せい意
昼下がりの教室にて、ぼくはダビドと帰り支度をしていた。
黄ばんだカーテンから夏の日差しが差し込んでいる。
窓の外、蝉の声が遠のいて、代わりに廊下を走る下級生の靴音だけが響いていた。
午後はこのままわたつみに向かって、希子さんと勉強会をやる予定だ。
小学三年生の国語の課題を家で印刷しておいたのだ。
プリントを渡すと、ダビドが目を細める。
「これ、おれもやるのか?」
「もちろん。やってくれなければ困る」
笑い混じりに告げると、ダビドは目を伏せる。
太い指がプリントの端を何度か弾いた。
せわしない仕草。
乾いた音がして、藁半紙とインクの匂いがふわりと立ち上る。
「教えることはできない。おれ、バカだから……」
「大丈夫だよ。教えるんじゃない。ぼくたち三人で、希子さんと同じ勉強をするんだよ。そうすれば希子さんも、小学校で友達と一緒にいた頃を思い出せて、寂しくないだろ?」
希子さんの名前を出すと、ダビドはおずおずと視線を上げた。
海色の瞳が二、三瞬きする。
「そっか……そうだな」
彼は上手く言いくるめられていると気付かぬまま、あっさりと首肯した。
扱いやすい。
勉強会はダビドのためでもある。
彼はこれまで十五年間、日本語の拙さから不便な生活を送ってきた。
勉強が自分の役に立つとも思っていないし、嘲りを恐れて他者からの指摘にも過敏になりやすい。
けれど、希子さんのためにともに学び教えるという名目なら、彼の抵抗も少ないだろう。
我ながら合理的な計画だ。
地下病棟にて夏の学校ごっこが始まった。
弓子さんから小さい机とスツールを借りて、麦茶を用意する。
紙コップの中で氷が揺れていた。
風鈴の音がなくても、十分夏の風情があるだろう。
ふわりと花の匂い。
希子さんの長い前髪が頬にかかり、表情が半分隠れている。
彼女は鉛筆を止めて、丸くなった芯でお手本の印刷をとんとんと叩いた。
「ねえ真理! 『せい意』って、どんな時に使う言葉なのかしら?」
「そんなことも知らないんだな。きみ、いつも本を読んでるのに」
「失礼しちゃう。わたし怒るわよ、ほんとよ」
希子さんが唇を尖らせて拗ねてみせる。
何と説明すれば分かりやすいだろう?
視界の端に、ラプンツェルの児童書が目に入る。希子さんに分かりやすいように、ロマンチックな例えを引用してみた。
「誠意。例えば……愛する人に真心をもって正直でいること。どうかな?」
すると案の定彼女は目を輝かせ、顔を綻ばせた。
素直にときめいている。
「せい意。せい意……素敵ね! ラプンツェルに出てくるお姫さまも、きっと愛と真心に溢れた子よね」
彼女は鉛筆をくるくる弄び、例題を読み上げながら漢字練習帳に書き進めていく。
綺麗な字だ。
ダビドは器用に鉛筆を弾き回しながら、
「おまえ、先公みてえ」
「先生か……谷崎先生は嫌だな」
「じゃあ、真理せんせいって呼ぶわ」
希子さんがくすくすと微笑んだ。
導く側に立つことで倫理的な償いをしているようで、むず痒い。
「それなら、構わないよ。生徒諸君」
「導いてね。真理せんせい!」
ふざけて眼鏡を押し上げると、希子さんがおかしそうに笑った。
麦茶の紙コップの縁に水滴が伝っている。
中の氷はもう半分溶けて、茶色が薄まりつつある。
視線を落とせば、ダビドはほとんどプリントを埋めていない。
代わりに、プリントの余白には希子さんの似顔絵が描かれていた。本人の特徴を掴んでいて、かなり上手い。長い睫毛の生え際まで丁寧に陰影が入れられ、小さな唇の膨らみまで再現されている。
彼はさっきから、希子さんの顔をよく見ていたのだろう。
