合いをつけたらいいのだろう。
舌の上で溶けるバニラアイスは甘くて奥深くて、それはこの三日間とよく似た濃厚さだった。
カラン、という音でハッと目を覚ました。
どうやらアイスを食べ終わったあと、そのまま眠ってしまったらしい。手に持っていた金属のスプーンがフローリングに落ちたようだ。
もう片方の手には空っぽのふやけたカップが握られていた。
時計を見ると十三時ぴったり。漫画みたいにお腹がグーッとなって、空腹に気がついた。アイスは戦力外だったらしい。
カップ麺でも食べようかな、と大きなあくびを一つして、立ち上がったところにテーブルに置かれたスマホが短く振動した。覗くと、涼香からメッセージだった。
『久しぶり!今なにしてる?私、用あって大学にいてラウンジで休憩中。もしよかったら葉月も来て♡』
最近、涼香とは会う度に〝久しぶり〟と言っている気がして、クスッと笑った。
『久しぶり!アパートにいるよ。すぐそっち行くね!』
ちょうどいい。食堂で腹ごしらえできる。
ジェラートピケのルームウェアを脱いで着替えると、ヘアメイクをさっと直して部屋を出た。
大学まで、徒歩で十八分。測ったことがある。
池袋の喧騒から少し離れた静かな通りを抜けていく。
途中、小さな公園まで差しかかると、夏を彩るようにセミが賑やかに鳴いていた。生い茂った緑の木陰を歩くと、葉の隙間から陽射しがキラリとこぼれて目を細めた。
キャンパスはいつもより人が少なくて、歩いている学生もまばらだった。
いつもなら気にならない自分の足音まで、やたら構内に響き渡った。
ラウンジで涼香と合流し、食堂へ向かう。
心なしか、涼香の服装が夏休み前よりも一層薄くなっていた。胸元が大きく開いた黒のレース仕立てのキャミワンピ。まるで下着みたいで、男なら目のやり場に困りそう。
そんな涼香といると、やっぱり目立てない。
肩が大きく開いたMuseの黒のオフショルニットも、生脚が伸びるデニムのミニスカートも、涼香の横では優等生スタイルだ。
「夏休み、どう?始まってまだ四日だけど」
涼香が生姜焼き定食の味噌汁をすすって聞いてきた。ご飯は山盛り。相変わらずよく食べる。
「充実してるよ」
私も日替わり定食(今日はアジフライ)の味噌汁をすすって早口で答えた。
「男友達にセフレがいるって話したら、なぜかそいつに告られてさ。それで私、自分が思ってたよりセフレのこと気になってるかもって気付いたの。そしたら接触事故に遭ったときもすぐ駆けつけてくれて、みんなの前で抱きしめられて。そのあとバイクで海にも行ったんだけど……夕日を見てたら、いつかセフレもいなくなっちゃうのかなって急に不安になって。そしたらセフレに、自分の中で私の存在がでかくなってるって言われてさ。それで余計に、セフレのこと気になってるって思った」
五秒くらい沈黙があって、涼香が一瞬、眉を寄せ、すぐ笑顔になった。
「……は?なにそれ、葉月の夏休み、めっちゃ恋愛ドラマじゃん!羨ましい!」
涼香はお茶碗を片手に身を乗り出してきた。
「で?そのセフレくんと、付き合うの?向こうはもう葉月に夢中って感じだし、身体の相性もわかってるし最高じゃん!」
私は浮かない顔をして、箸の先でアジフライを切り分けながらぽつりと言った。
「わかんない。恋愛っていうか、付き合うの怖いんだよね」
「あ……元彼でのトラウマ的な?」
涼香は、おそるおそる爆弾を突っつくような顔をした。
別れた当時、涼香に話すと「げーっ!無理!キモイ!そんな男とは別れて正解!」と、元彼の言動を一緒に気持ち悪がってくれた。
「うん……窮屈そうで。支配されるんじゃないかなって思ったら、怖い」
それは、面倒くさいなんて言葉では片付けられない、厄介な感情だ。
だって真っ暗な心の隅で、本気で怯えているのだから。どうしたら一歩前に進めるかわからない。
「大丈夫!普通の男はそこまで束縛しないから!元彼が異常者だったんだよ!」
涼香は口の中にご飯をたくさん頬張ったまま喋るものだから、ご飯粒が一粒飛んできた。
「あ、ごめん」なんて、長い爪先で拾っている。
「きっとさ、セフレくんは葉月のことちゃんと愛してくれるよ。真剣に考えてみなって」
〝きっと〟という言葉だけじゃ頼りない。
そんな曖昧な言葉では私の警戒心は溶けない。
それなのに、大和の優しい眼差しを思い出すと、胸の奥がくすぐったくて顔が綻んでしまう。
