きっと素敵な人なのね
黒板端に残ったチョークの粉が、夕方の斜光で白く浮かび上がる。
学校で帰り支度をしていると、隣の美保さんが話しかけてきた。
「谷崎くん! 今日、一緒に帰ろうよ」
「ダビドなら先に帰っちゃったけど」
「ダビドなんか、いいじゃん。きっと修理屋の手伝いだよ。二人で帰ろう」
「『わたつみの坊ちゃん』とつるんだら、ぼくを嫌ってる人たちに噂されるよ。きみを巻き込みたくない。一人がいい」
「違うよ! 皆、谷崎くんのこと嫌いなんかじゃないよ。家がお金持ちだから羨ましいの。皆、谷崎くんに構って欲しいんだよ」
筆箱を鞄に戻しつつ、乾いた笑いを漏らしてしまう。
自転車のチェーンを切る理由が、ぼくに構って欲しいからだって?
美保さんに馬鹿にされているのかな。
「谷崎くんも、もっと皆と仲良くしてもいいのに」
「そうだね」
生返事しながら、ふと視線を感じる。
教室の隅で、クラスメイトのめぐみさんがぼくたちの会話を眺めていた。
確か、美保さんと仲の良い女子だったはずだ。
島民の繋がりは馬鹿にできない。
もしもぼくが誘いを断ったら、『お高くとまった成金坊やが、民宿の娘の善意を断った』『学級委員長の好意を無下にするなんて薄情なやつ』と広まるだろう。
どう動いたとて、都合よく解釈されるだけ。
美保さんに話しかけられた時点で、ぼくには選択権などないのだから。
手元の筆箱に目をやったまま、平坦な調子で返した。
「……わかったよ。帰ろうか」
下駄箱で靴を履き替える。
雨上がりの匂いがしていた。
校門を出た途端、生ぬるい風が頬を打つ。
海藻の甘く腐敗した匂いだ。
自転車を押しながら、美保さんのペースに合わせて歩いていた。
灯椿家の民宿は金靄港沿いの道路にある。
学校から近いとはいえ、彼女の家に着くまでの間、どう受け答えをすべきか。
「波多先生、いやんなっちゃうよね。ダビドが家族の気にしてるって想像つくのに」
「そうだね」今に始まったことじゃない。
遥か遠くの空に積乱雲が盛り上がっていた。
夏の遠雷が、鼓膜の奥に響く。
アスファルトは雨でまだ黒く湿っていて、水たまりは鏡のように空を映していた。
美保さんは眉根を下げた困り顔で微笑む。
「……あのさ、谷崎くん、最近忙しそうだよね。疲れてない?」
「別に普通だよ」
「めぐみから聞いたんだけど……谷崎くんとダビドって、最近よくバスで滑坂に行ってるんだよね? 放課後あんまり話せないし……ちょっと気になって……」
美保さんは何かを言いかけてやめる。
「この前、ダビドにも聞いたんだけど、私には何も言ってくれなかったんだ」
ぼくたちが滑坂行きのバスでわたつみに行っていることすら、噂で広まっているらしい。
もう隠しても無駄だな。
むしろ、美保さんがわたつみについて何か知っているか情報を引き出したい。
「今から話す秘密、ぼくと美保さんの秘密にしてくれるかい?」
「えっ……うん! いいよ!」
美保さんは弾んだ声で返した。
「実はわたつみに、希子ちゃんっていう女の子が入院しているんだ。ぼくは、よくその子に会いに行って、本や身の回りの日用品を差し入れしてる」
「……誰? 希子って」
少し沈黙があってから、露骨に美保さんの声が低くなり、みるみる内に表情が曇る。
「私も本好きだよ、貸してくれたっていいのに……」
彼女は両手でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
引き攣った笑顔を貼り付けて、
「希子ちゃんだっけ? その子、わがままだねっ。谷崎くんに頼りすぎじゃない?」
急に美保さんの口調がきつくなった。
息を吸う音が震えている。
自分から話を振っておいて、この女のこの態度は何なんだ?
