#10 甘いセフレ
講義室には学生たちがペンを走らせる音だけが響いていた。
夏休みを目前に控えた、前期の定期試験。
これを片付けないと、永遠とも思える長い夏休みはやってこない。
───大和を海へのドライブに誘った。
私にしては少し大胆だったかもしれない。
でも、大和は喜んでいたから、やっぱり私たちはウィンウィンの関係だ。
当たり前か。大和は私に好意があるんだから。
それなら〝ウィンウィンの関係〟というより〝私が大和を弄んでいる〟ということになるのだろうか。
そこまでの意識はないけれど、身近にいてバイクという移動手段もある大和を利用している気持ちは少なからずある。
誰もが振り返るイケメンだし。セックスもうまいし。いや、ドライブにセックスは関係ない。
そう思っても、私の身体を弄ぶ大和の熱っぽい指先を思い出し、試験中の身体がうっかり、ぽっと熱くなった。
〝この作品における主人公の心情を、授業で扱った内容を踏まえて二百字以内で説明しなさい〟
目の前の答案用紙に記された問いかけ。
そんなことを真面目に考えるより、大和のことを考えていたかった。
「はい。そこまで。ペンを置いてください」
教授の声が講義室に響く。
一斉にペンを置く音が重なり、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
答案用紙が速やかに回収され、夏休み前の試練が終わった。
「はい。お疲れ様でした」
教壇の上で答案用紙の束を整えた教授はそう言って微笑んだ。
その一言で、静かだった講義室がざわめき出した。
あちこちから「終わったー!」「全然できなかった!」なんて声が聞こえてくる。
私も大きく息をついて机の上のペンケースをバッグにしまった。
これで、前期の試験は全部終わり。
夏休みがやって来る。
浮かれた手つきでバッグを肩に掛けたところで、声をかけられた。
「葉月~!」
振り向くと、奈々未が男女数人の友達を引き連れて立っていた。
私の方が可愛いでしょ、と競い合うようにカラコンで大きくした目の女子たちと、いまいち垢抜けない男子たち。大和と比べると、どこか物足りなく見える。
奈々未を入れて計六人。圧を感じた。
「夏休みさぁ、みんなでバーベキューやるんだけど葉月も来てよ」
「バーベキュー?」
「そう、このメンツとそれぞれの友達誘ってやろうって話で。川沿いでさ、男女でパァーッと騒ごうと思って」
このメンツ……行きたくない。
女の子たちにはマウントを取られそうだし、男の子たちには特に興味はない。出会いも求めてない。それなのに奈々未は私の痛いところをチクッと刺してきた。
「葉月、今フリーでしょ?同じ大学の仲間と交友深めてさ、出会いの場にもなるかもしれないし」
奈々未とは何度か遊んだことがある。
口が軽いところと、男好きなところ以外、明るくていい子だ。
でも普段、大して喋ったこともない人たちと炎天下でバーベキューだなんて気乗りしない。
「私、バイトとインターンもあるから」
涼香の受け売りで言ってみる。
「そんなのみんなあるよ。でも夏休み中、毎日ってわけじゃないでしょ?息抜きもしないと」
え。みんなあるの?ちょっと焦る。
「そうだよ、橘。たまには一緒に楽しもうぜ。橘いたら華やぐと思うし」
男の一人がぽつっと口を挟むと、奈々未を含めた女の子たちの顔が、一瞬ぴくっと引きつった。
池田春希。奈々未のグループのムードメーカー。
別の学部だけど、全学部共通の必修科目で一緒になり、授業前に奈々未と騒いでいるのを何度か見かけたことがある。
そこそこかっこいいのに、奈々未が手を出さずにグループを続けているところを見ると、彼女でもいるのだろうか。どうでもいいけど。
「お願い、来てよ。絶対楽しいから」
奈々未はそう言って、少し下がっていたオフショルの袖を引き上げた。
奈々未とは服の好みも似ていて、私がバイトしている店によく買いに来てくれるお得意さんでもある。
最低でも一万円する服を、一度に三~四着さらりと親のカードで買っていく。それも月に二~三度は来店し、セール品には見向きもしないで新作だけを買い物する〝顧客様〟だ。
狙ったかのように今日着ている服も、Museのもの。オフホワイトのオフショルブラウス。華奢な身体によく似合っている。
「葉月の店、また行くからぁ。来てくれなかったら他のショップに浮気しちゃうかも」
それを言われると断りづらい。
「……わかった。じゃあ参加しようかな」
「やった!ねぇ、あのイケメンも連れてきてよ」
「は?大和?」
「大和くんて言うんだ。……超イケメンなの!」
奈々未が後ろの女の子たちに教えると、女の子たちは「キャー!」と色めき立った。
男の子たちは面白くなさそうな顔をしている。
私も不服げに奈々未を見た。
「奈々未、最初からそれが目的なんでしょ」
