本当にそれだけかしら?
明くる日わたつみに向かうと、スタッフエレベーターの地下行きボタンが妙に擦り減っていると気づいた。
誰かが頻繁に使っている痕跡がある。
地下病棟の廊下に出ると、子どものはしゃぎ声が漏れ聞こえて、一瞬立ち止まった。
ドアノブを握り直して病室の扉を開けた瞬間、中からは弾けるような笑い声が溢れてきた。
「……やあ」
見れば、ダビドが先に来てスツールに腰掛けていた。
机に置かれた紙コップの中の麦茶はすでに半分ほど減っている。
ぼくの挨拶を受けてダビドが振り向く。
「おう、谷崎。来たな」
希子さんははしゃぎながら、机の上を指差した。
「そうよ、ほら、わたしのドールハウス。見て頂戴」
机の上には華やかなドールハウスが置かれていた。
確か壊れていたはずだけど、骨組みも装飾も完璧に修理がなされて、白と赤の塗料で上塗りされている。
割れてしまったパーツは金継ぎがなされ、むしろ以前よりも華やかになったのではないだろうか。
ぼくは金継ぎを人差し指でなぞって呟く。
「これ、ダビドが直したのか?」
「そうよ。とっても素敵よね!」
高い声で褒められて、ダビドは照れくさそうに髪を撫で付け、目を逸らしながら簡潔に返した。
「一週間くらいかかったけど」
「ダビドって優しいの。毎日来てくれるから!」
「毎日?」
仄かな違和感にやや眉をひそめる。
ダビドはたびたび学校を欠席しているのに、わたつみには毎日来ているのか。
「空いてる時だけな。希子が寂しそうだったから」
「本当にそれだけかしら?」
「まあ、……おれも喋りたかった」
ダビドは照れ臭そうに呟く。
それから、二人は視線を交わらせて笑った。
どうやらダビドは、ぼくが誘わなくても何度も希子の元に通っているらしい。
ダビドは一人っ子だから、希子さんのことが妹みたいに思えるのかもしれないな。
ぼくはスツールを取り出し、乱雑に腰掛ける。
「ダビド、会えてよかった。そういえば終業式の日に、美保さんから金靄祭りへ行こうって誘われていたんだ。きみも一緒に来てくれないか」
「おれは、やめとく。子どもの頃に一回行ったけど、いろいろ言われたし」
「美保さんも一緒に来るよ」
「違う。おれは美保に誘われてない。美保が誘ったのは谷崎だけ。おれが行ったら、じゃまだろ」
「邪魔なもんか」
「おまえはそう思う。でも美保は……」
ダビドは数秒視線を彷徨わせて、口をつぐんだ。
海色の瞳がぼくを見つめ、それから躊躇いがちに泳ぐ。
ほんの一瞬、唇の端を緩めて笑いかけて、無理やり押し殺したようだった。
なぜ、にやついているんだ?
「……だから、おれは行かない。美保に言うなよ、おれを誘ったこと」
いやに歯切れ悪い返事だった。
美保さんが嫌がるかどうかの話をしているようで、実際には違う内容を考えているみたいだった。
美保さんとダビドは幼馴染だから、嫌な顔をするとは思えないのに、なぜ断るんだろう?
何か理由があるんだろうか。
「ねえねえ、ダビドー」
希子さんはダビドの制服の袖を軽く引いた。
薄い唇をわざとらしく尖らせて、わかりやすく拗ねていた。
わずかに笑っているようにも見える。
「ちょっとダビド、わたしとの約束を忘れたの?」
彼女は小首をかしげて、無邪気な笑みを浮かべた。
決まりきったことを思い出させるように、彼女は言う。
「覚えてるって」
ダビドの表情に笑みが溢れる。
やや眉をひそめて、
「約束って何だい?」
「金靄祭りの日、わたつみで希子と花火を見るって約束したんだ。おれも、希子にできるだけのこと、してあげたいって思って」
何それ、そんな話ぼくは聞いていない。
全身の血が急激にかっと沸騰し、それから急速に冷めた。
指先だけが別の生き物になってしまったように冷たくかじかんでいる。
「看護婦の弓子さんに頼んで、五階ホール借りることにしたんだ」
「花火、楽しみだわ!」
「……金靄祭りの花火なんて大したものじゃないよ」
すると希子さんはぼくのほうを見上げてきょとんとしている。
猫のような吊り目が瞬きした。
一方のダビドはぼくには目もくれず、きっぱりした口調で言った。
「おれは、それでもいい。希子と一緒に見れるから嬉しいんだよ」
「……そっか」
彼らと目を合わせることが気まずくなって、部屋の隅に置かれた千羽鶴の束へ視線を移した。
別に本心ではない。
でも、口を出さずにはいられなかった。
ぼくは何のためにこんなあからさまな嫌味を言ったんだ。
希子さんの楽しみに水を差して、二人に嫌な顔をさせてやりたかったのか?
そうすれば胸がすいたのか?
希子さんよりよほど子どもじゃないか。
一方のダビドは嫌味など全く意に介していない様子で、機嫌良く微笑みながらぼくを見た。
「美保と祭り行くんだろ? 楽しめよ」
「ああ、二人もね」
そう言ったあと胃の奥に何か澱んだ感情が沈んだ。
それは、嫉妬や羞恥と形容するよりもさらに幼くて冷たくて鋭利な感情だった。
仮に羨望だとて、ならこれは誰に向けた羨望なんだ?
握り締めた手のひらの冷たさだけが鮮明だった。
金靄祭りの風景を思い浮かべる。
島のどこもかしこも賑やかで、うるさくて汚くて臭くて、誰もが猥雑な人混みの中で動いている。
一方で、わたつみの五階ホールはひんやりした静寂に包まれているはずだ。
本当はぼくもわたつみに居れたのならよかった。
けれど二人と一緒に居たいとは言えない。
だってぼくはダビドに誘われてない。
ダビドが誘ったのは希子さんだけ。
ぼくが行ったら、邪魔だから。
今回は美保さんと祭りに行く、ぼくには『わたつみの坊ちゃん』としての社交の義務がある。
いつも通りの流れなのに、なぜこんなに落ち着かない?
元々美保さんと祭りに行くことを望んでいたわけではない。
むしろどこにも行きたくなどなかった。
でも、ダビドと希子さんが花火の約束を立てているから、ぼくは自分も祭りに行く相手がいると示さなくてはいけなくなった。
ただ、役割や義務を期待してくる島民たちではなく、自然体でいられるはずの二人相手にそう示すことが一体何の意味を持つのか?
自分でもはっきりわからない。
祭りの約束は社交の義務にすぎないが、希子さんとダビドの花火の約束は私的な楽しみだ。
ぼくは前者に巻き込まれることはあっても後者とは関係がない。
二人の楽しみに文句を言うつもりはないけれど、花火の話をダビドが話してくれていたら、きっと焦燥感を覚えなかったはずなのに。
青白い蛍光灯が無機質に光っていた。
空調の低音が一定の調子で流れているだけで、外の音や風は全く感じられない。
閉ざされた空間の中で、やり場のない感情だけがぐるぐると滞留している。
不透明な感情を打ち消す作業が不毛なものに思われた。
「――あら、そろそろ面会時間が終わるわ」
希子さんは甘ったるい声で言って、上機嫌に目を細めた。
ぼくはそう言われて初めて、この真っ白な部屋が地下病棟の一室であることを思い出した。
この病室に窓はない。