誤魔化すように口を開いた。
「それより、涼香の近況は?」
「んー、彼氏できた。元セフレ。懲りずにまた」
口につけた味噌汁を吹き出しそうになった。
「なにそれ、タイムリーすぎるでしょ」
「お互いフリーでさ、エッチばっかりしてたらいつの間にか彼氏彼女みたいに思えてきて、付き合っちゃう!?って、完全にノリで」
軽い。軽すぎるよ涼香。
飲み会の後の「カラオケ行っちゃう!?」みたいな、酔っていなければついていけないフットワークの軽さなみにふわりと軽い。
その軽さが羨ましくもあるけど。
「でもやっぱりセフレからの恋人はいいよ。お互いの身体は熟知してるから、セックスでの不満ないもん。下手とか趣向が合わないとか、そういう愚痴、恋人関係で結構あるじゃん?それがないのはラク。内面もある程度は知ってるし、これから知っていく面はプレゼントの箱を開けるみたいで楽しい!」
キラキラした笑顔を向けられて、恐怖心がほどけた。
溌剌とした笑顔でブランドの服を着こなし、「この服を着たらこんな笑顔になれますよ!」とアピールするモデルみたいに、涼香はセフレとの恋愛が楽しいものだとアピールしてくれた。
思いきって大和と付き合ってみるのもありかなー。
ぼんやりそう思った時、バッグの中でスマホが短く振動した。見ると、奈々未からメッセージだった。
『BBQ、今度の土曜日十時に飯能河原に集合ね!大和くん絶対連れてきてね!』
「げっ……忘れてた」
うっかり心の声を漏らすと涼香が首をかしげた。
「え、なに?」
「奈々未にバーベキューに誘われてたの。前にセフレといるところ見られて、セフレのことかっこいいって騒いでて。ただの友達って言ってあるんだけど、BBQするから誘って連れて来てって言われてる」
「あー。歩くスピーカーか」
涼香が憎たらしそうに言う。
「私、一年の頃さ。授業でたまたま席が隣になったあの子に、当時付き合ってた彼に騙されてお金取られたって話したの。そしたら、あっという間にあちこちにその話が広まってさ。発信元を探ったら奈々未だった。それ以来、私、男に騙されて金まで取られた馬鹿な女ってことになってるの。あの子のせいで散々だよ。まぁ、私以外にも被害者はたくさんいるけどね」
柔らかいメープルの水光カラコンに覆われた目が「あいつ嫌い」と言っていた。
「葉月、仲良かったっけ?」
「たまに授業で一緒になって、時々遊ぶくらいの仲。あと、私がバイトしてるショップのお得意さん」
「そうなんだ。気をつけた方がいいよ。セフレなんて知られた途端、言いふらされるから」
それは肝に銘じている。
「それにそのバーベキュー、奈々未に手を出されないように気をつけないとね。奈々未、セフレくんのことあの手この手で落としにかかるかもしれないから」
涼香は千切りされたキャベツの残骸を箸先で拾っては、口へ運ぶ。
私も、残り少ないキャベツの千切りを箸で寄せ集めた。食器と箸先がぶつかり、カチャカチャと幼い音が鳴る。
「それならそれで。どうしても付き合いたいってわけでもないし……」
わかりやすく声がしぼんでいく。
「強がり言っちゃって」
見抜かれて、ムッとなった。
「べつに私はこのままでもいいの。気楽だもん」
「ふぅん」と涼香はしかめっ面で言って、肉を頬張って飲み込むと、また笑顔になった。
「ねぇ、写真ないの?かっこいいって騒がれるセフレくん見てみたい」
「ない」という言葉が出かかって、思い出した。
海で撮った写真がある。
テーブルに無造作に置いたスマホを手に取ると、海で撮った写真を出した。
でもただのセフレ。見せる意味があるのだろうか、と一瞬悩んでから、ワクワク待っている涼香の手前、仕方なく見せた。
「海に行った時、無理やりツーショット撮られたの」
涼香の目の前にスマホを掲げると、涼香は大きな目ん玉が落ちそうなくらい目を見開いて、手で口を覆った。言葉を失っているようだった。
「……え、やば。何このTHE・イケメン!」
かろうじてそう言って、スマホから目が離せずにいる。
「大和って言うの。24歳」
私はスマホを引っ込めてまたテーブルに置いた。
「めちゃくちゃかっこいいじゃん!こんなにかっこいいなんて聞いてない!そのビジュで優しいなんて少女漫画から出てきた!?ねえ、奈々未には渡さないで、さっさと付き合って!」