「まさか!葉月と久しぶりに遊びたいだけ。イケメンはついでだよ」
そんなこと言って、大和に手を出すくせに。
「じゃあ日程決まったら連絡する!またね!」
奈々未は満足げな笑顔を浮かべ、ぞろぞろと引き下がっていった。
奈々未以外、大して口も利いたことのないメンバーとのバーベキュー。
その集まりにセフレを誘い、連れていく。
私は自分の生活に大和を招き入れ、大和は私の生活に片足を突っ込むことになる。それはセフレの枠を超えている気がする。
試験が終わったのに、また気が重くなった。
でも大和と会えばそんな気持ちはすぐに散った。
「あっ……!」
声にならない声を漏らして、私は果てた。
それでも大和は、容赦なく後ろから責め立ててきた。
「ん……!あっ……大和っ……もう、やめて」
「やめねーよ?」
大和が余裕そうに笑う。いつもそうだ。
大事にしたいなんて言っておきながら、結局、手荒に抱く。
果てたというのにやめてくれず、四つん這いの私の身体を力ずくで持ち上げて、二人して膝立ちになった。
「あぁっ……!んっ」
斜め上に突き上げられる刺激に、たまらず声が出た。
果てたばかりの敏感な身体が素直に反応するさまを見て、大和は笑った。
「なんだ、嬉しそうじゃん」
倒れてしまいそうになる私の身体を、大和が支えるように手を回して垂直に保つと、私の上半身は反って胸が揺れ、あられもない姿になった。
「んっ……あっ、大和の、意地悪っ……」
「今さら気づいた?」
大和は突きながら、中指の指先で私の唇をなぞり、そのまま口の中へ滑らせた。
唇をすぼめ、音を立てて吸い付くように舐めると、大和は色っぽい吐息を漏らした。
「それ、エロい……そのままそうしてて……」
横から耳を舐められ、ゾクリとする。
絶頂の波にのまれて打ち付ける腰の動きは速くなり、私は口に指を入れられたまま満足に喘ぐこともできない。
「ん!ふっ……あっ!あぁっ……!」
体が壊れそうになるくらい求められ、やがて大和も果てた。
「海、いつ行く?」
意識はぼんやりしたまま、まだ息も整わないうちに、隣で寝そべる大和がケロリとした様子で聞いてきた。
熱を帯びた行為の余韻に、私の身体はまだぐったりしているというのに。
「海……?」
「連れてって、って言ってただろ」
そう言われて、あ……、と思い出す。
「覚えててくれたんだ」
「当たり前だろ」
これが恋人同士なら、すごく甘い瞬間なんだろうな、とぼやっと思った。
「湘南の海岸沿い走ろうかなって思ってる。走りながら見える夕焼けが綺麗なんだよ。四時半くらいに迎えにくるから」
「え、そんなプランまで考えてくれてるんだ」
私は思わず体を少し起こした。
「ああ。どっか行きたい海あった?」
驚いている私に大和も驚いて、普段は冷静な目をわずかに丸くしている。
私はうつ伏せになって肘をつき、大和を見つめた。
「ないよ。大和に任せる」
すると、大和が少し体を起こして腕を伸ばし、私の頭の後ろを抱えた。軽く引き寄せられ、唇が重なる。
一瞬だった。恋人同士がするみたいな、優しいキス。
柔らかな唇はすぐに離れ、私を見つめた大和は、何か言葉を飲み込んだように見えた。
だけど、愛しさを隠しきれていない眼差しに「好きだ」と言われたような気がした。
「……行きたい日、決まったらすぐ教えて。その日、早めに仕事、切りあげるから」
不覚にも、この瞬間が心地いいと思えた。
「……わかった」
大和の目を見つめたまま逸らせない。先に逸らしたのは大和の方だった。
「じゃあそろそろ着替えるか。送ってく」
大和は起き上がり、フローリングに脱ぎ散らかされた服を手に取って着替え始めた。
私もゆっくり起き上がる。
膨らんだ風船はいつか弾けるけど、大和の募る想いもいつか弾けるのだろうか。
男の気持ちは男に聞くのが一番だ。
そう思った私は翌日、唐突に大介を映画に誘った。
大介は喜んで誘いに乗ってくれて「すぐそっち行くわ!」と巣鴨から電車で飛んできてくれた。
大介の勧めで恋愛映画を見たけど、今の私には甘ったるすぎて、ブラックコーヒーを飲みたくなったから、映画が終わるとカフェへ向かった。
店内は狭いけれど賑やかで、際どい話も喧騒に紛れそうだと思い、私は堂々と聞いてみた。
「ねぇ、大介にセフレがいるとしてさ、」
そこまで言うと、大介は飲んでいたコーヒーを少し吹き出した。
「っは?え?」
だいぶ困惑しているようだった。
さらりと言いすぎたか。
テーブルに飛んだ大介の飛沫を紙ナプキンでさりげなく拭いてあげた。
「いや、例えばの話。大介に身体だけの関係の女の子がいるとして」
「あ、ああ」
「すごくいい関係なんだけど、その子のこと好きになったら、どうする?女の子はあくまで、セフレの関係を大事にしたがってるの」
大介はしばし呆気にとられていたが、うーん……、と考え始め、おもむろに口を開いた。
