理性が吸われていく
学校から出た後、港へ向かう道を歩く。
美保さんがすっかりしょげているので、すげなく扱うのにも引け目を感じ、民宿まで送ってやることにした。
硝子島の夏はイカ漁の季節だ。
海と道路の境目がわからなくなるほどの暗闇の中で、漁船の灯りだけがぼんやり光っている。
港沿いの民宿まで美保さんを送り届けると、軒先で生臭い匂いが鼻をついた。
目線で臭いの元を探すと、庭で老爺がイカを捌いているのが見えた。
釣れたてのイカを捌き、新鮮な海の幸として夕食に出せば、観光客は喜ぶだろう。
ふと、老人と目が合う。
血走った目玉がぼくをぎょろりと見つめた。
「おい。おめ、『わたつみの坊ちゃん』だろ」
「……どなたですか?」
「美保の爺ちゃんや。美保と仲良くしてくれてありがとなあ」
老爺は笑った。
黄ばみ、丸く摩耗した歯がのぞく。
「噂になっとるで。わたつみの坊ちゃんが祭りに来よるってな」
「そうですか」
直接的に反抗すると面倒が増える。
老人はイカを机に勢いよく叩きつけ、吐き捨てた。
「美保は小さい頃から民宿の手伝いをしとるけん、よそ者を庇う」
だから何なんだ?
美保がお前を庇ってやってるんだから感謝しろとでも言いたいのだろうか。
ぼくの方から庇ってくれと頼んだわけじゃない。
ぼくからしてもいい迷惑だ。
愛想笑いを貼り付けて、
「お邪魔してすみませんでした。ぼく、もう、帰りますから。暗くなったら外を歩くなって、駐在さんに言われたので……」
「駐在? 繁浪か。けっ、青年会の若造が」
老人は忌々しげに言い、道路に唾を吐く。
泡混じりの透明な粘液が曇った空を映し出していた。
そして、手に持ったイカをじっと見つめながら、粘着質な口調でゆっくり呟いた。
「今夜はイカが多すぎて手が回らん。まあ、見とれ」
彼は懐から古びた肥後守を取り出した。
刃はよく研がれている。
老爺がイカをさばき始めると、肉を裂く音がぬちゃりと響く。
切り開かれたイカの身が、月明かりを受けて白く輝いていた。
老人の濁った目には、まだぴくぴくと動くイカが映っていた。
イカは切られた後も、なお動く、触手が動くたび微かに湿った音がする。
骨の浮き出た腕に、白く蠢く吸盤がしつこく張り付く様をじっと見ていた。
「このイカはな、釣られて地上に出てきたのが息苦しくて、色を変えとる」
逃げ場のない状況に追い込まれ、捕らえられ、ストレスで色を変えるイカ。
ぼくは父に殴られた夜を連想してしまい、自分の腕に触れた。
イカは最後の抵抗のように墨を吐く。
粘度のある黒い墨が飛び散って、まるで血飛沫のようだった。
靴が汚れそうでつい一歩下がる。
老人の手から滴がぽたぽたと滴って、黒々とした液体が地面に歪んだ模様を描いた。
「自分が死ぬのがわかっとらんみたいだな」
彼は歯を剥き出しにして笑う。
掠れた笑い声が波音に紛れて、不気味だ。
まるで、見えない網を広げて獲物を釣り上げようとする漁師。
愚かな魚たちは、美味しそうな餌につられた隙を一網打尽にされて、あっけなく殺されてしまう。
「坊ちゃん。谷崎先生、元気か?」
「はい、おかげさまで」
いきなりの問いに面食らってていると、老人は肥後守を握りしめた。
萎びた手の甲に血管が浮き上がる。
「うちのカミさん、タエってんだ。六月の頭、先生がお骨にしてごさいたな。先生のおかげで、カミさんに最期の死化粧もできねえでよ」
違法な死体解剖への嫌味だ。
「わたつみが建ってよ、親父さんが、診療所の開院時間を短くするって決めらいたが。今まではすぐ血圧の薬をごさいたのに、これからは内航船に乗ってでかい病院に行かなきゃならん。本土までは何時間もかかるし……。親父さんに頼んだら『わたつみ優先』ってさ」
老人は、墨まみれの指でぼくの肩を軽く叩いた。
関節が変形したごつごつした手。
生臭くしっとりと濡れた指、血と墨が染みついた爪。
魚の臭いが服に染みつくようで、全身がこわばった。
「お前さんも、ペンしか持たんで、親父さんみたいに立派になるんだろうなあ」
老人は目を細めてぼくの顔を覗き込み、口元で歪んだ笑顔を作った。
黄ばんだ歯が露出する。
皮肉とも励ましともつかない、褒めているのか貶しているのか全くわからない台詞に、背筋にむず痒い不快感が走った。
確実に好かれてはいない。
雄真に直接不満を言えば自分たちの立場が悪くなるから、代わりに息子を監視し、冷遇し、溜飲を下げている。
すると民宿の窓が開き、美保さんが慌てた調子で顔を出した。
頬が真っ赤に染まっている。
「よしてよ、おじいちゃん! 祭りの日のこと、谷崎くんにばらしたら、私、怒るからね!」
孫娘の上擦った声を聞いて、老人が笑う。
ぼくは皺だらけの手を振り解いた。
「……帰ります。ぼく、急いでいるので!」
思ったよりも大きな声が出てしまい、誤魔化すように足早に踵を返す。
本当は家に帰っても予定なんかない。
この場を抜け出すための方便だった。
――あなたとお父さんは違う。
希子さんがそう言ってくれたじゃないか。
まるで、夜闇の中でささやかに輝く月のような一筋の光。
今のぼくには夢がある。
ダビドと一緒に硝子島を抜け出すって決めたじゃないか。
ダビドは妻子と温かい家庭を築き、ぼくは自分だけの静かな部屋で淹れたてのコーヒーを飲む。
ネルドリップ、ベトナムコーヒーがいい。
一杯のコーヒーに託された未来のために、今は感情を殺してやり過ごすんだ。
しかし、そのまま早足で歩いていると、どこからか囁き声が聞こえた。
「わたつみの坊ちゃん、また何か揉めてるな……」
振り返っても誰もいない。
代わりに遠くで足音、遅れて笑い声が聞こえた。
風に揺れる木の音と混じる。
ふと視線を感じて立ち止まり、道の反対側にある民家を振り返る。
すると、ちょうど窓から顔を出していた住民と目が合い、カーテンを閉められた。布の向こうで、個としての境界線がぼやけた人影が蠢く。シミの残る、桃色のレースのカーテン。
右手を握りしめて拳を作った。
美保さんの祖父だけじゃない。
通りすがりの島民、窓から覗いていた住人までみんなが、『わたつみの坊ちゃん』がどんな行動を取るか気にしているんだ。
雄真への憎悪の捌け口として、見世物として、獲物として。
「わたつみなんて、無くなってしまえばいいのに」
ぽつりと独り言を呟いてから、また一人で歩き出した。
コンクリートを踏みしめながら、潮風に理性が吸われていくのを感じる。
「父さんなんて、死んでしまえばいいのに」