確かにわがままかもしれないけど、それは美保さんが希子さんの置かれた立場を実感していないからこそ言えるのだ。
余命わずかの小学生の何気ない頼みを悪く言うなんて……。
「美保さん、いきなりどうしたんだ? ぼく、何かした?」
「別に、何でもないっ! でもその子ちょっと怖いっていうか、重くない?」
薄ら笑いのまま、早口で捲し立てる美保さん。
明らかに苛立ちを抑えきれなくなっている。
当てが外れた以上に、妙にカチンときたが、反論しても無駄なので冷めた調子で返した。
ふと美保さんが立ち止まる。
今度は何かと思って振り向くと、歩道の水たまりでカマキリが溺れ死んでいた。
表面に薄い油膜が張り付き、虹色にぎらぎらと光っている。
泥水の中で細い脚がかすかに蠢いている。
だが、それは生への意思ではなく、死の直前の単なる痙攣だった。
尻からは黒々とハリガネムシが飛び出ている。
寄生虫ハリガネムシ。
幼生は水中で孵化し、水生昆虫からカマキリの体内へと移動して寄生する。
そして最後にはカマキリをマインドコントロールし、入水自殺するように仕向けるのだ。
水中で交尾を行った後、メスはまた大量の幼生を産む。
美保さんが眉をひそめる。
「虫が死んでる……気持ち悪いね」
言葉もなく虫の死骸を眺める。
アスファルトの上に力なく投げ出された蟷螂の斧の涅槃、死骸が纏う永遠の静寂と平穏を想い、少しだけ安心した。
よかった。きみはもう、生きていなくてもいいんだな。
・
美保さんと別れて、わたつみの病室へ向かう。
希子さんは『ラプンツェル』の続きを読んでいたが、ぼくが来ると本を閉じて微笑んだ。
蛍光灯の清潔な光が、希子さんの横顔だけを優しく照らす。
「真理、どうしたの? いつもは土日に遊びに来てくれるのに、学校のあとで来るなんて珍しいわね」
「たまたまだよ」
あどけなく純粋な表情に、心の緊張がほどけていく。
白い肩掛け鞄をスツールに置くと、ふっと体が軽くなった気がした。
背中の筋肉がひとりでに緩む。
彼女はぼくのポロシャツの裾をしきりに引っ張り、
「あら、真理ったら汗かいている。もしかして部活の後かしら。わたしも名古屋に住んでいた頃は薙刀をやっていたのよ」
「いや、部活じゃないよ。知り合いに捕まっただけ」
ぼくは部活には入っていない。
理江の方針で、入らせてもらえなかったのだ。
元々興味もないし、どっちにしろ『わたつみの坊ちゃん』として変な扱いをされるのは目に見えているから気にしてはいない。
むしろ、家でも休みの日も『解剖』をやらされているから、それが課外活動かもしれない。
「あなたの友達なら、きっと素敵な人なのね」
「友達じゃないよ。素敵かどうかも知らないし」
ぼくは独り言を漏らす。
美保さんは希子さんが気に入らないみたいだ。
なので、希子さんが関心を持ってくれたところで、友達として紹介はできない。
こういう辻褄合わせを考えなくちゃならないのが、また面倒だ。
「人間って面倒だな……」
ぼくはため息をついた。
希子さんは、利発そうな顔立ちで笑みを作った。
「真理の言う通りね」
美保さんはぼくの心に土足で踏み込んでくる、でも希子さんは違う、自然に返してくる。
「島の人たちって冷たいんだわ」
「そういうものだよ。皆馬鹿ばかり」
確かに、希子さんと違って美保さんは冷たいし、ぼくの痛みを全く理解していない。
だが、美保さんに悪意があるわけではないとも分かってはいる。
美保さんはそもそも痛みを知らないのだ。
彼女のの『みんな仲良くすればいい』という考え方は、孤独と排除を知らないからこそ持ち続けられるもの。
自分と美保さんは最初から相容れない生き物なのだ。
ぼくはそうやって納得してしまった。
時計の秒針の音が、いつもよりゆっくり聞こえた。
どうして希子さんは死んでしまうんだろう。
希子さんと、ずっと一緒にいられたらいいのに。




