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11/23

#11 余裕のないセフレ




一人暮らしの夏休みは予定がない限り誰にも邪魔されず寝ていられる。

カーテンの合わせ目から朝日が覗こうが、目覚まし時計の代わりのようなセミの合唱が聞こえてこようがお構いなしだ。

設定温度を二十八度にセットしたエアコンが効く快適な部屋で、夏休み二日目にして私の中の小さな悪魔が囁いた。「堕落の生活へようこそ」と。

早く起きて夏の朝日を浴びて白湯を飲んでピラティスに行って……なんていうキラキラした朝活とは無縁。そよそよと流れ落ちてくる心地いい冷気を浴びながらベッドで好き放題眠ることが私の極上の朝活と言える。

それなのに。サイドテーブルに置いたスマホが振動し始めて、うっすら目が覚めた。誰からだろう。

睡眠を妨げられてイラッとしながら手を伸ばしてスマホを眺めると、画面には〝お母さん〟の文字。


「んー……もしもし?」


「あらやだ。まだ寝てたの?もう八時よ、起きなさい」


高校生の頃、よくそう言って起こしてくれた懐かしい言葉に一瞬、胸がジンとしたけど、試験や課題、バイトや大和とのことで疲れた身体には、今の電話は煩わしいものだった。


「お母さん……なに、どうしたの。こんな朝早く……」


言い終わるやいなやあくびが出た。


「最近、葉月が連絡くれないから寂しくて。大学、もう夏休み入った?」


「うん」と言いながら薄い毛布の中でモゾモゾ動く。


「じゃあこれから晴美(ハルミ)と綾(アヤ)ちゃん誘ってランチでも行かない?綾ちゃんも今、会社の都合で少し早く夏休みに入ったらしくて、私に『おばちゃん、みんなでランチ行こうよ~』なんて言ってるの」


お母さんは楽しそうに話すけど私は正直、面倒くさいと思った。

晴美は母の三歳下の妹で、私の叔母。綾はその娘で、私とは従姉妹だ。母と晴美は同じ市内に住んでいて、姉妹仲もいい。

底抜けに明るい晴美叔母ちゃんのことは好きだけど、綾は昔からどうにも苦手だった。

五歳年上の綾はプライドが高く、マウント取りの女王で、お姉さんらしく振る舞いつつも、いつも私を見下している。

「これ彼氏に買ってもらったの~!」と私の話を遮って自慢してくることは、会えばしょっちゅうだった。

最後に会ったのはまだ私に彼氏がいた頃だったから、彼氏と別れたなんて話せば「私は大学生の頃、常に彼がいたからわからないけど、でも勉強に専念できるね!」なんて、勝ち誇った顔で言うんだろう。気が重い。それに今日は夕方から大和との予定がある。