希子さんは身を乗り出してプリントを覗き込み、瞳を輝かせて笑う。青白い肌に紅がさす。
「まあ、きれい」
「上手だな。ははっ、きみ、才能があるじゃないか」
ぼくは軽く笑いながら、
「けれどきみだけ、勉強じゃなく人物デッサンの時間じゃないか。何で落書きばかりしているんだ?」
「なんとなく」
ダビドは肩をすくめ、全く悪びれずに答えた。
「ねっ。希子も飽きちゃった、お外に出ましょうよ」
「外? きみは外出してもいいのか?」
「お庭だけなら、弓子さんに見つからなければ大丈夫よ!」
「だな。ひまだし」
たった一時間なのに、もう集中力が途切れてしまったのかと呆れそうになる。
とはいえ、希子さんはまだ小学生だから、集中力が切れやすい。
それこそ小学校の授業を真似て休み時間を設けるのもいいだろう。
紙コップの中の氷だって、もう溶けてなくなっている。
ぼくたちは地下病棟を抜け出して、わたつみの庭へと遊びに行くことにした。
重い扉を開けた途端、湿った熱気が顔を打つ。
夏の陽射しに包まれて、わたつみの中庭は緑で満ちていた。
じりじりと皮膚を刺す夏の熱と、生臭い草の匂いが、肌の下に染み込んでいく。
地下の快適な静寂が嘘のように、蝉の合唱が鳴り止まない。暗い秘密が眠る施設であるにも関わらず、牧歌的な景色だ。
ぼくは紫外線に弱くて日焼けするとすぐ肌が真っ赤になる性質なので、なるべく日陰で佇んでいる。
「いい空だな」
「ねえ! 坂道の下にチャペルが見える。わたし、いつかきっと、あそこで結婚式を挙げるわ。真理にも招待状を出すわ、きっと来て頂戴ね」
「構わないよ。希子さんの結婚式なら」
実際のところ、チャペルはとっくの昔に廃墟になっている。希子さんの体も結婚式を迎えられるほど長くないだろう。気休めだ。
でも、成長した希子さんが誰かと愛を育み、結婚式を挙げる姿を祝福してやりたいという気持ちは真実だった。
植え込みの葉っぱの上にテントウムシがしがみついていた。
彼は、巨大な黄金色の繭を腹の下に抱え、大切そうに抱きしめている。
繭を狙って近づいてくる虫がいても、器用に足を操り蹴飛ばして、果敢に追い払っている。
優しい命の風景だ。
勇姿を前にして、希子さんは物珍しげに目を輝かせた。
「てんとう虫さん、なんてかっこいいのかしら! お腹の赤ちゃんを守ってくれているんだわ」
子どもらしい無垢な感想だ。
ダビドもまた、のどかな自然と、はしゃぐ希子さんをちらりと見て、頬を綻ばせた。
ぼそりと低く呟く。
「いいな」
素朴な台詞だった。
希子さんを微笑ましく思っているのか、命の営みと調和を尊く思っているのか。
とにもかくにも、夏の日差しに照らされて純粋に微笑んでいる。
けれどぼくには、一連の風景がどこか不思議に感じられた。
本来テントウムシは繭を作らない。
ある特定の状況でなら繭を作るものの、肝心の『特定の状況』がなんだったかすぐに思い出せなかった。
知識として知っていた、はずなのだが。
鮮やかな自然に心を奪われて、耽溺していくうちに、全ての境界が曖昧に融けていく気がした。
現実と夢幻、冷徹な自我と甘やかな白昼夢、ぼく自身と目の前のテントウムシ。
現在だけでなく未来までもが、夏の陽炎に溶かされていく感覚がする。
希子さんの言葉通り、なんて美しい光景だろう……。
ふと、背後から声がかかった。
「あら、坊ちゃん? 中庭で何しとるんです」
振り返ると、顔馴染みの看護婦が老婦人を乗せた車椅子を押していた。
希子さんが茂みの陰で息をひそめているのを確認してから、