「告りたいけどきっと振られるだろ……向こうがその関係を大事にしたがってるなら。だったら黙ってそのまま関係続けるか……」
私は言葉の続きを、固唾を飲んで待った。
「いずれ自分から離れるかな」
一切れのケーキを刺したフォークを持つ手が一瞬止まり、胸の奥が微かに騒いだ。
大和が離れていく。そんなこと、思いたくない。
「つーか、なにそれ。誰の話?」
「私」
「は!?セフレがいるのかよ」
汚いものでも見るかのような顔に、ちょっと焦った。
「そんな顔しないでよ。大介にだって似たような経験、きっとあるでしょ」
「ない。そのへんはちゃんとしてるから」
きっぱり言われたせいで、自分がたらしなく感じた。
おまけに大介は、今まで同じ学年の友達という顔をしていたのに、急にお兄さんらしい真面目な顔になってしまい、なんだか話しにくい。
だから目を伏せてぽつりと聞いた。
「軽蔑した?」
「……いや、しないよ。互いに彼氏彼女がいないならいいよ。いないんだよな?」
「……うん」
まるで、できの悪い妹を心配する兄みたいに確認してくる大介に私は苦笑しながら小さく頷いた。
「あ……もしかして、それってこないだ一緒にいたあの男?ただの友達っつってた……」
大介が記憶をたぐり寄せる。
「うん。あの日は別の友達にけしかけられて、たまたま二人で買い物してて……」
そこまで話すと私は一度口を閉じた。
頭に、裸の大和が浮かぶ。
抱き合ってキスをして。清らかじゃないのに、全身が澄み切った膜で包まれている。
「あの人と身体重ねてるとね、居心地いいの。恋愛と違って楽で。もう恋愛はこりごりだから」
指でアイスコーヒーのストローを弄ぶ。
「でも、その人にね、付き合おうとか独占したいとか言われたことあって。それでよく優しくしてくれるの。迎え来てくれたり、わざわざ会いに来てくれたり、ご飯作ってくれたり。それに時々、嫉妬されたり、恋人みたいに見つめられる」
大介はいつもとは違う神妙な面持ちで、黙って聞いている。
「セフレ以上の気持ちがあるのかなって思えるの。私、どうしたらいいかわからなくて」
「それ、もう完全に好きだろ」
危うく喧騒に紛れそうになった大介の言葉が胸に刺さった。
好き。たった二文字の短い言葉なのに、相手を思う気持ちがぎっしり詰まった重い言葉。
少し息苦しくなった。
「身体だけの関係の女の子にそこまでしないよ。俺なら」
私だって薄々気づいていた。
大和が私に向ける視線も、言葉も、行動も、ただのセフレに向けるものとは違うと。
「良い奴そうじゃん。付き合ってみたら」
「彼氏はいらないの。だから身体だけの関係を望んでるのに、付き合ったら、本末転倒でしょ」
「彼氏を拒むなよ。男として切ない。恋愛もいいもんだぞ」
足を組んだ大介は軽く頬杖をついて、優しく諭すような目で言った。
「彼女と別れた男が何言ってんのよ。お兄さんヅラしないでよね」
大介は「グサッ」と言って傷ついたように胸を押さえた。
「お兄さんヅラしますー。俺の方が一個上なんだから。あー葉月が心配」
大介はそう言って、今度は額を押さえた。
「まだ21なんだから大学生らしいキラキラした楽しい恋愛してくれよー」
懇願みたいな声が耳をかすめたけど、私は冷めた目でそっぽを向いた。
「恋愛なんて無理。こわい。いらない」
「そんな怖がるもんじゃねーって。……じゃあさ、俺の彼女になってよ」
思いがけない言葉に、ゆっくりと大介に目を向けた。
「え?」
聞き間違いだと思った。
「ふざけないでよ」
「ふざけてない。真面目な告白。葉月のこと、大事にするから」
そう言った大介は、昨日、恋人にするみたいな優しいキスをしてきた大和と同じ目をしていた。
全てを受け止めて温かく包み込むような、私が戸惑いを隠せない愛情に満ちた目。
「その目……」
「え?」
「セフレと同じ……。そういう目で私を見てくるの」
大介は無意識だった自分の視線に気づくと、小さく笑った。
「じゃあどっちの視線にグッときた?俺?」
「そんなわけないでしょ」
私は即答して呆れた目で大介を見やった。
「じゃあセフレ?」
「それは……」
私はなぜか拒まなかった。
あの目にまた見つめられたい、とさえ思ってしまった。
「葉月。その気持ち、大事にしろよ」
まるで私の胸の内を知っているかのように、大介は静かに言った。
「葉月にまともな感情が芽生えて安心した。俺は潔く身を引くよ。……多分」
からかうように笑う大介の顔を見て、私は気が抜けたように笑った。
その夜、大和にメッセージを送った。
『明日、海行きたい』
スマホを握って待っていたかのように、すぐに返事が届いた。
『わかった!明日、迎えに行く!』
優しく笑う大和の顔が浮かんだ。その安心感が心に溶けて広がっていく。
私はソファに座って、スマホを持ったまましばらくその画面を眺めていた。