「今日は夕方から予定があるの」


「なに?バイト?」


「違う。友達との予定」


「夕方までには終わるわよ。十時に待ち合わせて自由が丘でランチしましょ。タクシーで十分くらいのところに、素敵なフレンチのお店があるらしくて」


お母さんの声は弾んでいた。


「十時ってあと二時間しかない」


絶望的な声が出た。ゆっくり起きてのんびり支度をしながら大和とのドライブに備えようと思ったのに。


「だからさっさと起きて支度して、自由が丘駅の改札前で待ち合わせね!じゃあね」


通話は一方的に切られ、寝て起きたばかりなのにどっと疲労感に襲われた。

ぼんやり宙を眺めていた私は、気だるげに起き上がった。



夏はノースリーブやオフショル率が高い中、今日はriendaの黒のペプラムベアトップス。

大胆に肩やデコルテが開いていて、フィットとフレアを兼ね備えたシルエットが、スタイルを良く見せてくれるお気に入りの服。

ボトムスはグレーのフレアジーンズで大人っぽい雰囲気に。

お気に入りの黒のオープントゥのヒールパンプスとサンローランのバッグで、目指せいい女。


池袋から自由が丘までは、副都心線から東横線に直通する電車で約三十分。

充電をうっかりし忘れて、残り四十パーセントという呼吸が薄くなりつつあるスマホを、ハラハラしながらいじっているうちに着いた。

屋根に覆われた自由が丘駅のホームは、騒がしい池袋とは違う少し落ち着いた雰囲気があった。

改札前にお母さんたち三人の姿はまだない。

スマホをいじりながら待つことにした。充電はあと二十パーセント。


「あの、すみません」


スマホから視線を上げると、スーツを着た好青年風の若い男が立っていた。


「このへんにカフェってありません?」


男は人懐っこい笑顔を浮かべて聞いてきた。

この暑さにへばってしまったのだろうか。


「ええ。駅の近くなら、いくつかありますよ」


「よかった。じゃあ、一緒に行きません?」


「え?」


と言って、ああ……ナンパか、と気がついた。


「お姉さん可愛いから、少しでいいんで話したいなーって思って」


少しで、と言うあたり、相手の警戒心をふやかすのがうまいなーと思った。


「家族と待ち合わせしてるので……」


「葉月ー?」


お母さんの声だった。

振り向くと、お母さんと晴美叔母ちゃんと綾の姿があった。


「あんた、またそんな格好してー。髪も明るすぎ。ギャルじゃない。綾ちゃん見習いなさいよ」


綾は、淡いピンクの首の詰まったブラウスと、シフォン素材の花柄のミモレ丈スカートを合わせていた。

端正な顔立ちや肩まである艶のあるストレートの黒髪も手伝って、どこぞのお嬢さんといった感じだ。


「葉月ちゃん、ナンパされてた?」


綾の言葉に、あ……、と思い出してナンパ男を振り返ると、もういなかった。


「ナンパ、いいなぁ。そういう出会いも面白いよね。でも私、葉月ちゃんみたいに隙がないからナンパなんてされたことないんだぁ。ちょっと羨ましい」


出た出た、高飛車マウント。

遠回しに、自分は上品でしっかりしているとでも言いたいのか。


「あんたも綾ちゃんみたいな格好すればいいのに」


マウント女と服装ダメ出し女へのイライラがじわじわ溜まっていく。


「えーいいじゃん。葉月かっこいいよ、モデルみたい!」


晴美叔母ちゃんの一言で救われて、私は彼女だけに笑顔を向けた。


タクシーでレストランへ。

お喋りな晴美叔母ちゃんが一人で話し続けているうちに、自由が丘駅周辺の賑やかな通りを走っていたタクシーはいつの間にか住宅街へと入り、ゆっくりと進んでいった。

「ここですね」と運転手さんがタクシーを停める。窓の外を見ると、その店はひっそりと息を潜めるように佇んでいた。


白い外壁に、木製の大きなドア。

『お気軽なフレンチへようこそ!』と手書きで書かれ、「本日のメニュー」とおいしそうな写真が貼られた黒板が、玄関先にポツンと置いてある。

中に入るといい香りがした。こじんまりした店内は玄関先と同じで、テーブルと椅子、飾り棚があるくらいで余計なものがなく、こざっぱりしていた。女性客ばかりだった。

通されたテーブルにつくと、レモン水の入ったグラスに口をつける間もなく、綾のマウント大会が始まった。


「葉月ちゃん、彼と別れたんだってね?おばちゃんから聞いたよ。大丈夫?私は失恋したことないからわからないけど……辛いよね、きっと」


失恋したことがないという自慢話をサラリと口にして、嘘っぽい笑顔を浮かべた。


「でも葉月ちゃんならすぐにいい人見つかるよ。だって若さだけが輝いてるもん。いいなぁ。羨ましい」


全然羨ましくなさそうに言った。私より歳を食っていようとも、自分の方が経験値が上だと言わんばかりの目をしている。


「あっ、私の彼、大手企業に勤めてるんだけど、彼に言って誰か紹介してもらおうか?そしたらダブルデートとかできちゃうよね」


彼氏の自慢まで始まって、新しい男を紹介してあげようかと上から目線だ。

と思ったら、今度は私のバッグに視線を向けた。


「ねぇ、そのサンローランのバッグ。アウトレットで同じもの見たんだけど、そこで買った?私も買おうか悩んだんだけど、彼が正規店で買ってあげるよって。でも結局、ディオールのバッグにしたんだけどね」


