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彼が参加している数々の課外活動の中でも、その日に限って剣道ではなくフェンシングの練習が入っていた。
その日の午後、アダンはいつものリムジンに乗っていた。隣には付き添いのフェリシアが座り、青年のスケジュールを確認している。
「学校との両立を考慮して、あなたの予定が以前よりも軽くなったことを喜ぶべきですよ、ヴォーブラン様」
女性は真剣な口調でそう告げた。
アダンはただ小さく頷いた。すると、エキビョウが心の中に語りかけてきた。
『剣術か? 剣を扱えるのは悪くない能力だと思うぞ。今のお前は俺の力を持っているんだからな。だが、あまり乗り気には見えないな』
『二年前に無理やり参加させられたんだ。正直、フェンシングって……なんだか気取った人たちのスポーツって感じがする』
アダンは心の中でエキビョウに返事をした。
『ああ、なるほどな。自分の人生を細かく編み上げるように決めてくる人間がいるというのは……息苦しいものだ』
『息苦しいなんてものじゃないよ、エキビョウ』
アダンはそう答え、ため息をついた。
やがて車は練習場に到着した。車のドアが開くと、アダンはスポーツバッグを手に取り、車から降りて建物の中へと入っていった。
フェンシングのレッスンが行われる場所はかなり広く、床にはマットが敷かれ、すでに何人もの生徒たちが練習に励んでいた。
アダンは周囲にいる少年たちが何かをひそひそと話しているのを、できるだけ気にしないようにしながら更衣室へ向かった。
それもまた、彼が有名人であることを嫌う理由の一つだった。自分のいないところで、誰かが自分について噂していることが嫌だったのだ。
更衣室に着くと、アダンはほかの生徒たちから離れた場所で着替えようとした。余計な注目を集めないためだった。
普段着を脱ぎ、練習着に着替え始めると、エキビョウがしばらく姿を現し、自分の契約者の様子を確認した。そして、少年の身体に残された傷を目にした。
混沌の猫はそれを見て低く唸り、少年に問いかけた。
「どうして、あのろくでなしの父親につけられた傷を、そんなにも上手く世間から隠せるんだ?」
エキビョウは怒りを込めて唸った。
「たくさんのファンデーションと、演技を覚えたおかげだよ」
金髪の少年は、空っぽのような目をしながら答えた。
「最初の頃は、父さんを怒らせるようなことを自分が何かしてしまったんじゃないかって考えていた。今でもそう思うことがある。父さんは僕の何を見て、こんなことをするんだろう?」
エキビョウは怒りを含んだ声で唸った。しかし、すぐに少年へ向ける眼差しを和らげ、静かに答えた。
「ただ……あのクソ野郎に、もう二度とお前を傷つけてほしくないんだ」
「分かってるよ」
アダンは暗い毛並みの猫に、小さく微笑みかけた。
アダンはスポーツウェアを着終えると、エキビョウはその場から姿を消した。少年はフェンシング用の胸当てとグローブを身につけ、マスクを手に取って更衣室を出た。
彼の表情には少し元気がなかったが、それでもいつもの練習を続けようとしていた。
フルーレを一本手に取り、ほかの生徒たちのところへ向かう。すると、周囲から何人かの声が聞こえてきた。
しかし、彼らが話題にしていたのはアダンではなく、別の人物だった。
「新しく来た子って誰?」
「どうしてあそこにいるんだろう?」
「あの子って、パラリンピック選手の娘じゃない?」
アダンは何気なく入り口の方を見た。
そこには一人の少女が立っていた。
木の色を思わせる鋭い瞳と、はっきりとしたアジア系の顔立ち。濃い青色の短い髪をしており、肩にはスポーツバッグを掛けていた。服装はかなりカジュアルだった。
アダンはその少女を見たまま、動けなくなった。
身体が硬直したように感じた。心臓がひどく速く鼓動し始め、自分の頬が少しずつ熱くなっていくのが分かった。
『おーい、アダン、聞こえるか? こちら地球。アダン、応答せよ……どうやら可愛い子猫ちゃんに目を奪われたようだな』
それを聞いたアダンは片手で顔を覆った。
そんな彼を見て、エキビョウはさらにからかい始めた。
『おやおや、おやおや。うちの子猫ちゃんにも、ついにお姫様が現れたか』
『<<ああもう、黙ってよ!>>』
アダンは心の中で言い返したが、顔の赤みを隠すことはできなかった。
『だが、こういうお前を見るのは実に面白い。女の子一人に、そこまで動揺するとはな』
エキビョウは楽しそうに笑った。
しかし、アダンが心の中で猫と口論している間に、少女が自分の方へ近づいてきていたことには気づかなかった。
彼女はアダンの目の前で立ち止まった。
「まあ、あなたがアダン・ヴォーブラン?」
「えっ! あ、はい! ごめんなさい」
金髪の少年は慌てて返事をした。そして少女の顔を見て、尋ねた。
「それで、君は? 名前は何ていうの?」
「アカネ。アカネ・ワダよ」
アダンは少し不思議な気持ちを抱きながら、彼女を見つめ続けた。
「ねえ、更衣室はどこにあるの?」
「ああ、男子更衣室なら左奥だよ。女子更衣室は右手にあるんだ」
金髪の少年は親切に説明した。
アカネは小さく微笑んだ。
それはほんのわずかな笑顔だったが、金髪の少年にとっては、まるですべてを意味するかのようなものだった。
