30話 甘くない蜂蜜
私の名前はナズナ・フェルミエ。
ほぼ没落した伯爵家の一人娘で、なけなしのお金でルミエール女学園に入学した。
この恋愛戦争時代に、私の夢は王城書記官。借金返済のためのお金を稼ぐため、女でも男並みに稼げる仕事に就くため、入職資格を得られるこの学園の入学したのだ。
周囲はみんな地位と名誉を持つ男性に嫁ぐため、恋愛に全力。その中でも特に有力視されているのは、兄弟校のソルディス男子院の三年生であるルシアン王太子殿下である。
学生のうちに婚約者を見つけるのが一般的とされている中、今だルシアン殿下は恋のお相手を決めていない。そのため、全女子がルシアン殿下を狙って大戦争中……のはずなのに、殿下は目覚めたばかりの私に対して、なんて言った?
「おはよう、僕のハニー?」
「はい……?」
ここはルミエール女学園の医務室。消毒と薬の匂いは嫌いじゃない。
私はパジャマを着ているようだ。私が持っているパジャマよりすっごく生地がいいけどね。あげくに、あちこち包帯や湿布が貼られている。
ちょっと小首を傾げるだけで、半身に引きつるような痛みが走る。
「私は蜂蜜ではないですが?」
「僕のかわいい最愛の人ってことだよ?」
私の質問に、殿下は楽しげにクスクスと答えた。
「三日も目を覚まさなかったんだ。僕がそばにいるから、安心して休むといい」
「三日も……」
えーと……もうちょっと思い出してみよう。
私はデビューパーティーに参加していたんだよね。白衣を着て。
それでバルクロウと立食を満喫しようとしていたんだけど、アイ君が『火薬の匂いがする!』と会場に飛び込んできて。その直後に、ホールの中央のシャンデリアが落ちてきて。アネモネちゃんが怪我しそうだったから、私が助けた。それで怪我して、気絶して……今に至ると思うんだよね。
そこまで思い出したとき、タイミングよく殿下が追加情報をくれる。
「シャンデリア落下の犯人は、前にアネモネ嬢の取り巻きをしていた子だったよ。覚えているかな、きみの従者と出会ったときに、彼を狩りの練習としていじめていたやつらさ。ま、実行犯は彼女の従者なんだけどね」
その人たちならよく覚えている。
入学式のときに、渡り廊下のところでアイ君をいじめていた人たちだ。狩りだなんだと理由をつけて動物虐待を楽しむなんて、貴族の風上にもおけない人たちだと思っていたけど……私、そこまで恨まれるようなことしたっけな? 都合よく殿下が登場したから、私はアイ君を連れてこっそり逃げただけなのに。
「どうして、あの人たちが?」
「あの一件がきっかけで、彼女はアネモネ嬢の取り巻きから外されたらしい。その逆恨みで、ナズナ嬢の邪魔しようとしたと供述していたよ。ちょっと驚かすだけのつもりだったようだけど……明らかにやりすぎだね。実行犯の従者たちは逮捕、令嬢も主人としての責任をとらせて退学とさせた。もうきみに害が及ぶことはないから安心してほしい」
殿下が絶対の信頼感を見せつけるような笑みを向けてくる。
まぁ、事件のあらましは若干腑に落ちないような気がしながらも、殿下の有無を言わさない笑みに免じて「そうですか」で終わらせてもいい。結果、私も命は助かったんだし。
だけど、今の話のどこに殿下の最愛になる要素があった?
「と、とりあえず殿下……その最愛とかって冗談は面白くないと思いますよ……?」
「僕に対してつまらないとは不敬だね? 罰として将来は王太子妃ね?」
「なして!?」
あぁ、叫ぶとやっぱり身体が痛いや……。
私がミシミシする身体を丸めていると、殿下が笑いながらそっと私を寝かしてくる。
「入学式の頃から目をつけていたことは事実だからね。ちょうどよかったよ」
「……それは書記官のような臣下ではなく?」
将来の部下の一人として、王太子殿下に目をつけてもらっていたなら光栄な話。
私の問いかけに、ルシアン殿下は笑みを絶やさない。
「妃って、公務を分担する相手だろう? まじめで努力家、そして上、弱気者を助ける心も持ち合わせている……最高の仕事のパートナーじゃないか。恋愛戦争時代に、あえてきみみたいな女性は平民ウケがいい気もするからね。悪くない選択肢だろう?」
そして、私は殿下の話しぶりに確信した。
決して、殿下は私に恋をしているわけでない。
この恋愛戦争時代に、ただの仕事として。
ただの臣下の一人として、王城書記官ではなく王太子妃になれと言っているだけ。
だから、私はまじめに殿下に質問するのだ。
「私が気絶している間に、何があったんですか?」
ただの冗談でこんな大事なことを口にする人でないと、短い付き合いながらわかっている。ならば、私が気絶しているうちに何かあったと考えるのが必然。
――それに、アネモネちゃんが関係しているんじゃ?
