偽善
何となく病室の入り口の鍵を確認すると、そこには外側からかけられる鍵があった。
よく見れば、この病室には窓がない。日光や潮風の対策にしても陰気だ。普通の病院じゃないのか?
ホスピスは終末期医療を、サナトリウムは長期的療養を提供する施設だから、患者が快適に過ごせるように気を遣う。監禁のような環境はあり得ない。
ただの緩和ケア病棟なら、閉鎖病棟のように扱う理由がないはずだ。
――そもそも希子さんは何の病気なんだろう。
ぼくは生まれつき虚弱で、よく熱を出して倒れていた。しかし父が我が子を顧みることはなく、ドアを閉めて出て行った音を覚えている。夜通し息子の看病を続けた結果、理江は過保護になってしまった。
しかし彼女の体には目立った外傷もなく、太ったり痩せ細ったりしていない。
点滴や酸素吸入などもしていない。
動くだけで息が上がったり、体重減少で骨が浮いたり、声がかすれて長く話せなかったりといった症状もない。
外に出られず閉じ込められて、余命わずかで、しかし見た目は健康そうな病気って、一体何なんだろう。
外見上の変化がないのに余命宣告を受けているなら神経変性疾患?
外部環境に極端に弱く隔離が必要なら、免疫不全系や皮膚科系の難病だろうか。
事務所に行けば答えが分かるかもしれない。
「……少し、事務所に行ってくる。二人とも喉が渇いただろ? お茶のコップを持ってくるよ」
「わかったわ!」
ダビドは少し面食らっていたが、希子さんの方が軽快に頷く。
ぼくは二人を置いて上階に出た。
静かな廊下。
監視カメラのランプが点滅しては廊下を赤く染めていた。
時折甲高い電子音が鳴る。
遠くから、機械の動作音と、職員の疲れたため息が聞こえていた。
すると、遠くで衣擦れの音がした。
振り向くと四歳ほどの幼児が廊下に倒れている。
「……きみ、大丈夫か?」
声をかけても意識が朦朧としているようで返事がない。
額に汗が滴り、息が浅くなっていて、熱射病になりかけていることがわかった。
冷房の効いた休憩室まで移動させ、自販機で買った水を飲ませてやる。
救護のため、希子さんの病状どころではなくなってしまった。
「おにいちゃん、ありがとう。ぼく、おとうさんとおかあさんのおしごとが終わるのを待ってたんだ」
「きみ、名前は?」
「とつみや、あさひ」
健気に呟く子ども。
どこかで聞いた名前だなと違和感を覚え、少し経ってから気づいた。
この子の顔立ちに見覚えがある。
「お母さんの名前、言えるかな?」
「とつみや、ゆみこ」
「……お父さんは?」
「ゆうしん」
子どもはぽつりと呟いた。
そこで確信した。
自分たちは恐らく異母兄弟だ。
旭くんは気づいていなくとも、ぼくは目の前の子どもの『お兄ちゃん』なんだ。
目の形が、父と――ぼくともよく似ている。
手に汗が滲む。
幼い弟を目の前にして、感情が整理しきれないまま、自己嫌悪すらにじんできた。
弱った子どもを庇護してやりたかったはずなのに、助けたことを後悔してしまう。
ぼくは、旭くんに優しくしてやるべきなんだろうか?
やめよう。
感情を殺せ。
とにかく早く母親に預けたい。
弓子さんを探すと、彼女は我が子そっちのけで希子さんの食事を丁寧に取り分けていた。
「弓子さん。旭くんが廊下で倒れていましたよ」
「あら坊ちゃん、悪いけど旭を休憩室まで連れて行ってくれないかしら」
「……分かりました」
弓子さんの軽い調子に腸が千切れそうになりながらも、ぼくは頷いた。
ぼくは雄真や弓子さんとは違う。
幼い子どもを無責任に置いて行ったりなんかしない。
すると旭くんがぐずり始めた。
「どうして? おかあさんといっしょがいい!」
「後でね。希子ちゃんは病気だからお世話をしてあげなくちゃいけないのよ。旭は元気だから大丈夫よね? 我慢できるよね?」
「……うん、できる」
彼は大人しく頷いた。
だが大きな目は潤み、落ち着かずに指を弄っている。
弓子さんはマスカラで縁取られた睫毛を伏せる。
「手間をかけてごめんなさいね。雄真先生が『希子は特別だから』ってよく言うの」
彼女の言葉が妙に引っかかった。
冷血な父が子どもに優しいなんて、らしくない。
希子さんは大財閥の娘だから、金蔓として気を遣っているのだろうか?
