未来の夢物語
時計の秒針の音がしてはっと我に返る。
腕時計の文字盤はもう午後六時をさしていた。
沈みかけの日差しが、窓から壁に長い影を落としている。
父が帰るまでには絶対に家にいなければならない。
先週末も繁浪から外出を注意された。
「ダビド……ぼく、そろそろ帰るよ」
もう現実に戻らなきゃいけない。
楽しい時間の終わりが近づくと、背中がこわばる。
楽しかった。でも……帰宅後が怖い。
父はまだ診療所やわたつみにいるのだろうか、もう家で待ち構えているのか。
門限に間に合わなかったら絶対に殴られる。
波多先生から親に連絡が入っているかもしれない。
裏口から入ろうにも、鍵を開ける音で、すぐに母が気づいてしまうだろう。
学校に置きっぱなしの鞄や自転車はどうしよう。
玄関で帰り支度を始めても、靴を履く手に力が入らなかった。
裸電球の光がちらつく。
ふと視線を落とせば運動靴の靴紐が緩んでいると気づいた。
わざと指先でほどいて、もう一度丁寧に結ぶ。
ゆっくりゆっくり紐を引いていると、冷えた指先がじんわりと温まってきた。
後ろから笑い声まじりに、
「おまえ、結ぶこと遅いな」
「……結び方を間違えたんだよ」
床の磨り減ったタイルに視線を落としたまま返した。
言えない。
ここから家に帰りたくないなんて。
まだ一緒に遊んでいたいだなんて。
ため息を誤魔化しそのまま玄関を出ようとすると、後ろからいきなり強く肩を掴まれた。
「……っ谷崎、待て」
「何か用?」
肩に力が込められていて、痛い。
ダビドは力の加減が苦手なのかもしれない。
怪訝な顔で振り向くと、彼の表情には焦燥が滲んでいた。
「……月曜日、美保と夢の話しただろ」
「それがどうかしたのか?」
ダビドは遠くに見える海辺に目をやった。
傾きかけの日差しを見て、眩しそうに目を細める。
「伯父さんの、島でやってる仕事は、怖いんだ。港で変な箱を運ぶらしい。小さい頃、伯父さんが港で血だらけの箱を隠してた。あのとき、風が血の匂いがした。警察が来たら終わりだよ。おれは関わりたくねえ」
おそらく、密輸や殺人のような裏稼業だ。
「でも……お母さんが『伯父さんの会社に行ったら、あの子もやっていけるはず』って電話してた」
そう言われて、スミルノフ家の奥のキッチンを見やった。
玉すだれの向こうでダビドの母が夕飯を作っている。
鍋の煮える音に混じり外国語のラジオ放送が聞こえてくる。
異国の料理の匂いに微かに焦げくささが混ざっていた。
「おれ、ばかだし、……お父さんたちは日本人にならないし、いつまで、日本にいられるか分からないし……。伯父さんの家に行ったら、おれもお父さんとお母さんの役に立てるかもって。おれ、二人に喜んで欲しいけど……それって、いいのかなって……」
淡青の瞳は、埋めようがない欠落を抱えているように見えた。
人目がないから揶揄われることを気にしなくてもいいとはいえ、ダビドはところどころつっかえながら切り出した。
必死に自分の言葉を探している。
だからぼくは急かさないし、聞き返さないし、何も言わなかった。彼の思いを、彼自身の言葉で聞きたかった。
両親は、行き場を見つけられない息子でも裏社会に行けば生きていけると思っている。
危険だと分かっていても伯父に頼らざるを得ないほど困窮しているのだろう。
だけどダビド自身はそこに行きたくないし、貧困から抜け出すための犯罪に抵抗している。
「月曜日、谷崎と美保と話して……おまえも硝子島が嫌なんだって思った。硝子島にいたくないって考えてるのおれだけで、おれがおかしいのかと思ってたけど。……おまえもそうなんだ」
ダビドは力強く微笑む。
「おまえは『わたつみの坊ちゃん』、おれは『露助の息子』だろ。おれたちよそ者なんだからさ。どうせよそ者なら、こんな島一緒に出て行こうぜ」
沖にせり出した灯台の光が、ぼくたち二人を交互に照らし出している。
灰色の髪が風に揺れ、まばゆい光を受けては淡くきらめいていた。
雲ひとつなく澄みきった空。
「……それなら、まずは、船賃を貯めるところから考えようか」
ダビドが安堵したように表情を綻ばせたので、ぼくもようやく笑えた。
伝わったんだな。
交差点までの未舗装の道を並んで歩く。
「なあ、島を出て大人になったら何したい? おれはあったかい家が欲しい。嫁さんと子どもがいて。犬とか飼ってさ」
中学生男子らしくない夢だった。
けれど、この古い家を見ていたら納得してしまう。
難民二世という根無草、家では兄の死によって負い目がつきまとう。
だからこそ、彼は温かい家という目標を持つのだろう。
両親が叶えられなかった夢であり、彼自身喉から手が出るほど欲しくてもずっと得られなかったものだから。
するとダビドはぼくを見下ろす。
「谷崎、おまえは?」
「ぼくは……」
話を振られ、口を開いたが、すぐに閉じた。
島の高校へ進学して、医大へ行って、いずれは父を継ぐ未来こそ当然だと思ってきたから、今まで個人的な夢なんて考えていなかった。
医者になる以外に何がある?
将来どこでどう暮らしたいか、そもそも他人と家庭を持ちたいのかというビジョンさえ全く浮かんでこない。
かろうじて絞り出したのは、
「……静かな部屋に、コーヒーメーカーを置きたい」
声が小さくなる。
父が聞いているわけでもないのに、自分の意思や感情を口にすることが怖かった。
大きな家で妻子と暮らすという野心に比べると、ぼくの夢はあまりにも惨めで、みすぼらしく見える。
でも、それこそがぼくの素直な感情だった。
それが心の底から欲しかった。
誰にも踏み込まれない静かな部屋にこもりたい。
誰かの期待を背負わなくていい空間がほしい。
誰かの怒鳴り声や視線を警戒しなくてもいい場所がほしい。
「そんだけ?」
ダビドは口をぽかんと開けて唖然としていた。
「もっと、なんか……オーダーメイドの、スーツとか、高い車とか、あるだろ」
「きみにしては名案だ。採用しよう」
「おまえ、パクんなよ、偉そうに」
小突かれた。二人分の笑い声が響く。
「コーヒーメーカー、一番高いやつを買おう。一番高いやつって、何円くらいするんだろうな?」
「きみもしっかり稼げよ」
そろそろ最後の便が出るのだろうか、遠くから本土行きのフェリーの汽笛が低く唸っている。
砂利道を踏みしめて歩く二人分の足音が鈍く響いている。
二人とも、本当は無理だって分かってた。
中学校の体育の授業を抜け出すのとは訳が違う。
中学生を易々とフェリーに乗せてくれるわけがない、島外に出ても住む場所も仕事もない、本土なら島よりマシという保証はどこにもない。
分かっているけど、それを言ってしまったら終わりだ。
たとえ叶えるまでの道のりが遠いとしても、語ることは救いになりえる。
これから孤独に打ちのめされても、残酷な言葉を向けられても、暴力で捩じ伏せられても、胸の希望は決して消えない。
未来の夢物語の中でなら、ぼくたちはどこへでも行ける。