フレンチのコースが流れ出てくるように、綾のマウントも次から次へ並べられた。


サンローランのバッグは、親からのカンパと、コツコツ貯めたバイト代で、20歳になった自分への誕生日に奮発して〝正規店〟で買いました!

……と、私はそんな言葉を21歳の大人らしく飲み込んだ。

綾の極めつけは、これ。


「葉月ちゃんにもそういう優しい彼氏ができるといいね」


まるで粘土を食べているような気になって、おいしい料理が台無しだった。



拷問という名の食事が終わり、タクシーで駅まで戻る途中に事件は起きた。

通りを走っていたタクシーが赤信号で停車した瞬間、後ろから来た乗用車が軽く追突した。

ドン!という低い音と共に、後部座席に座っていた私の身体は少し前に揺れた。突然のことに動揺していると、運転手が「皆さん、大丈夫ですか?」と声をかけてくれて、すぐに警察に電話をかけていた。

かけ終わると、申し訳なさそうに笑って「すみませんがもう少しこのままでいて下さい」と頭を下げた。


真っ先に浮かんだのは大和の顔。このあと、海へ行く予定があるのに。

スマホを開くと、時計は十四時半を示していて、充電が残り三パーセントだった。

やばっ、どうしよう……と思っている隣で、綾が誰かに電話をしていた。


「自由が丘で事故にあったの。今すぐ来てほしい。……え?そんな……わかった」


通話を切った顔は暗い。


「……彼氏?」


聞いてみると、綾はコクンと頷いた。


「会議で忙しいみたい」


私は綾の寂しそうな横顔にかける言葉が見つからず、「そっか……」とだけ言った。


その間に、タクシーはウインカーを出してゆっくりと道路の端へ寄せた。後ろから、乗用車も続いて停車する。

外に出た運転手同士が状況確認をしている間、私は充電が危ういスマホを握り、大和に素早くメッセージを打った。

『自由が丘の自由通りで事故にあったから、今日は海行けないかも。帰ったら連絡する』

送った瞬間、画面がふっと真っ暗になり、思わず「あっ」と声が出た。


それから長い時間が経ち、私たちは待ちくたびれていた。

ようやく警察が到着したのは事故に遭って一時間半が経ってからだった。

「皆さんからもお話を伺いたいので」と言われ、私たちもタクシーを降りた。

歩道の端に寄り、警察の質問に答えながら状況を説明する。といっても突然、ドン!と衝撃を受けた、としか話しようがないのだけど。


「葉月!」


聞き覚えの声に名前を呼ばれ、振り向くと、そこにいたのは大和だった。

血相を変えて私の元に走って来る。

大和がどうしてここにいるのか考えているうちに、気がつくと、私は大和の胸の中にいた。

大和は私の頭に手を回し、腰をきつく抱いた。


「よかった、無事で……」


震える声と吐息が鼓膜をなぞった。

心臓がドクドク音を立てていたけど、私のものじゃない気がした。


「大和……どうしてここに……」


大和は私の肩に手を置いて身体を離した。


「事故に遭ったって聞いたから心配で来たんだよ。電話も繋がんねーし。帰ったら連絡するって言われても、そんなの待ってられるわけねーだろ」


いつも余裕たっぷりな大和が、見るからに焦った顔をしている。

私のためにわざわざ来てくれたと思うと、思いがけない感動で瞬きを忘れてしまう。


「ごめん……スマホの充電切れちゃって。どうしてここがわかったの?」


「タクシー会社に電話して、事故の場所聞いた。会議中だったけど抜け出して。バイク飛ばしてきた」


大和はうっすら得意げに笑った。

ていうか、私たち心配する仲じゃないよね?

