22話 もう『だいすき』がなくても
◆
「アネモネお嬢様、お部屋に戻りましょう」
その声に、あたくしの背筋が凍る。
ゼインだ。彼が迎えに来てしまった。
反省文など、誤魔化せるとは思っていない。
せめてダンスのパートナーを奪えていればよかったものの……宝物の件で動転して、すっかりその話を進めることができなかった。
……いや、すでに手をまわしてあるから、重要視していなかったのだけど。
ともあれ、あたくしが今為すべきことは、毅然と対応するだけだ。
「お待ちなさい、まだ反省文の途中です」
「ですが、顔色が悪いではないですか。体調不良で倒れるようなことがあれば、私はもちろん、ご両親もとても心配されてしまいます」
その言葉に、思わずあたくしは奥歯を噛み締める。
ご両親……その言葉を出すということは、間違いなく父に報告するということなのだろう。あたくしの一挙一動、両親の意にそぐわないことを、余すことなく。
あたくしが一瞬言葉を詰まらせている間に、ゼインは粛々とルシアン殿下に頭を下げていた。
「ルシアン王太子殿下、誠に恐縮ではございますが、アネモネお嬢様の顔色が悪いので、退席させていただいてもよろしいでしょうか?」
もう従者というより、保護者気取りね。管理者のほうが正しいのかしら?
机に頬杖をついたルシアン殿下は「それは構わないのだけど」と前置きしてから、ゼインに視線を向けた。
「従者風情が、誰の許可で僕に話しかけている?」
王者特有の、冷たい声音。
それにゼインのみならず、ナズナ・フェルミエまで「ひぃ」と小さく悲鳴をあげた。
相変わらず、気の小さい子だこと。仲良しのバルクロウとやらのように「こえー」と笑い飛ばすくらいの貫録を身につけなさいと説教の一つもしてやりたくなるわ。
「も、申し訳ございませんっ!」
慌てて頭を下げるゼインの姿には溜飲が下がる思いだけれども。
そんな従者風情からは視線を逸らして。
ルシアン殿下はあたくしに柔和な笑みを向けた。
「カリオン嬢、きみの体調不良に気づけずに申し訳ない。先生には僕から伝えておくから、下がってくれて構わないよ。それとも保険医を呼ぼうか?」
あぁ、やはり、この殿下はわかっている。
あたくしの立場を。あたくしの境遇を。
その上で、せっかく逃げ場を作ってくれた優しさを……あたくしは笑顔で無下にするのだ。
「……部屋で休めば十分ですわ。お気遣いに感謝いたします」
そして、あたくしは白紙の原稿用紙を置いて、席を立つ。
去ろうとしたあたくしに、彼女は今日も無遠慮に声をかけてくるのだ。
「アネモネちゃん、あとで何か持って行った方がいいものある!?」
なに、この子は?
あたくしを誰だと思っているの?
あたくしはアネモネ・カリオン。公爵令嬢。
この国有数の、望めば、何でも手に入る立場の者。
借金を抱えた貧乏令嬢からもらいたいものなど、何もないのに。
「お見舞いなら結構ですわ……貧乏人から貰うようなものはないの」
「あっ……」
あたくしに何かを与えようとしないで。
あなたから、何も受け取りたくないの。
言葉も、気持ちも、想いも。
自分のことで精いっぱいなのだから、あなたはあなたの世界で生きなさい。
貧しくても、温かい、優しい世界で。
それが唯一の――あたくしの願いなのだから。
「それでは、失礼いたしますわ」
教室の外で一礼すると、ゼインがすぐさま扉を閉める。
しばらく歩いてから、ゼインが「ぷっ」と噴き出した。
「あの娘の絶望した顔……滑稽でしたね」
あの娘とは、当然ナズナ・フェルミエのことだろう。
どうして、彼がこんなにも彼女のことを目の敵にしているのだろうか。
「あの娘とあなたに、何も関係ないのでは?」
「ですが、最近少々境遇が似ているのかも、と思いまして。雑草精神……とでもいうんですかね。不遇な生れながらに努力して成功していく自分と、努力しても報われずに枯れていく娘……比較対象がいると、より自分に自信が持てるというものでしょう?」
――呆れた。
これなら、よほど特別な因縁があるほうが納得できるというものなのに。
父へのポイント稼ぎと、自己顕示欲。
そのためだけに、ナズナを貶めようとしているなんて。