「旭くん、休憩室まで行こうか」
小さな手を引く。
旭くんは服の裾を握って気を紛らわしていた。
「ぼくね、おかあさんに遊んでもらえなくても、おとうさんに『えらいぞ!』って言ってくれるように、がんばるんだ! おとうさん、忙しいけど大好きだよ!」
彼の言葉を心の中で反芻し、胸が締め付けられる。
ぼくも昔はそう思ってた。
けれど、きみがどんなに期待しても、雄真から愛情や関心は得られない。
雄真は決してきみを愛さない。
いつかはきみも捨てられる。
きみがいくら頑張っても、最終的には道具として扱われるだけだ。
今だって、廊下に放置されて熱射病になりかけていただろう?
ぼくがとっくに理解していることを、弟はまだ気づいていない。
旭くんの純真な姿を見ていると、本当は自分も愛されたかったのではないかという残酷な問いをはっきり突きつけられてしまう。
十五歳の冷淡なぼくの奥底に、もっと幼い子どもが一人ぼっちで佇んでいる事実を、認めざるを得ない。
「……捨てられるなよ」
漏れた呟きに戸惑う。
なんで、こんなことを言ったんだろう。
休憩室をのぞけば、職員がカップ麺を食べており、ぼそぼそと会話が漏れ聞こえていた。
顔見知りの太った看護婦が声をかけてくる。
「あら坊ちゃん。先生のお使い?」
「いえ、今日は私用で」
そうだ、ぼくはもともと希子さんの病状について調べに来たんだった。
カルテは見れなくても、面会簿くらいなら。
「すみません。文島希子さん付けになってる対話ボランティアの名簿ってどこに保管してありますか? 登録書類を確認しておきたくて」
「ふみしまのりこ? 誰よ? それ」
太った看護婦はオウム返しで答えた。
「地下の病棟にいる、小学生の女の子です」
「……私は聞いたことないわ。老人向けのサナトリウムに小学生がいるはずないじゃない。面会に来たご家族じゃないの」
何を言ってるんだ?
普通、どんな病院でも患者リストは基本的に一元管理され、少なくともスタッフの間では把握されているはずなのに、希子という名前を知らない、というのはかなり異常な反応だ。
わたつみは本当にザルだな。
結局、休憩室での収穫物は無いまま病室に戻った。
「マセガキだな。希子」
ダビドは大きな口をあけて、眠そうにあくびをしていた。
二人はどんな話をしていたんだろう。
帰り際になって、ぼくはふと、わたつみの廊下の壁を見上げて立ち止まった。
『ヒポクラテスの誓い』のポスターが貼られている。
医療従事者なら必ず教わる、医師が医療についての倫理をギリシア神に誓う文章だ。
ポスターの一節が目に入った。
――この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう。しかし、万が一、この誓いを破れば、私はその反対の運命を賜るだろう。
ポスターはかなり古くなっており、紙端は文字が滲んでもはや読めなくなっていた。
硝子島の医療倫理など完全に崩壊している。
雄真や弓子さんはこんなポスターなど気にもとめていない、どうせ壁に飾ってても無意味だろう。
指先で剥がそうとしたが、すぐに冷たい湿気がまとわりつき、その不気味さに手を離してしまった。
手を離した理由を自分でもはっきり言語化できないまま、ただ苛立ちだけが募る。
父は、なぜ突如サナトリウムを開業したのだろう?
「なにしてんだ?」
するとダビドもポスターが気になったようだ。
目を細めて漢字を辿り、それからぼくを見やる。
「なあ、この難しいポスター何だよ?」
「偽善」




