ばれませんように
帰りのバスは定刻の二十分遅れで出立し、金靄港前の停留所にたどり着いた。
「暑いね。帰りにアイス食べないか」
「あー、いらない」
ダビドはまっすぐ前を向いたままポケットに手を入れて歩く。
やけにそわそわして、心ここに在らずといった雰囲気だ。
ぼくはため息をついてから、切り出した。
「体育ふけた日さ。アイスが溶けて手がべたべたになって、笑ったよな」
「そうだっけ? じじいに笑われただけだし。二度と行かねえ、あの店」
ダビドはあの商店を横目で睨みつけながら吐き捨てた。
ちくりとした痛みがぼくの胸をよぎった。
無言が続く。
ぼくの腕時計の秒針が、かちかちと絶え間なく音を立てている。
ベルトにじんわりと汗が滲む。
金靄港沿いの道を歩いていると、ダビドはふと足を止めた。
何があったんだろうと振り向くと、彼は水平線を背にしてじっと立ち止まっていた。
太い眉をひそめて真面目な顔をして、ポケットの中で指を落ち着きなく動かしていた。
どうしたんだろうと逡巡していると、ダビドの方から先に切り出した。
「……なあ。おまえと一緒に島を出るって約束、なかったことにしてくれないか」
胸が一気に締め付けられて、息が詰まる。
いきなり何の話だ。
約束していたのにどうして?
ぼくとダビドは『硝子島から出る』という目標を共有していたはずなのに、その希望があっさりと消え去った事実が目の前に突きつけられてしまった。
「……それは、……どういう意味だ?」
理由を聞くべきではないと分かっている癖に聞いてしまった。
ダビドが答えを告げたら、処刑台でギロチンが落ちる時のように、本当のとどめがさされてしまうだろう。
しかし今理由を明らかにしておかなければ、ぼくはずっと彼の台詞の意図について考え続けてしまう。
理屈が導いた愚かな自殺行為だった。
「希子がいなくなったら……いや、そんなこと考えたくないけど……とにかく、今は島を出たくない。希子がいる間は島を出ない。硝子島で生きる理由を見つけた」
彼は途中で言い淀みながら続ける。
遠くから、商店街のシャッターが降りる音が聞こえた。
「……なんで突然?」
「前、家に来た時、お兄ちゃんの話をしたよな。お父さんもお母さんも優しいけど、……この服や食事はお兄ちゃんが好きだった、おまえはお兄ちゃんみたいに成長してるんだろうって言われて。ずっと、お兄ちゃんの影に飲み込まれそうになって……」
するとダビドは目を輝かせ、表情を緩める。
「この前、希子と話して。そしたら希子が『ダビドはお兄さんの代わりなんかじゃない。かけがえのない人』って言ってくれたんだ」
そんな話、ぼくは聞いていない。
聞きたくもない。
見たくもないし、知りたくもなかった。
二人は一体いつの間に仲良くなっていたんだろう。
どうやって親しくなって、どのタイミングで島に残ると決めたんだ?
考えたくもないのに考えてしまう。
真っ白になった頭の中に、地下病棟で二人が笑いあう声だけが響いた。
何も返せないまま佇む。
ダビドは熱っぽい口調で、すらすらと続ける。
「おれ、希子に会うまで、生きてて楽しいって思ったことなかった。でも、今は違うんだ。希子だけは初めておれの全部をわかってくれた」
純粋な愛に溢れた言葉が、磨き抜かれた鋭利な刃となって、ぼくの肉体を切り裂いていく。
――希子に会うまで、生きてて楽しいなんて思ったことなかった。希子だけは初めておれの全部をわかってくれた。
……なら、ぼくが楽しいと思った体育の昼下がりも、嬉しいと思った約束も。ダビドにとっては全くそうではなかったんだ。苦痛な日々の一部分でしかなかった。
そんなことにさえ気づいていなかったんだから、ダビドから『自分をよくわかってくれる友達』として認識されていなくても当然だ。
ぼくはずっと、彼に無理させ続けていたんだな。
ダビドは目を伏せた。
オレンジ色の夕焼けが、彼の輪郭を優しく包み込む。
「約束、破ってごめんな。おまえと島を出るって決めた時は本気だった。でも……」
低い声が潮風に柔らかく滲む。
「 でも……希子といるとさ、おれ、初めて……生きてていいって思えたんだ。希子と一緒に楽しい時間を過ごしたい」
「……何だ、そんなことか。気にしてないよ」
