胸が苦しいのよ
土曜日の朝礼にて。
波多は、体育サボりの咎でダビドを殴り飛ばした。
それから席に戻った彼に延々と説教を始める。
ダビドは、彼の体格には窮屈すぎる机に座って頬杖をつき、波多を睨みつけながら小刻みに貧乏揺すりを続けていた。
鈍色の灰髪に強い日差しが落ちて、年を食った囚人のように見える。
一部始終を見ながら、ぼくは、ダビドとお互いの境遇が逆ならもっとうまくやれたかもなと考えた。
波多は、ぼくに対しては愛想笑いで軽く注意しただけだったのだから。
「雄真先生の息子なんだから気をつけんと、あんなバカとつるんだらオマエもバカになるで」と。
優等生と不良、『わたつみの坊ちゃん』と『露助の息子』。
実際、ぼくがダビドの体格と力を持っていたら、もっと直接的な方法で島の人間関係を切り抜けていたかもしれない。
逆に、ダビドが名士の息子という立場を持っていたら、もう少し違った方法で居場所を作れたのではないか。
だが、現実はそうではない。
ぼくらはそれぞれ、形の違う鎖に縛られている。
ダビドの貧乏揺すりが徐々に大きくなっていく。
「オマエ、また親困らせて迷惑かける気か!」
その言葉がトリガーになったようだ。
ダビドは無言で立ち上がり、自分の椅子と机を薙ぎ倒したかと思うと、最終的に太い腕を振るって窓ガラスをたたき割ってしまった。
破片が飛び散り、周囲から悲鳴が上がる。
ダビドは血だらけの手を拭いもせず鞄を手に取り、無言で帰宅していった。
「またかよ……」
「あいつ、やばくね?」
クラスメイトがざわめく。
いつも大して関心のない生徒が、何の感情も見せず鼻で笑っていた。
美保さんは心配そうにダビドの席を見て、呆れたようにため息をつき、ぽつりとつぶやいた。
「ダビドってば……」
ダビドの心の痛みと、怒りの持って行き場のなさをぼんやりと考えた。
――だって、人は殴りたくないし。
彼はきっと、外見や口ぶりほどに粗野ではない。
お前の居場所はここではないと言われるたびに、彼の繊細な心は人並みに傷ついている。
けれど、音読を馬鹿にされても、商店で嫌味を言われても、クラス全員の前で吊し上げられても、彼は相手を殴ることだけはしない。
彼が窓ガラスを叩き割った理由は自傷的な抗議だ。
その点で彼は暴力的な人間ではない。
むしろ、暴力を振るわないようにぎりぎりの自己制御をしているのがわかる。
そして、自分を語る言葉を持たない彼の葛藤や抵抗は、決して他人には伝わらない。
ただ彼の中で燻り続けるだけなのだ。
眼鏡のフレームを押し上げる。
以和為貴――和を以て尊しとなす。
教室の黒板の上に貼られた明るいクラス標語が、今日はやけに虚しく見えた。
翌日。
わたつみの地下病棟訪問は、ぼくの毎週日曜日のルーティンになっていた。
希子さんはベッドにぐったりと寝そべっていた。
顔からはすっかり血の気が引いて真っ白だ。
「きみ、大丈夫か」
「最近……胸が苦しいのよ」
彼女は咳き込んでから、小さく呟く。
扉が開いて、お付きの看護婦・弓子さんが入ってきた。
彼女は特に焦った風もなく、淡々と、飲み薬の瓶の蓋を開けた。
ラベルのない透明な瓶は何かの液体で満たされていた。
「希子ちゃん、安心して」
希子さんが震える手で薬を飲み込む。
白い喉が小さく蠢く度に、不思議と視線が引き寄せられた。
弓子さんもまた、口元だけで薄笑いを浮かべながら少女を観察している。
空になった瓶を机の上に置いて、希子さんが力なく笑う。
「……少し、温かくなったわ。わたし、これを飲まないと眠れないのよ」
長い睫毛に縁取られた瞳が、一瞬金色に光った気がした。
訝しんで瞬きをすると、いつの間にか元に戻っている。
気のせい……だったのだろうか?
ぼくは疲れているのかもしれない。
弓子さんは長い首をもたげて、希子さんをじっと覗き込んでから、彼女の頬をゆっくりと撫でた。
「希子ちゃん、いい子にしててね」
すぐ良くなるからね、無理しないでね、じゃないんだ。
まるで監獄の看守のようだ。
しかし希子さんはサナトリウムの地下で死を待つ患者だから、安易な慰めは無意味どころか逆効果なのかもしれない。
先ほど彼女が飲み切った空き瓶を手に持つと妙に重かった。
ふと内側を覗き込むと、油膜のような光沢が金色に光っている。
通常、薬液は無色透明か白濁色が多いから、金色なんて完全に異質だ。
金色の飲み薬なんてまず存在しないし、仮にあったとしても常識的な薬には思えない。
といっても透明な液体ならよくあるし、光の加減で金色に見えることもあるだろう。
きっとモルヒネ類似の鎮静剤の一種だ。
興味はあるが、単なる興味以上に深入りするつもりはなかった。
弓子さんが空き瓶を回収して部屋を出ていったので、ぼくはベッドに横たわったままの希子さんを見やった。
「希子さん。この前頼まれてた櫛、買ってきたよ」
「うれしいわ! ずっと、弓子さんに髪を梳いてもらっていて……ありがとう」
「院内の売店で買った安物なのに」
「どこで買ったかなんて、どうでもいいのよ。真理がわたしのために選んでくれたんだから、嬉しくて、わたしにとって特別な贈り物になるの」
頼まれるままに買ったものだが、彼女は大きな瞳を二、三瞬かせて、うつむきがちに笑った。
白いプラスチックの櫛の先を指先でなぞる。
「わたしね、今まで自分で髪を梳かしたことがないの」
「きみの髪、腰くらいまであるのに?」
「ええ。いつも周二お兄ちゃんが梳かしてくれていたから……」
希子さんは照れくさそうに俯いている。
名古屋では箱入りお嬢様として守られていたらしい。




