ラプンツェル
ふと顔を上げれば、病室の壁には、色鉛筆で描かれた絵が何枚も飾られている。
子どもたちに囲まれて微笑むお母さんを描いた作品だ。
希子さんはまだ、自分が家族に捨てられたと思いたくないのだろう。
いつか迎えに来てくれると信じたい。
でも一方では、もうわたつみの外の世界に戻ることはできないとも理解しているはずだ。
どうしようもない二律背反が、壁に飾られた家族の絵にも表れている。
「そうだわ! 真理、これ、お礼のお手紙よ」
彼女はベッドサイドテーブルを探り、無数の千羽鶴や水銀体温計を押しのけて、ハート型に折った折り紙を渡してきた。
「ねえねえ。開いてみてー」
彼女は身を乗り出して、ぼくの二の腕を人差し指でつついて、甘えた声でねだる。
折り紙を開いて中に書いてあったメッセージを読んだ。
『真理へ!
いつも遊びに来てくれてありがとう。あなたのこと大好きよ。次に来るときは、何か面白い本を持ってきてね。『ラプンツェル』がいいわ。
希子より!』
無邪気な感謝のフレーズを視線で追い、思わず顔が綻ぶ。
塔に閉じ込められて外の世界を夢見る童話のお姫様に、サナトリウムで過ごす自分を重ねているのだろうか。
そして我に返って真面目な顔を取り繕った。
何が嬉しいんだ、こんなのただの安っぽい手紙なのに。
希子さんの細々としたおつかいはいつのまにか日常になっていた。
最初は海の貝殻、次は櫛、そして昔学校で読んだ『ラプンツェル』。
希子さんは無邪気に大喜びしてくれるし、一つ一つは大したことのないお願いなので悪い気はしない。
余命わずかで病室に幽閉されている彼女にとって、自分の意思で誰かに頼みごとをするという行為は、単なるわがままではない。
誰かとの繋がりを通した自分の存在確認や、かつての生活の無意識な再現に近いのではないか?
頼みごとが続いている間は、自分はまだこの世界に存在している、生きていると確認できる。
逆に、ぼくが何もしてくれなくなったら、彼女の世界は本当に孤独になってしまうだろう。
「真理って、何でもできるし、何でも知っているのね。おとぎ話の賢者さまみたい」
「……それは、きみの思い込みだ」
目を伏せた。
希子さんを悲惨な運命から守ってあげたいのに、何もできていない。
内心の葛藤など露知らず、希子さんはお人形を抱きしめて、恥ずかしそうに切り出した。
「あのね……真理。またお願いしてもいい?」
「今度は何なんだ?」
希子さんの『おつかい』が当たり前になっているけど、断る理由が見つからない。
死後の解剖の運命から守るだけではなく、彼女を喜ばせるために何かしてあげたい……と、思っているのだろうか。
自分らしくないけど、不思議と嫌じゃない。
……なぜ、嫌じゃないんだろう?
「名古屋にいた時は友達がお見舞いに来てくれていたけど、硝子島に来てからはみんな離れてしまって、友達なんてあなただけよ。本当は普通に暮らしたいし、また学校に通いたいけど、それはできない……」
ベッドのシーツを握りしめて、目を伏せる。
いつも素直な彼女が、普段よりも少し躊躇う素振りを見せていた。
「……だから、……もし、良かったら……あなたのお友達を紹介してくれないかしら」
どんな大変なお願いをされるかと思えば、拍子抜けしてしまう。
「大袈裟だな。友達を紹介するって、そんなに大事なのか?」
「ええ。でも……やっぱり難しいわよね……ごめんなさい」
目を伏せて一瞬唇を噛む希子さん。
恐れと期待を天秤にかけているような仕草だ。
「……まあ、構わないよ」
ため息混じりの笑みを漏らした。
そもそもぼくに友達と呼べる人間などほとんどいない。
ただ先日、ダビドと島を出たいと語り合った記憶を思い出した。
彼は学校では粗野な問題児で通っているが、馬鹿げたからかいさえ受けなければむしろ大人しくて穏やかだ。
ダビドなら対話ボランティア(という名の小学生のお守り)を手伝ってくれるだろう。
希子さんだって、歳の割に素直で聞き分けがいい。
それに、一人ぼっちの希子さんには――優しい人が必要だと思うから。
ほんのひとときでも、死を恐れずに笑うことができたら、それはきっとこの上なく幸せで貴重な時間だろう。
「心当たりが一人いる。同級生のダビド」
「外国の子なの?」
「両親は外国人で、本人の生まれ育ちは硝子島だよ」
「ふうん。ねえ、ダビドってどんな人なのかしら?」
「言葉足らずだけど、悪い奴じゃないよ。中古修理屋でバイトをしていて、手先が器用だからぼくの自転車も修理してくれた。身長は百八十センチくらいあって、ボクサーみたいにがっしりしてる」
「とても背が高いのね」
長いまつ毛に縁取られたアーモンドアイが、ぱちぱちと瞬く。
少し緊張しているけれど、彼女なりにダビドに興味を持とうとしているようだ。
すると病室のドアが開いた。
弓子さんが無言でドアの外から中を覗き、低く告げる。
「時間よ」
ドアがゆっくり閉まる。
まるでぼくたちのやり取りを監視していたかのような静かな目だった。
希子さんはベッドに座ったまま手を振る。
「真理、また遊びに来て頂戴ね」
「うん、またね」
部屋を出ると、廊下の消毒液の匂いに咳き込んだ。
わたつみにいる限り、この匂いが当たり前になってしまうんだろうか。
慣れたくない。