喉が詰まるような感覚。
嘘をついたのは自分の方なのに、火傷したようにひりひりと胸が痛んだ。
「そもそも、一緒に島を出るなんて、その場の空気に任せて言った冗談じゃないか。あんなの本気になんかするもんか」
そう返すと、ダビドは緊張から解き放たれたようなほっとした顔をする。
それと同時に、ぼくは自分の表情がこわばっていくのを感じた。
ぼくが本当に気にしていないと思って、安心しているんだな。
そんな顔をしないでほしかった。
『平気なわけがない、本当は違うだろう』と、ぼくの本音を見抜いて、気まずさと罪悪感を覚えてくれればよかった。
仄かな憎しみと悔しさにも似た感情がぐちゃぐちゃに渦巻いて、意地悪なことを願ってしまう。
けれどダビドは素直だから、素直だからこそ、与えられた言葉の裏を考えない。
彼には無茶な期待だ。
痩せぎすの胸には大きすぎる感情が、波のように押し寄せては引いていく。
腹を立てるべき相手も、傷ついたと明確に言える理由もないままに、ただただ自分の中に渦巻くやるせなさが破裂しそうだ。
彼は目を伏せて、靴のつま先で地面を擦る。
指先を何度も握ったり閉じたりしながら、自分の気持ちを表す言葉をゆっくり探しているようだった。
夕方の潮風が強くなって、彼の声が掻き消されそうになる。
「……おれ、こんな気持ち初めてで……、自分でもどうしたらいいか分からない」
彼の頬が薄らと上気している。
それが夕日のせいではないことくらい、ぼくにも分かった。
今まで見たこともないほどに、柔らかで穏やかな表情だった。
希子さんは天真爛漫で愛情深く、わたつみの地下に幽閉されて余命わずかの孤独な女の子。
どこにも居場所のなかったダビドが、無邪気で心優しい希子さんを本物の妹のように慈しむのも自然な流れだ。
亡き兄とは関係なく、自分自身として価値がある。
ダビドは死者の幻影から抜け出し、自分自身の生きる理由として希子さんを選んだ。
彼が希子さんの病状についてはっきり言及することを避けているのは、その証でもある。
希子さんの未来はもう孤独じゃない。
ダビドは島に残る理由を、生きる理由を見つけた。
だから二人ともぼくのことは別に必要なくなった。
それは良いことだ。良いことだって繰り返し自分に言い聞かせる。
けれど、ぼくの胸には鈍色の泥がぎっしり詰まっていて息ができない。
誰も悪くないのに、どうして?
やけに赤い夕日が目に焼きつくばかりだった。
水平線の向こうにぼんやりした影が見える。
波が音もなく崩れる。
風の音は強くなるのに、ぼくの中には何も響かない。
潮の香りが急に遠のいたように感じた。
ダビド。きみを理解できる友達になれなくてすまなかった。
でも、きみがもう覚えていなくても、どうでもいいと思っていても、ぼくはあの日の風が好きだった。
鮮やかな青空の下で、ほんの一瞬だけ、ぼくはきみの孤独に共鳴していた。
この夏、三人で過ごした日々が、本当に夢みたいに楽しかったんだ。
今年の夏を迎えて、ぼくはすっかり弱くなってしまった。
たった数ヶ月しか共に過ごしていない友達に、一体何を望んでいたんだろう。
ほろ苦い気持ちに重しをつけて、心の奥底にそっと沈める。
二人の間にある友情が透明なものであってほしいからこそ、彼を責めることはできない。
ぼくが悪意に任せて彼や希子さんを傷つけたとしたら、過去の輝かしい思い出は途端に利己的な欺瞞へと変貌してしまうだろう。
だからこそ、倫理的失敗の自己処刑が、友情を実感するための唯一の手段となる。
ダビドが見つけた幸福の形が希子さんだというならば、二人の幸福は守られなければならない。
例えその未来にぼくの存在が要らないとしても。
「……わかった。希子さんは、きみに任せるよ」
まるで遺言だ。かろうじて絞り出した声はすっかり掠れていた。
言うべき祝福、労いや励ましはたくさんあるのに、素直に言葉が出てこない。
喉まで出かかった言葉は、名前も持たないまま潮風にさらわれていった。
心と体がすっぱりと切り開かれていく感覚。
ダビドの方を見ないようにして、虚しい笑顔を作った。
表情筋が硬く引き攣って、動きがぎこちなくなってしまう。
うまく笑えないことが、ばれませんように。