その言葉を飲み込んで、私は大和の気持ちに胸を震わせた。

もう二度と、誰かの気持ちで胸を震わせないよう心を押さえていたのに。


「怪我は?ない?大丈夫?」


我を忘れて距離が近いまま心配してくる大和に、私は苦笑した。


「ないよ。でもね、大和……」


「ん?」


「みんなの前だよ」


「あ……わ、悪い」


ようやく大和は、私に触れていた手を離した。


「葉月、どちらさま?」


お母さんが私と大和の顔を訝しげに交互に見ながら聞いてきた。


すっ飛んできて抱きしめたんだ。友達、なんて言っても信じてもらえそうにない。


「えっと……実は少し前から付き合ってる、彼氏なの……」


「えーっ。そうだったの?やだぁ、驚いたぁ」


間髪入れず騒ぎ出すお母さんの言葉を聞きながらちらりと大和を見ると、目が合った。

一瞬、驚いた顔を浮かべていたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。


「高瀬大和(タカセヤマト)です。初めまして」


「お母さんと、叔母さんと、従姉妹」


紹介すると、晴美叔母ちゃんが半歩前のめりになった。


「初めましてー。葉月、愛されてるわね~。おまけにイケメン!おばちゃんのタイプ!」


最後の一言は小声で。でも絶対、大和に聞こえている。そんな晴美叔母ちゃんの言葉に、大和は照れ笑いを浮かべていた。

ふと、綾を見ると俯いていた。


「綾ちゃん」


わたしの声に綾は顔を上げた。


「お互い優しい彼氏、持ったね」


私は勝ち誇った顔なんて浮かべない。ただ静かに笑って言葉で刺すだけ。

綾は笑いもしないでゆっくり顔を背けた。


「葉月、まだ間に合う。海、行けるぞ」


大和が腕時計を確認して、私を見た。


「え、ほんと?」


思わず顔が明るくなった。


「お母さん、私、もう帰ってもいいかな。大和と予定があるの」


「いいけど、警察の人に聞いてみないと」


すると母のすぐ近くにいた警察官が振り向いた。


「いいですよ。あ、でも最後に。どこか身体が痛み出したら必ず申し出て下さい」


「はい」と、私は返事をして、向こうに停めてある大和のバイクへ向かった。



大和からヘルメットを受け取る。

シートを跨ごうとした大和はふと肩越しに私を振り返り、その視線を顔から下へゆっくり落とした。

なんだろう。事故に遭ったけど無事だったことを、改めて実感しているのだろうか。意外と心配性で調子が狂う。

大和は着ていた黒いパーカーを脱ぐと、私の体にふわりとかけた。


「それ、ちゃんと着とけ」


「え?……暑いよ」


「バイクがこけて、身体に傷ついたらどうすんだ。今日はいつもより肌が出てるから心配」


私は俯いて、惜しげもなく出ている素肌を見て納得した。

ヘルメットをかぶると、大和の気持ちを受け取るように、パーカーの袖に腕を通した。でも大きくて手が出てこず、袖が余っている。なんとか袖口を手首までたくし上げて、上までファスナーをしっかり閉めた。

だいぶゆるっとしていて、大和との体の大きさの違いが露呈した。


「でも大和は怪我しちゃうじゃん」


白い半袖Tシャツ姿の大和は余裕そうに笑った。


「男は怪我してるくらいがかっこいいだろ」


キザなセリフが様になっていた。

大和はバイクに跨るとヘルメットをかぶって、エンジンをかけた。私も手慣れたように跨った。

ドルン!と低く大きな音が響き、私は大和の腰に手を回して体を寄せた。


「ちゃんと掴まってろよ」


大和はヘルメット越しに振り返った。

いつも、そう言う。

バイクはゆっくり走り出し、次第にスピードを上げた。



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