――そんなこと、させてたまるものですか。
あたくしはゼインに視線を向けぬまま、低い声音で問いただす。
「そんなことより……宝物の中身が変わっておりました。どういうこと? 提出はあなたに任せていたはずよ」
「あぁ……もちろん、殿下から頂戴した花は丁重に保管してあります――よ!」
バチンッ。
頬に強烈な刺激が走り、視線が揺れる。
どうやら、思いっきりビンタされたらしい。
床に地面をつきながら視線をあげると、ニコリと微笑んだゼインが一度外した白いグローブを嵌め直していた。
「冷たいタオルと一緒に、すぐお持ちしますね」
いけしゃあしゃあと。
鼻で笑いながら、ゼインが踵を返そうとする。
だけど、あたくしは彼が立ち去る前に、胸にしまっていた栞を取り出した。
「待ちなさい――どうして、この栞を?」
あたくしの疑問に、ゼインは臆することなく目を細めた。
「処分するのにいい機会かと思いましたので」
そして、彼は即座に栞を取り上げ――破り捨てた。
あたくしの目の前で、一切の躊躇なく。
古びた『だいすき』の言葉が切り裂かれ、ゴミ箱の中に落ちていく。
「あっ……」
「今日のことでわかったでしょう? あんな娘にかかると我がカリオン家に不幸が訪れる――あの娘は、早く処分しなければならないのです」
「わ、わかっているわ!」
あたくしが慌てて顔を背けると、背後からゼインの鼻で笑った声が聞こえる。
「それでは、諸々を取ってまいりますね」
いつのまにか、雨が降っていたようだ。
窓に映るあたくしの顔は、それはもう酷いものだった。
唇についた歯の痕がなかなかとれない。
これはゼインの機嫌もよくなるってものね。
涙はきっと、雨がそう見せているだけ。
「……でも、こんな毎日ももう終わりよ」
大丈夫、もう手は打ってあるもの。
あとはパーティーのときまで耐えるだけ。
今は弱い女のふりをする、最後の時間。
切り裂かれた『だいすき』なんて、もういらない。
あたくしの人生に、もういらない。
◆
「アネモネちゃん……大丈夫かな?」
反省文を仕上げながら、私はぼそりとつぶやく。
すると、またキャンディーを食べていたバルクロウがゴソゴソとし始めた。
「なに、ナズナもキャンディー食う?」
「それは終わってからで……」
「あ、僕も貰っていいかな?」
どうやらルシアン殿下も書きあげたようで、二人で私を待ってくれているという。
それなのにバルクロウは「どうぞどうぞ♡」と殿下にキャンディーをあげながら、私に話しかけてくるのだ。
「そんなことより、ナズナは歓迎パーティーのドレスは用意したのか? ドレスコードとかおまえわかんねーだろ」
そんなことよりって、アネモネちゃんの体調はそんなことじゃないんだが?
だけど、またバルクロウにバカにされたくない私は思いっきり口角をあげてみせる。
「ふっふっふ、私を舐めるのも大概にしてほしいですわ」
「おまえの『ですわ』口調ほど気持ち悪いものはねぇーな」
「それは僕も同感かも」
二人してひどいぞ、この男ども。
なんて文句は殿下もいる手前呑み込んで。
今回のドレスの件、たしかに普段なら心配したくなる気持ちもわからないでもないが……今回は抜かりなし!
だから、私は「今回は大丈夫!」とバルクロウにピースを向けるのだ。
「アネモネちゃんに教えてもらったからね!」
そのとき、人型のアイ君も「あるじ終わったかー?」と迎えに来た。
そういや、アイ君にはノックを教えていなかったな。
さっきのゼインさんと比べて足りないものを確認しつつも、「おれもあの女すき!」と私に抱きくるアイ君は今日もかわいい。
「あの女はいい匂い! あるじの味方!」
たまらず、私はアイ君の頭をわしゃわしゃと撫でる。
なぜかバルクロウとルシアン殿下が目を合わせて複雑そうな顔をしていた。
殿下はともかく、バルクロウまで?
ノックのマナーは早めに教えたほうがよさそうだ。
3章はこれにておしまいです!
次はいよいよダンスパーティー。
わたしが一番書きたかったシーンがあります!
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