今、この場にアネモネちゃんの姿はない。
窓からの景色からして日付は跨いでいそうだから、単に授業に出ているとか、部屋で休んでいるとか、そういう可能性も無きにしも非ずだけど。
嫌な予感が止まらない。
かたくなに殿下がアネモネちゃんの話題を出さないことも、不安を助長させる。
「アネモネちゃんは、今、どこに――」
それなのに、殿下はいつもの有無を言わさぬ笑みを変えてくださらない。
「借金のことも安心するといい。僕が一括で返済してあげてもいいが……とりあえず奨学金制度でもつくって、学費の免除から始めようか。ゆくゆくは平民からも生徒を募集して、爵位関係なく有能な人材を集める足掛かりにしたいね。きみみたいなさ」
……もちろん、私のことを評価していただいているのはありがたい話だ。
だけど微妙に政治利用されていることにモヤモヤしていると、殿下は私の視線に気が付いたのか、くすりと笑う。
「もしも自分の手で返済したいなら、卒業後に毎月の報謝を与えようか。返済と仕送りに差し支えない金額は保証するよ」
「今は、そういう話を聞きたいんじゃなくて!」
とりあえず、今は王太子妃とか、婚約者とか……そういう話が聞きたいんじゃない。借金すら……今は後回しだ。
あのシャンデリアの落下は、おそらく天井裏に繋がっているワイヤーが原因だ。ワイヤーがなんらかの原因で腐敗し、切れてしまったのだろう。
だけど、貴族が集まるルミエール女学園で経年劣化なんてあり得るの?
誰かが故意で酸などでワイヤーを腐食させていたと考えるほうが自然なのでは?
その考えに及んだ途端、さまざまが疑問が頭をよぎる。
――なんでシャンデリアが落ちてきたの?
――私が気絶しているあいだに、何があったの?
――アネモネちゃんは無事なの?
――今はどこにいるの?
それなのに話を逸らされ、思わず視界が潤んでいると……殿下が優しい手つきで私の下まぶたを撫でてくる。涙が落ちる前にルシアン殿下が拭ってくれたらしい。
「カリオン嬢は無事だよ。少し手に怪我を負ったけど……大したものではない。きみよりずっと軽傷だし、治療もきちんと受けているはずだ」
その言葉に、ひとまず私はほっと息をつく。
よかった……アネモネちゃんが無事でよかった……。
「それで、今、アネモネちゃんはどこに……?」
ならば、一目でもアネモネちゃんの顔が見たい。
アネモネちゃんなら、きっと私の心配もしてくれているはず。直接『私も大丈夫だよ』と伝えたい。アネモネちゃんは『余計なことを』と怒ってくるかもしれないけど……そんなお説教すら、今は直接聞きたいんだ。
しかし、殿下から返ってきたのは、とても重く固い声だった。
「きみが知る必要のない話だ。きっと、彼女もそれを望んでいない」
「どういう……ことですか……?」
「あぁ、ただ最愛と話が広まったのは僕の落ち度だ。僕は『想い人』って言ったはずなんだけどな。それが最愛と誇張されるとは……他に候補がいるわけでもないから否定もしてないけど……噂って面白い――」
「殿下っ!?」
あまりの話の逸らしぶりに思わず大きな声を出せば、殿下が珍しく視線を逸らした。
「少なくとも、お茶会やパーティーではよく顔を合わせていたからね。心を通わすような仲じゃなかったけど……流れてくるカリオン家の話から、彼女の立場を察するのは容易だ。田舎でがむしゃらに肉体労働していたきみと違ってね」
「なっ……」
突き放したような殿下の言葉に、思わず息を呑んだときだ。
上品なノック音が医務室に響く。
「殿下が心を通わす相手など、誰もいないではありませんか」
開かれた扉の外にいたのは、気品のあるお二人。
青の御三家ローズ・ブルーノ先輩と、白の御三家リリィ・セントリオン先輩だった。
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