彼女はアダンに軽くお辞儀をして答えた。
「教えてくれてありがとう」
そう言うと、アカネは更衣室へ向かっていった。
その場に残されたアダンは、混沌の指輪の契約者として、自分の中に渦巻く感情をどうにか理解しようとしていた。
『どうやら、あの子に尻尾をつかまれちまったようだな、子猫ちゃん』
エキビョウはアダンを見て笑った。
『<<もう一度そんな冗談を言ったら、本当に壁に頭をぶつけるからね>>』
アダンは心の中でそう言い返した。
『分かった、分かった。だが、自分でも気づいた方がいいぞ。あの子は毛糸玉みたいに、お前の頭の中にすっかり絡みついてしまったようだからな』
アダンは少し恥ずかしそうに視線を落とし、小さく呟いた。
「そうかもしれない……自分でも分からないけど……」
その後、少年はフルーレを手にしたまま、ほかの生徒たちのところへ戻って腰を下ろした。
そのとき、アカネがすでにフェンシングのユニフォームに着替えていることに気づいた。
そして、担当の教師であるゲルベルトという男性が、彼女を紹介し始めた。
「みんなに新しい生徒を紹介しよう。アカネ・ワダさんだ。最近、東京からパリへ引っ越してきた。ここがどれほど素晴らしい教育機関なのか、彼女に示してあげてほしい」
「本当にあのワダ家なのか? ホンシュウ社を経営している?」
「彼女のお母さんは、すごく有名なパラリンピックのフェンシング選手だったって聞いたよ」
「ジュニアのフェンシング大会で五回も優勝したことがあるらしい」
アカネについて聞こえてくる話の一つ一つが、アダンをますます緊張させていった。
それは、彼女とフェンシングで対戦することになったらどうしよう、という自分自身への不安からではなかった。むしろ、彼女のことを考えて緊張していたのだ。
二人はどこか似ているように思えた。
有名な両親を持ち、周囲から大きな期待を寄せられている。心の奥底では、二人はそれほど違わないのではないか。アダンはそんな感覚を抱いていた。
「ヴォーブラン君。ワダさんの実力を確かめるため、君に相手をしてもらおう」
そのとき、ゲルベルトがそう告げた。
アダンの顔から少し血の気が引いたが、それでも指示に従った。
少年はアジア系の少女の前に立ち、フェンシングマスクをかぶった。
アカネもフルーレを手に取り、二人の試合が始まった。
二人ともかなり巧みに動いていたが、勝負はあっという間に決着した。
アカネが金髪の少年の胸にフルーレの先端を当てたのだ。
「アカネに一点!」
男性教師が告げた。
二人は距離を取り、それぞれマスクを外すと、互いに近づいて握手を交わした。
「あなた、上手ね。でも、動きがとても読みやすいわ」
アカネは分析するような口調で言った。彼女の瞳には好奇心も浮かんでいた。
「普段からたくさん練習しているの?」
「それなりにはね」
アダンは少し恥ずかしそうに答えた。
「でも、君は本当にすごいよ。どうやったらそんなに上手くなれるの?」
「たくさんの規律と努力よ」
アジア系の少女は簡潔に答えた。
「私の家族は、何事にも完璧を求めるの。そういうことね」
その言葉を聞いたアダンの眼差しには、何かを理解したような色が宿った。
そして少女に話しかけた。
「僕の場合も、実はそれほど変わらないんだ」
アカネは少し目を見開いた。
しかし、少年の目に浮かんだ悲しみを感じ取ったのか、彼女もまた理解を示すような表情を浮かべた。
その後のレッスンは、特に問題もなく続いていった。
それでもアダンの頭からアカネのことが離れることはなかった。
彼女はとても可愛らしいと思った。
そして、どうしようもなかった。
彼はあの少女に恋をしてしまったのだ。
練習が終わり、片付けの時間になると、アダンは自分の服を置いていた場所へ戻った。
そして着替え始めた。そばでは黒猫の姿をしたエキビョウが、辛抱強く彼の様子を眺めていた。
「どうした? あの細剣に心臓を一突きされたのか? あの子と会ってからずっと、頭の中はアカネという少女のことでいっぱいじゃないか」
アダンはそのことを口にしないようにしようとした。
しかし、彼の愛情に満ちていた眼差しには、少しずつ悲しみが混じり始めていた。
「僕にも、いつか自分だけのものを持てる日が来るのかな……誰かの心だって……」
エキビョウはその様子に気づき、問いかけた。
「それは、お前のあの厄介な父親のせいか?」
アダンはその問いに、ただ頷いた。
「彼は大きなテクノロジー企業の人間だ。もし、父さんがそのために彼女と付き合うよう強制してきたらどうしよう? それに、だからこそ彼女のそばにいることを許してくれないかもしれない……」
金髪の少年は、悲しみを帯びた声で自問した。
アダンは自分の手と腕を見つめた。
手には、何もできない自分への無力感があった。そして腕には、自分自身につけてしまった傷や、父親につけられたあざが残っていた。
彼は悔しさから拳を握りしめた。
すると、暗い毛並みの猫が少年の肩に飛び乗り、答えた。
「だったら、そんなものは壊してしまえばいい。お前が誰を愛するかまで支配されるなんて、あってはならないことだからな。それに信じてみろ。愛というものは、時に最大の混沌をもたらすことだってあるんだ」
アダンは着替えを終えながら、小さく微笑んだ。
そしてエキビョウに答えた。
「ありがとう、友達よ」