「じ……自由研究に使う虫を採取していました」
声が上擦った。
「偉いわあ。さすが、院長先生の息子さん」
「せやな。わたつみさん、ほんま綺麗なお庭やしねえ」
入所者の老婦人が、関西訛りで柔和に言った。
軽快に笑いながら、
「せやけど、ぼく、めっちゃ汗かいて顔真っ赤やで? 若い子が倒れたらあかん。はよ中入って休み」
「そげですよ。坊ちゃん、麦茶、好きなだけ飲んでいいけんね」
看護婦は老婦人の車椅子を押し、そのまま部屋に向かって行った。
冷や汗を流しつつ、眼鏡を押し上げる。
顔見知りの看護婦だからよかったものの、お付きの弓子さんに見つかっていたら、また何か言われるところだった。
ぼくは眼鏡を外して、額にべったり張り付いた汗をハンカチで拭った。
「……希子さん、そろそろ病室に戻ろう。弓子さんに見つかるよ」
庭から帰ろうとした時、ひまわりの葉が希子さんの脚を絡め取った。
希子さんは足を取られて転び、入院着の裾が捲れて白い脛が露わになった。
彼女は一瞬、何が起こったのか理解していない表情できょとんとして、やがて自分は転んだのだと気がつき、声を上げてぐずり出した。
「希子、転んじゃった」
「たかが、転んだくらいで騒ぐなよ……」
「いやったら、いや! 希子、もう歩けない」
見たところ擦りむいてすらいないのに、声だけがいやに大きい。
子どもらしいというべきか、それとも……もはや、体の自由すらも効かないほど病が進行しているのか。
すると、遅れて歩いていたダビドが追いついてきた。
彼は希子さんの前で立ち止まり、彼女を見下ろして揶揄う。
「おまえ、ほんと、ガキだな」
ダビドは地面に落ちたサンダルを拾った。
そして、泣きじゃくる希子さんの目の前で片膝をつき、低くささやく。
「ほら。足出せ。お姫さま」
肩の震えが止まった。
それから彼女はゆっくりと顔を上げた。頬にかかった黒髪が揺れる。
そして、白いワンピースから伸びる白いつま先を持ち上げて差し出した。
ダビドの大きな手が、希子さんの柔らかく小さなつま先を掴み、踵に優しくサンダルをはかせてやった。
希子さんは俯いたまま、サンダルをはかされた左足をじっと見つめていた。
まるでお伽話の幻想に耽るかのように、大きな瞳が儚げにきらめいている。
熱気にあてられて、頬がわずかに上気していた。
ぼくもまた、顕微鏡越しにプレパラートを見つめるように、二人のふれあいの前に佇む。
すると、薔薇の花弁に似た小さな口元が可憐に綻ぶ。
希子さんは目を伏せたまま、掠れた声でつぶやいた。
「さみしいわ」
ぽつりと漏れた一言。
喉の奥から絞り出されたように掠れている。
静かな中庭に、午後の夏風が吹き抜けていく。ひまわりの花が一斉に頭を垂れる。
木の葉がざわめいて、ぼくたちの髪が揺れた。
希子さんは小さな右手で黒髪をかき上げて微笑む。
「わたしね、これから何が起こっても怖くないの。何があっても、わたしたちは一緒よね」
希子さんは微笑んだまま、ゆっくりと目を閉じた。
長い睫毛が頬に影を落とす。
わたしはここにいた、わたしは確かに生きていた。ぼくたちに希子さんの存在が刻み込まれて、いずれ永遠の思い出となる。
「もちろん。何があっても、ぼくたちはずっと友達だよ」
自分の声が少し震えていることに気づいた。
死は誰にでも平等に訪れる。
いくら夏の学校ごっこを演じても、それはもう現実の小学校でも、ありふれた青春でもないのだ。
だからこそ、希子さんの、ささやかな夢を守ってあげることができたなら。
一瞬のきらめきに、すべての現実が融けていく。