私はクスクス笑った。
「少女漫画から出てきたって、涼香、大げさ」
「いやいやいや。葉月って目、悪いの?大和くん相当かっこいいからね」
目はいい方だ。
大和と会う度に、色気増し増しの艶のある黒い髪や、女が夢中になりそうな整った顔立ちが、しっかりと目に焼き付いているのだから。
「かっこいい、やばい、私が付き合いたい、生で見たい、あぁもう食欲失せた……」
涼香はすっかり空になったお皿を目の前に、虚ろな目でぼやいていた。
奈々未から連絡をもらった翌日のバイト終わり。
大和に迎えに来てもらってそのまま大和の部屋へ行き、事に及んだ。
頭の片隅にバーベキューのことがちらついて集中できず、あまり快感を得られずにいると、私の様子がいつもと違うと察した大和に「なに?他の男のこと考えてる?」と耳元で聞かれる始末。
彼氏みたいなこと言うなよ、と思いつつも答えられずにいると、それをどう受け取ったのか大和を煽ってしまったようで、私は快楽の渦に落とされて何も考えられなくなってしまった。
着替えている最中に「友達と河原でバーベキューするから大和も来て欲しいの」と思い切って切り出すと、ジーパンのファスナーを上げたところで大和は目を丸くして聞き返してきた。
「河原でバーベキュー?」
「そう。大学の友達数人と。飯能河原で。大和も誘ってって言われてて」
一足先に着替え終わった私は、乱れた髪を整えてベッドの縁に座ると、そばで着替える大和を見上げた。
「なんで俺?」
「大和が大学まで送ってくれた時、友達に大和の存在知られて。大和のこと気に入ったみたい」
「ふぅん。いつ?」
「今度の土曜」
「いいけど、急だな」
「日程は昨日決まったんだけどね、実は夏休み始まる前日に誘われてたの。でも友達との集まりにセフレを誘うのってどうなんだろうって戸惑ってて、なかなか誘えなかったの」
大和自身を否定していると思われないか、少し不安になった。
「エッチしてる時もそのことばっかり考えてた」
「ああ……なんだ、そうだったのか」
大和は気まずそうな顔で頭をかいた。
「え?」
「葉月、なんかいつもと違うから、他の男のことでも考えて抱かれてるのかと思ってイラついてつい……」
申し訳なさそうに言って大和は視線を泳がせた。そんな気はした。
「そうだとしてもべつにいいでしょ、セフレなんだから」
ツンとした言い方で突っぱねてしまう。
大和は何も言わずTシャツに袖を通してから頭を出すと、膝を立ててしゃがみこんで私と目の高さを合わせた。
「なぁ……いつまで、セフレ?」
少し首を傾げながらどこか寂しそうな目で私を真っ直ぐ見つめ、片手を伸ばして耳に髪をかけた。
触れる指先がくすぐったいのに、大和に見つめられて動けない。
そんなに突然、真正面から来ないでほしい。
私が答えられずにいると、寂しさに色付いた目に、やがて責めるような色が浮かんだ。
「俺の気持ち、見ないふりしてるだろ」
うん……、と答えるように私はゆっくり視線を逸らした。
世の中には思わず目を背けたくなるものがある。
テストの点数とか通帳の預金残高とか、大和の気持ちとか。
小さく息をつく大和を、ちらりと見る。切なそうに目を細めていた。
「俺じゃ、ダメ?」
喉の奥に言葉が詰まる。
その一方で、じゃあ付き合っちゃう?なんていう軽い言葉が出かかって、小さく開いた唇を閉じた。
涼香みたいには、やっぱりなれない。
「何?今なにか言っ」
大和がそう言いかけたところで、大和のスマホが振動した。電話だったようで、立ち上がって出ると、二言三言返して通話を切った。
電話に救われた。
「目白の取引先でトラブル。今から行ってくれって。その前に送るよ」
私はバッグを肩にかけて立ち上がった。
「じゃあ土曜日、九時頃迎えに来てね」
「ああ」
大和は物足りなさそうに笑った。
「みんなには私たちがセフレって内緒ね。ただの友達って言ってあるから……ん!」
突然、頭を抱き寄せられて唇を塞がれた。当たり前のように舌がぬるりと絡みつき、深く奥まで境界線を超えたがる。
苦しくなって大和の胸をわずかに押すと、ひとまず諦めが付いたかのように唇が離された。
「……ただの友達ね。了解」
了解なんて思っていなさそうな無表情に近い顔で大和は低く言って、玄関へ向かった。
その背中を見ていると、複雑な気持ちが芽生えてきた。




